波乱の幕開け(2)

 華音は重い足取りで、富士川のマンションから歩いて芹沢邸まで帰ってきた。たった十分の道のりが、永遠に続く気がしていた。

 帰りたくない。

 富士川に会いに行ったのは、どうしてよいか分からない自分の心を、少しでも落ち着かせようと思ったからだ。しかし、それは一時的な安らぎでしかなかった。


 今日の午後、祖父の二番弟子・鷹山がウィーンから正式に帰国をしてくる。


 あの日の夜から。

 芹沢家の客間で、華音が鷹山の腕を刺したあのときから、鷹山とは顔を合わせていない。


 鷹山は修業と称して、すでにウィーンを拠点に演奏活動をしている。向こうで予定されていた演奏会のキャンセルや引っ越しや帰国の手続きなど、どうしてもいったんウィーンへ戻る必要があった。


 そしてひと月あまり経った、今日――。


 あの悪魔がやってくる。

 芹沢交響楽団の新しい音楽監督として。




 高野は車で空港まで迎えに行き、そのまま挨拶がてら、芹沢邸に寄ると言っていた。

 寄ると言っても、高野は華音の未成年後見人として選定され、すでに芹沢家に居候している状態だ。そのため、帰ってくると言ったほうがしっくりくる。


 華音は不安な心を抱えたまま、芹沢邸正面の鉄の門扉をゆっくりと押し開くと、玄関のポーチにはすでに高野のRV車が横づけされていた。


 ――どうしよう。


 華音は自分のとるべき行動に迷っていた。一応、挨拶をしておかなくてはいけないのだろうか――しかし自分は楽団員でもなく、出資者でもない。


 今となっては、「芹沢」という名前を持つ唯一の人間、というだけの話だ。


 それが本当の意味での「天涯孤独」というのであれば、である。しかし、事実を知ってしまった今となっては――。


 一通り一階の応接室や客間を覗いたが、すべてドアは開け放たれており、使用している形跡はなかった。


 華音は執事の乾を捜した。

 乾は芹沢家の一切を取り仕切る、老執事である。祖父・英輔が自分の身に何かあったときのためにと、この執事の賃金は終身保障されていた。

 だから華音は今までどおり、この家から高校に通えるし、不摂生でだらしのない高野が居候しても身の回りの世話を任せられるのだった。

 もちろん、お金のためだけではない。執事の乾にとっても、華音は自分の身内のようなもの。亡くなった主人の英輔のためにも、華音が成人するまではどんなことがあっても仕えると決めているらしい。


 乾はキッチンで、通いの家政婦と打ち合わせしている最中だった。夕食の準備を一名多く、と指示を出している。それが鷹山の分であることは容易に推測できた。おそらく今日は、ここへ泊まるつもりなのだろう。

 華音は執事の乾に声をかけた。


「ねえ、乾さん……高野先生たちは?」


「ああ、華音様、お帰りなさいませ。お二人でしたら早々に、二階のほうへと向かわれましたよ」


 乾は品の良い笑顔を華音に向けている。華音の曇る心中にはまったく気づいていない。




 華音は螺旋階段を上り、二階へと向かった。

 長い廊下を歩いていると、曲がり角で高野と遭遇した。

 華音の緊張は一気に高まる。しかし、高野の背後には誰もいなかった。


「楽ちゃんさ、いま芹沢のオヤジの書斎、物色してるから。楽譜とかいろいろね。遭遇しても驚かないでやってね」


「ねえ、高野先生」


「どうしたの?」


 あの赤城という大男から衝撃的なひと言を告げられて以来、華音はそのことについて一切触れることはなかった。当の本人が、顔を合わせることなくウィーンへ戻ったため、すぐに何事もなかったような日常が戻り、聞くタイミングを逃していたのである。

 しかし。

 華音はとうとう、その事実を口にした。


「高野先生は……最初から知ってたの?」


「知ってたって、何のことだい?」


 高野はとぼけるように言った。華音が何を言わんとしているのか、高野には分かっているはずだった。


「赤城さんが言ってたこと――」


 高野はしぃと、口に人差し指を立てて、華音の言葉を遮った。そして、ここじゃアレだから、と華音を促した。




 二人は、祖父の書斎とは別棟にある、華音の部屋へと移動した。

 華音がベッドに腰かけると、高野はドアがちゃんと閉まっているかドアノブをひねって確かめている。高野にしては珍しく慎重だ。


「ノン君が聞きたいのは、楽ちゃんのこと? …………だよね」


 高野は腕組みをしながらドアに寄りかかるようにして立ち、困ったような表情を見せている。


「私に兄弟がいることだって、つい最近聞かされたばかりなのに……どうしてなの? 兄弟ならどうして苗字が違うの? 私だって何も分からない子供じゃない。事情があって親がいなくなれば別々に育てられることだってあると思うけど……でもね? あの人、おじいちゃんの弟子なんでしょ? そんなのおかしいじゃない!」


「ノン君……まあ、驚く気持ちも分かるけど……まさか、あそこで麗児君が言うなんて、思ってもみなかったからさあ」


 高野にとっては甚だ不本意な出来事だったらしい。

 確かに、高野を責めてもしょうがないことである。華音は心を落ち着かせようと、質問を変えた。


「このことを知ってるのは、他に誰がいるの」


「俺と、麗児君と……あとは執事の乾さん、そのくらいかな。芹沢のオヤジが死んだ今となっては、あのときのことを知ってんのは俺くらいだもんなあ……ああ、あと」


「あと、誰?」


「当たり前だけど、本人も知ってる」


 付け足すように言った高野のひと言に、華音は背筋が凍る思いがした。


「あの人……自分がおじいちゃんの孫だって……私が自分の妹だって――――分かってるの?」


 それなのにあの態度。並々ならぬ敵愾心。他人を受け入れぬ、蔑むような目。

 まるで理解できない。


「まあ、ノン君はまだ赤ちゃんだったけど、あのとき楽ちゃんはもう小学生だったからね……」


 先ほどから、高野は何度か『あのとき』という言葉を口にしていた。


「ねえ、何? 何なの高野先生、あのときって?」


「……いや。もうかなり昔の話だから、俺の記憶も曖昧なんだよねえ。その頃は今みたいな付き合いもなかったしさ」


 明らかにはぐらかそうとしていることは華音にも分かった。高野とは付き合いも長い。暗に聞いて欲しくないと言っていることは、その表情から伝わってくる。


「あのさあ、ノン君」


 高野はおずおずと言った。


「楽ちゃんはさ、ノン君も富士川ちゃんも、自分が芹沢の血を引いているということを知らない、って思ってるから」


「え?」


「本人はきっと、言うつもりはないと思うよ。だから、ノン君も今まで同様、知らなかったフリを通してくれないかなあ?」


「……意味分かんない」


 高野の説明は、釈然としないものだった。

 このままずっと、他人として。知らなかったフリを。


「フリも何も……この間初めて会ったばかりの、まったくの他人だよ? きっと赤城さんに言われなかったら、一生気がつかなかったと思うし。第一、全然似てないじゃない?」


「そうだね。ノン君は卓人さんにそっくりだし、楽ちゃんは…………鞠子さんに瓜二つだからね。まるで生き写しさ。――あまりにも良く似ていたから……なあ」


 華音は赤城が見せてくれた写真の中の人物を思い出す。美しく、繊細で、西洋人形のような――。

 華音は初めて母の名を知りそして、顔写真を見た。

 それは、祖母が息子をたぶらかした『魔性の女』と口にしていたイメージとは程遠い、優しい表情だった。

 ただ、顔のつくりは恐ろしいまでに、あの男にそっくりだ。誰が見ても、血の繋がりの存在を認識できるほどだ。


「私のお母さんだった人……鞠子っていうんだね」


「そうだよ。ホントに美男美女の、お似合いのカップルだったんだよ……」


 華音の頭の中に、鷹山の言葉がどんどんよみがえってくる。忘れようとしても忘れることができない。


【僕はね、芹沢の名を汚すような真似をする人間が、気に入らないんだよ】


 ――あの人が言う「芹沢の名」って?



【別にこの家を乗っ取ろうと企んだわけじゃないし、君を困らせようとしてるわけでもない】


 ――祥ちゃんを追い出したくせに、何言ってるの。



【だからそんなに嫌わないでくれ。――好きじゃなくていいから】


 ――血染めのストラディバリウスと、果物ナイフ。



【だからそんなに嫌わないでくれ】


 ――そんなこと言われたって。


【そんなに嫌わないでくれ】


 ――もう、止めて。


【嫌わないでくれ】


 ――――ああ。




 高野は玄関に停めたままの車を、駐車場に移動させてくると言い残し、華音の部屋をあとにした。

 高野の足音が階段を下りていくのを確認し、華音は部屋から廊下に出た。そして、二階の廊下をさらに奥に進み、目指す先は――。


 華音は祖父の書斎だった部屋のドアを、ノックもせず、音を発てないようにして開いた。

 奥の壁一面に、天井まで届く重厚な書棚が設置されている。そこには祖父が生前使っていた音楽関係の書籍が詰まっている。


 鷹山は書棚に向かって楽譜を漁っているようだった。涼しげなブルーグレーのスーツで、ジャケットとネクタイはすぐそばのソファの背にかけるようにして置いてある。


「……あの」


 鷹山が驚いたように、勢いよく振り返った。大きな瞳がさらに大きく見開かれる。


「心臓麻痺で僕を殺す気か! ノックくらいしたらどうなんだよ」


「――腕はまだ……痛みますか?」


 華音が懸命に言うと、鷹山は手にしていた楽譜をソファの上に投げるようにして置き、自分の左腕を右手でさするようにして押さえた。


「切りつけられたら誰だって痛いに決まってるじゃないか。おかげで商売上がったりだ。左手は弦を押さえるのに繊細なポジショニングを要求されるんだ。分かってるのか? ああこれで、演奏家生命絶たれたね」


 相変わらず横柄で毒舌、相手に反論の隙を与えずにまくしたてる。


「……ごめんなさい」


 今は謝ることしかできない。


「それよりどうしてくれるんだ、僕の相棒。言っておくけど、あれは時価にして何千万いや、ヘタすれば億は下らない代物だ。あの状態じゃとても演奏には使えない」


 いったい、どうしろというのだろう、この男は。

 金銭的なことを言っているのではない、それは華音にも分かる。

 しかし。


「メンテナンスに出してください。お金は……乾さんに何とかしてもらいますから」


「あんな血だらけのシロモノ、どう説明するつもりなんだよ」


 限界という名の糸が、切れた。もうあとには退けない。そう、負けていられないのだ。


「あなたがこの先、もっともっと有名になればいいじゃない」


「……何だって?」


「そうすれば、あの血の痕だって、プレミアになるでしょ」


 鷹山は目を見開いた。そしてそのまま二三、瞬く。

 珍しく反論に困ったのか、半ば呆れたような表情で華音の顔を見つめてくる。


「馬鹿じゃないのか、君は……」


 華音は勢いづいて、さらにたたみかけるように言う。


「やってみせればいいじゃない。祥ちゃんができなかったこと、あなたにはできるって言うんなら」


 信じられない。いったい何がどうなったら、この男が――芹沢の血を引く人間であるというのだろうか。


 血を分けた実の兄。そんなの――嘘。

 嘘に決まっている。



 華音が自分に負けじと必死になるのが、鷹山の何かをつかんだのか――悪魔の二番弟子は突然、声を上げて笑い出した。


「ようやく君の本当の声が聞けたようだな」


 鷹山の口から発せられたのは、意外な言葉。


「……え?」


「あの男に支配されない、君の心の声だよ。たとえそれが僕に対する憎しみでも――甘んじて受け入れよう」


 鷹山の言う「あの男」とは、兄弟子の富士川祥のことを指している。


 ――支配、だなんて。


「さあ、幕開けだ」


 鷹山の自信に満ちた声が、祖父・英輔の書斎に響き渡った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る