予兆(2)

 華音は自室で着替えをすませ、急いで廊下を進むと、すでに鷹山は二階の階段のところで華音を待っていた。

 漆黒のトレンチコートに身を包み、襟を立てて、バーバリーのチェック柄のマフラーを軽く巻いている。

 家の中だというのに、まるで待ち合わせをしている恋人同士のようだ。


 二人が連れ立って階段を下りていくと、芹沢邸エントランスの雑談スペースで雑誌を読みながらのんびりとくつろいでいる高野と遭遇した。


「あれ、二人してどっか行くの?」


 興味深げに尋ねてくる高野に、鷹山が答えた。


「打ち合わせを兼ねて、晩御飯でもと思っていまして。あ、そうだ和久さん、乾さんに彼女の夕食の用意は不要だと伝えてもらえますか」


「うん、言っておく。楽ちゃん、何だか嬉しそうだねえ」


 華音はその高野の言葉が気になり、鷹山の表情を横目でちらりと確認した。

 これは嬉しい顔なのだろうか――華音の目には涼しく澄ましているようにしか見えない。

 嬉しそうと言われた本人は、華音に一瞥をくれるとふざけたように笑った。


「せっかくだから、芹沢さんにおごってもらおうと思いまして」


「ええ? うそ、やだ、信じられない」


 反射的に顔をしかめると、鷹山は肘で華音の腕を数度突っつき、悪魔な微笑みをみせた。


「君さ、あの金蔓男から、結構いいバイト料もらってるんだろ?」


 オーナーの赤城に対して『かねづる』とは、いつもながら随分な言い草である。

 華音は拗ねたように肩をすくめ、鷹山に向かって軽く舌を出した。


「音楽監督の年棒のほうが、ずっとずっといいくせに。おごらないですよ、別会計です」


「フン。子供のくせに、生意気ー」


「どっちが? それに、もう子供じゃないもん」


「子供なヤツに限って、そう言うんだよね。ほら、いいから早く行くよ」


 逆らって意地を張れば張るほど、鷹山を喜ばせることになるようだ。

 高野は、目の前で繰り広げられるやり取りを素直に『兄妹仲睦まじい姿』ととらえ、すっかり安心したような笑顔で、出かける二人に手を振った。




 夕暮れの冷たい風に吹かれながら、二人はゆっくりと歩き出す。

 鷹山が一歩先を行きながら、後ろへ左手を差し出した。人差し指と中指を数度曲げ、誘っている。

 どうしていいのか分からずにそのままくっついて歩いていると、鷹山は振り返った。


「ほら、手を出して」


「ど……どうして?」


「いいからちゃんと」


 そう言って鷹山は、強引に華音の右手をつかんで、再び歩き出した。

 華音は半ば引きずられながら、必死に鷹山についていく。


「ほら、ちゃんと僕にくっついて」


 鷹山は幾分歩調を緩め、華音の指と自分の指を絡めるようにして、しっかりと手を握り直した。




 二人はしばらく手を繋ぎ合ったまま、人通りの少ない住宅地の裏通りを抜け、やがて大きな緑地公園の中へと入った。

 目的地へ向かうための近道らしい。広葉樹がほのかに色づき、目に鮮やかだ。

 鷹山は静かだ。饒舌な彼にしては珍しく黙ったまま、ときおり華音を振り返っては楽しそうに微笑んで、ふざけて身体をすり寄せたり、逆に離れるようにして突然早く歩き出したり、手を繋いだままの華音を振り回す。


 鷹山には何度か抱き締められたりキスをされたり――そういう経験を重ねてきたのに、こうやって外に出て手を繋いで歩くことに、華音は異様なまでの緊張を覚えていた。

 綺麗な顔をしている彼はよく目立つ。

 すれ違う女性の視線を集めているのを知ってか知らずか、鷹山はもどかしそうに繋いだ指を動かしている。

 それが彼の左手であることに気づき、華音は思わず聞いてしまった。


「指……やっぱり治らないの?」


 鷹山はあの夜の出来事を、ほとんど口にしない。もちろんそれは、華音に責任を感じさせまいという鷹山の気遣いなのだろう。

 しかし。

 今は状況が違う。あの夜の出来事が、今となってはただの茶番となってしまったのだから、皮肉なものである。


「日常生活に不自由がない程度には治ったけどね。細かい動きはどうも上手くいかない」


 ヴァイオリニストだった彼の左腕を――華音はナイフで刺した。

 彼の愛器が赤く染まっていくさまを、華音はこの目でハッキリと見たのだ。


「君の憎しみをこの身に刻んだ、名誉の負傷だ」


 鷹山の言葉に、華音は身の引き絞られるような痛みを覚えた。

 知らなかったなんて――言い訳にもならない。

 兄のように慕う富士川祥を大切に思うあまり、憎しみにとらわれて、思わずナイフをこの手に取ってしまった。

 ヴァイオリンを弾くことだけで芹沢家との繋がりを保とうとしていた、母親似の美しい容貌が忌み嫌われた実の兄から、ヴァイオリンを弾くことを奪ってしまったのだ。


「いつまでも気にしなくていいよ。ヴァイオリンなんかもう弾かないって、言っただろう?」


「だって……」


「僕は今、音楽監督なんだから。ヴァイオリンを弾く必要はないから。もっとも、忙しくて弾く暇もないんだけどね」


 確かに鷹山は、以前華音にそう説明したことがあった。

 すべてを打ち明けられ、二人が後戻りできない境界線を越えてしまった日。


【別にいいんだよ、もう弾く理由もない。君が僕のそばにいてくれるのなら。……君を手に入れるためなら腕の一本や二本、惜しくなんかない――】


 華音がこうやってそばにいることで、鷹山の『悪魔』と呼ばれるような言動は、確実に少なくなった。

 天邪鬼で気まぐれではあるのだが、コツさえつかめばその対応はとるに足らない。

 鷹山との息もつかせぬやり取りは、むしろ快感だ。


「それに今は、君が僕の片腕だから――あ、いま僕、ちょっと上手いこと言ったんじゃない? 座布団、何枚?」


 鷹山は手を繋いだまま、身体を華音のほうへ押しつけて、横顔を覗き込むようにする。

 人目がある場所で無駄に至近距離をとられてしまうと、心臓に悪い。華音は平静を装い、何とかやり込めようと試みる。


「鷹山さん……なんか、黄色い着物の人っぽい」


「僕はあんなに馬鹿じゃないよ」


「鷹山さん、黄色い着物の人に失礼ー」


「君こそ名前、覚えてないし。それこそ失礼ー」


 鷹山はふざけて華音の口真似をした。

 ああ言えばこう言う。この男に口で勝てないのは悔しいのだが、だからこそ楽しいのかもしれない――華音は拗ねたフリをしながら、繋いでいた鷹山の左手をもう一度しっかりと握り直した。




 レストランに入店してからの鷹山はとても静かだった。

 もっとも、このような格調高くムーディーな場所で喋り捲られても迷惑なだけだが、こういうところはやはり大人の男だと、華音は感心させられる。


 同級生の男子はもちろん、高野や富士川とも違う。鷹山には独特の色気がある。

 オーナーの赤城も佇まいは洗練されているが、やはり体育会系出身のせいか、色気というよりもむしろ武士のような、潔い風格をたたえている。


 それに比べると、テーブルを挟んで向かい合うこの綺麗な男は、どことなく物憂げで気まぐれで神経質だ。そう見えるというだけで、実際の鷹山は、感情の起伏が激しいただの落ち着きのない男なのだが――初対面の人間の目にはそう映らない。


 華音は執事の乾から一通りの食事マナーは教わっていた。しかし、華音はこういうかしこまった場所がどうも苦手だった。

 作法に集中し、味わう余裕もない。鷹山の手前、無作法できないという見栄もある。

 ひたすら料理との格闘に集中していると、鷹山が話しかけてきた。


「それ、好きなの嫌いなの?」


 鷹山の言う『それ』とは、プレートの隅に除けられたキノコのことを指しているらしい。


「嫌いだから残してるに決まってるでしょ」


「好きだから最後に食べようと思ってるのかな、ってね」


「へえ、鷹山さんってそういうタイプなんだ」


 鷹山は、白身魚の上に載せられたキャビアだけをフォークですくい取り、口に運んでいる。そして、脇に置かれたワイングラスを引き寄せ、中身を半分ほど飲んだ。

 じっと食い入るように、向かい合う華音の顔を見つめている。


「私の顔に、何かついてる?」


「いや……君は、父さんによく似ているなって」


「お父さんだった人を知ってる人は、みんなそう言う」


 鷹山はわずかに首を傾げてみせた。華音の言葉に何らかの違和感を覚えたようだ。

 しかしそれ以上、何も聞き返してはこなかった。


「私と鷹山さんは似てないから、ここにいる誰も、私たちのこと兄妹だなんて信じない、きっと」


 レストランに誘われたため、華音はおとなしめの濃紺のワンピース姿である。きちんとスーツにネクタイをしている鷹山とは、周りからは普通の若い恋人同士に見えているはずだ。


「君だって、心のどこかでは信じきれていないんだろう?」


 確かに、鷹山の言うとおりなのだ。

 数ヶ月前に突然、その存在が明らかになったばかりで、共有する思い出など何一つ存在しないのだから。

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