一陣のつむじ風(1)

 年度が変わり、華音は今日から高校二年生となった。


 この一年で、華音を取り巻く環境は一変した。

 昨年の今頃――桜咲くこの季節には、祖父と二人でこの大きな洋館に暮らしていた。もちろん住み込みの執事や通いの家政婦がいたため、祖父と二人の暮らしでも寂しさを感じることはなかった。

 それに何といっても。

 祖父の愛弟子が、華音のそばにいつもいてくれた。


 それがどうだろう。

 その存在すら知らなかった男が、今日からこの家で暮らすこととなる。



 華音は朝から緊張していた。

 どうにも落ち着かず、遅々として進まぬ壁掛け時計の針に、何度も何度も目をやってしまう。

 鷹山は、芹沢邸を仕事場として九ヶ月近く出入りしていたのだから、いまさら緊張するような間柄でもないはずだった。それでも、鷹山とプライベートの時間を共有するということは、華音にとって未知の経験である。

 これまでも、仕事の合間にじゃれるようにして時間を過ごすことはあったが、一緒に暮らすとなるとまた別の一面をお互い晒さなければならないだろう。

 どうなるのか、華音には皆目見当がつかない。緊張しないでいられるはずもないのである。

 不思議なことに、執事の乾が華音以上に落ち着きがなかった。先ほどから何度も廊下を往復している。


 程なくして、鷹山が芹沢邸へ姿を現した。

 いつもの仕事時に訪れるときと特に変わらない。荷物は愛用のカバンひとつだけである。

 華音は玄関で彼を出迎えた。


「え……っと、おはようございます」


「おはよう、芹沢さん」


 鷹山も少し緊張しているのだろう。彼の大きな瞳が華音の顔を真正面にとらえる。そして照れたような微妙な笑顔で、今日から宜しく、と素早く言った。


「鷹山さん、マンションのほうは?」


「さっき不動産屋に寄って、鍵も返してきた」


 ここへ来る間に、手際よく手続きをすませてきたらしい。

 鷹山はゆっくりと辺りを見回すと、大きく深呼吸をした。


「僕の荷物はどこですか?」


「大きなものは取り急ぎ、一階の客間へ運んであります。もちろん、お好きな部屋をご用意いたしますよ。空いているお部屋はたくさんございますので」


 乾は嬉しそうに鷹山の問いに答えながら、いつも以上に気配りをみせている。

 その乾の興奮の仕方が、華音の目にはひどく滑稽に映った。


「じゃあ、英輔先生の使ってた部屋は? あそこなら書斎も近いし、いろいろと都合がいい。可能ですか?」


「もちろんでございます。あのお部屋は日当たりも良いですし、広くて過ごしやすいかと」


「まあ、広くたって、きっとすぐに散らかるでしょうけど」


「大丈夫でございますよ。掃除は家政婦がいたしますので」


「いや、いいですよ。芹沢さん、掃除は君がやって」

 鷹山の無茶振りに、華音は青ざめた。


「ええ? そんな……」


「音楽監督命令」


「そうやって、都合のいいときだけ権力振りかざさないでください」


「いいだろ、そのくらい。やってくれよ」


 いつものように他愛もない言い合いを続けているうちに、乾がじっとこちらを見ていることに華音は気がついた。

 実の兄妹であることは知っていても、恋愛関係にあることは知らないはずである。不審がられてしまったらどうしよう――華音はすかさず口を閉ざした。


 鷹山は気づいているのかいないのか、華音の目の前でいまだにああでもないこうでもないと、喋り続けている。


 しかし、乾の思惑は別のところにあったようだ。慈しむような眼差しで、じっと鷹山の顔を見つめている。

 やがて、乾は鷹山に深々と頭を下げた。


「本当に――お帰りなさいませ、坊ちゃま」


 ようやく、鷹山のよく喋る口がおとなしくなった。

 執事の発言に、聞き捨てならない言葉が混じっていたからである。


 ――『坊ちゃま』。


「乾さん、僕は……」


「承知しております。今まで通り、鷹山様と。しかし今日だけは、お許しください」


 鷹山は黙った。

 その大きな瞳は、乾の白髪混じりの髪をとらえたままだ。


「私に力がないばかりに、坊ちゃまには不憫な思いをさせてしまいました。卓人様の大切な大切なご子息を、私は――」


 乾は華音の父親であった人物の名を口にした。


 長きに渡りこの芹沢家に仕えてきた乾にとって、芹沢英輔の一人息子である卓人は、特別な存在だったはずである。勘当同然に芹沢家を出ていったあとも、乾はその身を案じ、しばしば様子を確かめに卓人のもとを訪れていた。

 そして、十五年前。

 仕える芹沢英輔とその夫人の意向に逆らうこともできずに、幼い兄妹を離れ離れにさせてしまった――その罪悪感が、ずっと乾を苦しめていたに違いない。


「仕方がないよ、僕は父さんにまったく似てなかったからね」


 鷹山は吐き捨てるように言い放った。

 その口調の変化に、華音は思わず目を瞠った。冷酷なまでの美しい鷹山の横顔が、華音のすぐそばにある。


「僕はこの家の人間にひどく嫌われてた。第一僕はもう、芹沢の名を失くしてしまったんだから」


「何を仰いますか! 私はよく存じております。楽人坊ちゃまは卓人様とご気性が本当にそっくりでいらっしゃいます。親子に間違いはございません。坊ちゃまは、確かに芹沢の人間でいらっしゃいます!」


 乾は興奮気味に、鷹山の右腕をつかんで揺り動かした。


 鷹山が芹沢家の人間であるということは、華音もすでに分かっている。分かってはいるのだが、今まで鷹山がそういう言動を極力避けていたため、なかなか認識できずにいた。


 鷹山楽人という人間は、祖父の二番弟子。

 ウィーンで修業していた、不敬不遜な態度の男。


 それだけだったはずなのに――。



 華音は思わず執事に聞き返した。


「へえ……そうなんだ。お父さんって、こんな人だったの?」


「なに、その不審な目」


 見下ろす鷹山の瞳が、怜悧な輝きを帯びている。

 華音はこれ見よがしにため息をついて、白々しく呟いてみせた。


「こんな人が二人もいたら、大変だろうなー……って」


「どうしてそういう言い方しかできないんだよ。いつだって君はそうやって僕につっかかってくる。いったい何なの? 僕に恨みでもあるの? 残念だけど、僕にはまったく身に覚えがないからね」


 そういうところでしょ、と喉まで出かかった。しかし、何とかこらえる。

 つっかかってくるのはいったいどちらなのか――華音はまともに相手にするのを、すでに諦めていた。

 良い意味でも悪い意味でも、賑やかな暮らしになるのは間違いなさそうである。



 色褪せた過ぎ去りし日々に思いを馳せるように、乾はその目をゆっくりと細めた。


「お二人のやり取りを拝見していますと、若き日の卓人様と鞠子様を見ているようで……いつも楽しそうでしたよ」


 華音の知らない両親の姿。

 決してこの芹沢邸では聞かれることはなかった、幸せな若き家族の声。

 鷹山と華音の他愛もないやり取りが、乾の胸に何物にも代え難い喜びを満ちあふれさせているようだった。


「やっとこの家に、戻ってきてくださった……本当に」


 執事は何度も何度も、繰り返し頭を下げる。

 鷹山は母親似の大きな瞳を何度も瞬かせ、途惑ったように軽くため息をついた。

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