天国の両親に誓って(2)

「美味しい?」


 ふふん、と鷹山は笑っただけだった。

 つき返さずに黙って飲んでいるということは、とりあえず合格点ということなのだろう。

 鷹山はいったんカップをソーサーに戻し、デスクの引き出しを開けると、中から企画書の束を取り出した。


「君の企画書ね、少し詳しく聞きたいんだけど」


 遠目でも、企画書にはびっしりと赤ペンで書き込みがされているのが分かる。

 鷹山は、華音を演奏会の企画をするプランナーとして育てようとしている。

 華音にとって、こけら落としがいきなりのプランナーデビューとなったが、そのあとも鷹山はいくつも企画書を書かせては、目に留まったものについて、こうやって説明を求めたりするのである。


「ええと……お客様の要望アンケートで、リクエストが多かったんです」


 華音が企画したのは、ヴァイオリン協奏曲だ。別に特別なものではない。どこのオーケストラの演奏会でも普通に採り上げられている内容である。


「確かに芹響はコンチェルトを得意としてるからね。ピアノだったら和久さんだし、ヴァイオリンなら英輔先生が目をかけている若手がソロを務めるのが通例だったはずだよね。それで? 君はどうしたいの?」


 鷹山は得意の弁舌を活かし、矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。


「有名な曲がいいと思います」


「ふうん。どうして?」


「奇をてらうには、オーソドックスなレパートリーがあってこそだから」


「なるほどね。有名って、例えば?」


 今日の鷹山は食いつきが良すぎる。なかなか引き下がろうとはしない。

 手当たり次第思いつくまま企画書を書いているため、ひとつひとつについて深く考えたことなどないのである。

 華音は苦しまぎれに答えた。


「えっと……たくさんCDとかになってるやつ」


「シベリウスとか、ブルッフとか? ……あー、なんか分かってないって顔してるな」


「すみません」


 華音は素直に謝った。

 鷹山はコーヒーを一気に飲み干すと、デスクから立ち上がった。そして、そのまま書斎を出ていこうとする。

 何か気に障るようなことでもしたのだろうか――華音は鷹山の背中を見送ったまま、その場に立ちすくんでいた。

 ドアを開けたところでようやく鷹山が振り返った。片手でドアを押さえ、もう片方の手で華音を手招いている。


「ほら、ついてきて」


「どこに?」


「下の練習室。早く」


 急かす鷹山の表情は、予想に反して優しいものだった。

 華音は胸をなで下ろし、すぐさま彼の指示に従った。




 一階の練習室はいくつかあるが、鷹山が選んだのは一番大きな部屋だった。

 ここはグランドピアノのほかに、カルテットの練習ができるほどの余裕がある。防音のため、小さな天窓しかない。昼間でも電気が必要な、薄暗い空間だ。


「君は僕の隣に座って」


 鷹山に言われるがまま、華音は彼の左側に並ぶようにして横長の椅子に座った。


「シベリウスは――この辺りの旋律が有名かな」


 鷹山は鍵盤に右手を載せ、わずかな迷いも見せずに、頭の中に描いた音を再現してみせる。

 実際には、ヴァイオリンソロのパートであるらしい。


「ああ、聴いたことある……かな」


 華音の記憶は曖昧だ。芹響が演奏したことのある曲なら大抵は分かるが、ヴァイオリン協奏曲はピアノ協奏曲に比べて、採り上げる回数が少ないのである。


「次はブルッフ。僕、これ好きなんだ。これも有名だよね」


 有名という認識は、鷹山と華音では随分と開きがある。

 もともとヴァイオリンを専門として本場ヨーロッパの音楽に触れていた彼と、日本の演奏会で聴いているだけの自分では、同じ舞台に上がれるはずがない。


「そしてこれが、チャイコフスキー」


「あっ…………これ」


「意外と難しいんだ、この曲。特に第三楽章」


 懐かしい旋律に、華音の心は静かに震えた。

 この曲だけは、はっきりと分かった。過去の記憶が鮮明に呼び起こされる。



 三年前。

 芹響の定演で、一番弟子の富士川がヴァイオリンソロを務めた曲である。

 富士川は初めてソロを任されて、毎日毎日狂ったように練習していた。

 寝食忘れて没頭するあまり、とうとう倒れてしまい、入院する騒ぎにまで発展したのである。


 ――この部屋だったな……祥ちゃんが練習してたの。


 いまでも耳を澄ますと、ヴァイオリンの旋律が聴こえてきそうだ。



「手を出して」


 鷹山の声に、華音は我に返った。現実世界に引き戻される。

 隣に座る男の表情を確かめると――彼の綺麗な横顔が微笑んでいた。


「一緒に弾こうよ」


 鷹山の左手が、華音の腰を引き寄せる。


「別に、まったく弾けないわけじゃないだろう? ちょうちょ、とかさ」


 いくら楽器演奏の素養がないとはいえ、童謡の旋律くらいならピアノで弾くことはできる。

 華音は、腰を抱く鷹山の左手に自分の左手を重ね合わせ、右手を怖々と鍵盤の上へ移動させた。



 重なりゆく音。

 しかし、耳につくのはオクターヴではなくて不協和音。



 鷹山が奏でたのは、まったく別の旋律だ。繊細そうな長い指が、鍵盤の上を跳ねるように動き回っている。

 華音は面倒臭かったが、渋々ツッコミを入れてやった。


「……それって、ちょうちょじゃなくて、『蝶々夫人』でしょ」


「はい、正解。へえ、すごいね君、天才だ!」


 鷹山はわざとらしく大袈裟にはしゃいでみせた。いつものことながら、人を小馬鹿にしたような表情で、華音の顔をしげしげと覗き込んでくる。

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