十五年前のあの日へ(2)
廊下の真ん中で呆然と立ち尽くしていると、華音は背後から女性に声をかけられた。
「待って、華音さん」
藤堂あかりだった。
柔らかなファーを襟にまとったアイボリーのコートにスエードの手袋。手にはヴァイオリンケースを携えている。
辺りに広がるムスクの香り。
あかりは芯の通った眼差しを、しっかりと華音に向けている。
「監督から何かを?」
いつから見られていたのだろう――華音は愕然となった。
先程は周囲に人影は見当たらなかった。見られていたとしてもおそらく遠目。ハッキリとは分からなかったはずだ。
きっとカマをかけているのだ――華音は努めて冷静を装って、あかりに向き直った。
「……いえ、何でもありません」
「本当にこのままで、いいんですか?」
「どうして、そんなことを言うんですか?」
彼女が何を言いたいのか、華音には何となく察しがついた。しかし、あえてはぐらかすように聞き返す。
あかりは続けた。
「……分かりません。監督は非常に華音さんのことを気に入っていらっしゃるようですけど――」
言葉を濁してはいるが、きっと気づいている。
音楽監督の鷹山が、華音を部下として重用しているだけではない、ということを――。
「華音さんのことが心配なんです、とても。私がこの楽団に留まっているのは、富士川さんがいつかこの楽団に帰ってきてくれることを願って、ただそれだけなんです。……私があの夜、華音さんに言ったことを覚えていらっしゃいますか?」
あの夜。
鷹山の腕を刺した、あの日の夜だ。
あかりは忌まわしき惨劇の、唯一の目撃者である。
「私は、富士川さんの帰る場所を守っているだけなんです。芹沢先生の名ばかりのお弟子さんの手から――」
「鷹山さんは鷹山さんなりに精一杯楽団を守ろうとしています。それに名ばかりだなんて、決してそんなことありません」
あかりは穏やかに頷き、諦めとも取れるため息をひとつついた。この数ヶ月の間に、鷹山の実力は、あかりにも認めるところがあったはずである。
「富士川さんは芹響になくてはならない人だって、私は今でも思っています。……監督は富士川さんとは違います。大きな大きな心の闇を抱えている――」
過去の出来事をあかりは知らないはずである。鷹山が芹沢家の人間であることも、華音の実の兄であることも――。
しかし。
あかりにはそれだけではない何かが見えているのでは――華音は漠然とそう感じた。
「私でも分かるくらいですから、華音さんにはきっと、もっといろいろなことが見えているのかもしれません」
彼女の言う、鷹山の大きな心の闇。
その存在は、確かに否定できないことだった。
兄弟子の富士川に対する並々ならぬ敵愾心を、華音は何度となく見せつけられてきた。
初めて鷹山にキスをされたときも、富士川への嫉妬に狂ったように、力ずくで押さえ込まれ――そこには恐怖しかなかった。
しかし、事情をすべて知った今。
鷹山に対してあるのは、すべてを捧げてもいいと思えるほどの愛情だけだ。
「鷹山さんは、私を必要としてくれているんです。でも、祥ちゃんは私の力なんて必要じゃないんです。一人で何でもやっちゃうから……」
「必要とされるって、とても嬉しいことだもの。それは分かるわ。でも――いいえ……私が口を挟むことではなかったですね」
あかりはそこまで言うと、簡単に引き下がった。一礼をして、そのまま華音とすれ違うようにして過ぎ去っていく。
あかりの言葉に、釈然としないモヤモヤ感が残された。
富士川と過ごした日々は、今では遠き日の思い出だ。
こうなることは運命だったのだ――華音は自分自身を納得させるよう、何度も何度も己の心に言い聞かせた。
次の日の朝、華音は約束通り鷹山の住むマンションへと向かった。
鷹山の住まいはマンションというよりもこぎれいなアパートに近い、三階建ての建物だった。部屋は敷地の奥、一階の右端に位置している。
念のため、建物の名前と部屋番号が書かれた紙を取り出し、間違っていないことを慎重に確かめた。
次に、昨日鷹山と合わせた腕時計の盤面をチェックする――完璧だ。
華音はドアの前で数十秒待ち、『101号』と書かれたプレートの下にあるインターホンのボタンを、七時ちょうどに合わせて押した。
すぐに人の気配がする。鍵を外す音がし、ドアノブが回った。
ゆっくりと開いたドアの合間から、鷹山の姿が現れた。寝起きのままの姿ではなく、きちんと着替えている。
「……おはよう。寒いから中へどうぞ」
「ほら! 七時ピッタリです」
華音は得意気に、左腕にはめられた腕時計を鷹山の目の前に見せつけた。
しかし鷹山は無言のまま、携帯を取り出して117をコールする。そして携帯を華音の耳に押しつけた。
『七時二分ちょうどをお報せいたします……ピ……ピ…………』
「はい遅刻、残念だね」
昨日、鷹山に言われるがまま、華音は時計を遅らせていた。そして今、自分の時計が遅れているということは――。
つまり、もともと時計は進んでなどいなかったのだ。
それなのに鷹山はそんな細工までして、初めから華音に自分の言うことを聞かせようという魂胆だったに違いない。
「というわけで、君は僕の要求を聞くっていう約束だよね?」
「人のこと、騙したりして!」
目の前で不敵な笑みを浮かべる悪魔に、華音はまんまと嵌められたのだ。
情けない、あまりにも。
鷹山のあとに続くようにして、華音はおずおずと部屋に上がった。
辺りを見回し、そして感じる違和感――。
「鷹山さんって、意外と部屋汚いですね……」
「失礼だな、汚くはないよ。散らかっているだけだ。欲しいものがいつも手に届くところにないと、不安なんだよ」
その説明だけで、華音は妙に納得させられた。
「それに今は、掃除してくれる人がいないから」
その言い回しに、わずかな含みを感じ取った。部屋の掃除をしてくれていたのは、おそらく女性だろう。
壁際には大きな本棚。たくさんの本がつまっている。
ざっと眺めると、自分が読んだことのある本もいくつか見つけることができた。いつも鷹山はここで読みたい本を選びカバンに入れ、持ち歩いているのだろう。
本棚の隅に、ガラスの写真立てが置かれている。華音はそれに目をとめた。
幼い少年が、母親らしき女性の胸に抱かれた赤ちゃんの頬に、笑いながらキスをしている。微笑ましいシーンだ。
華音の背後から、鷹山が簡単に説明をしてくる。
「赤ちゃんは君、君を抱いている手はお母さん、チューしてるのは僕。写真を撮ったのはお父さん」
「へえ。私にもこんな普通の写真があるんだ……」
もちろん華音は覚えていない。
「見てみたい? それなら、もっとあるよ」
「もっと? 鷹山さん、たくさん持ってるの?」
「十五年前から一枚も増えてないけど。本棚の一番下に、白と青のアルバムが並んでるだろ。青いほうがそうだから」
華音は言われるがままに青いアルバムを手にとり、すすけた表紙をめくった。
そこに登場するのは若い大人の男と女、そして男の子と赤ちゃんだ。
鷹山によく似た綺麗な女性は、母親。
自分によく似た線の細い男性は、父親。
誕生日だったり遊園地だったり幼稚園だったりピアノの発表会だったり――その写真の構図は、ありふれたものばかりだ。それ以外、何も感想は出てこない。
「なんか、普通の家族みたい」
「当たり前じゃないか」
「こっちのは?」
華音は青いアルバムの隣にあった白いアルバムに手を伸ばした。
こちらはほとんど開いていないのだろう。表紙の質感はまだ新しい。
「……それは僕の父親に無理矢理持たされたアルバムだよ。見なくていいよ、恥ずかしいから」
「すごい。ちゃんと見出しまでついてる! 息子、小学校卒業。だって」
ほとんどが中学、高校と多感な少年時代の鷹山だ。自分の知らない時代の鷹山の姿を垣間見ることができて、華音はつい微笑んでしまう。
特に高校時代のものは、今の自分の歳と変わらないため、胸をときめかせながら一枚一枚、丁寧に見ていく。
「あ、嘘!? この女神っぽい格好してるの、鷹山さん!? やだ、似合いすぎ!!」
「……文化祭で、無理矢理女装させられたんだ。一生の不覚だよ」
同級生たちの気持ちがよく分かる気がした。鷹山は無理矢理にでも女装させる価値あり、である。
鷹山は機嫌を損ねたのか、華音からアルバムを取り上げ、それを元あった場所へと収めた。
「君の小さい頃からの写真も見たいな。今度アルバム見せてよ」
「私の?」
アルバムは確かに存在するが、普通の家族写真はほとんどない。高野和久が気ままに写してくれた富士川との日常風景ばかりである。そんなものを到底、鷹山に見せられるはずがない。
華音はとっさに嘘をついた。
「写真、ほとんどないの。おじいちゃん、そんなに私に興味なかったみたいだし。七五三のときに写真館で撮ったのなら、乾さんに聞けばどこかに……」
「それならもう見たよ」
「え? いつ?」
「英輔先生は君のことをちゃんと気にかけていたはずだよ。書斎のデスクには一つだけ鍵のついた引き出しがあってね、大切なものはそこにしまっておいてたらしい。鍵は乾さんが僕に託してくれた。その中に、君の写真と、そして父さんの写真もね。それからあの男の、高校時代の成績表やら音大の合格通知書やら……ホント、たいした可愛がられようだよね」
このまま富士川の話を長引かせると、どんどん機嫌を損ねてしまう――華音は不安に駆られた。
鷹山も気まずいと感じたのか、ため息をひとつつき、さらりと話題を変えた。
「そうそう、僕の要望を何でも聞いてくれるっていう話だけど」
「ああ……うん」
いつになく真剣な鷹山の表情に、華音は身構えた。
きっと、来る。
続く鷹山の言葉を、華音はじっと待った。
わずかに震える鷹山の声――。
「僕ね、本当は……君と一緒に暮らしたいんだ、ここで」
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