18 勧誘

 リズミカルに聞こえる包丁の音。お米が炊ける匂い。味噌の匂いが香る鍋からは、湯気が立ち込めている。

 起床時間が同じだった僕と父さんは、珍しく一緒に朝食の準備をしていた。

 たまには朝に米を食べよう、という父さんからの提案で、和食寄りの朝食メニューを作成していた。


「おぅ。二人揃って料理か」


 大男の声。相変わらず、我が家なのかと思うくらいに無遠慮に立ち入る。

 馴染みすぎた今、こちらとしても何も思わないわけだけれど。


「父さん、ここは僕がやるから。ミネさんと話してていいよ」


「…」


 仕事の話があるだろう、と僕が気を利かせると、父さんは何か言いたげにしていたけれど、大男が強引に父さんを連れ立った。

 僕としてもそっちの方が気が楽だったので、それをよしとした。


 父さんたちは隣のダイニングへと移動した。

 うちは、キッチンとダイニングを隔てる扉はない。とはいっても、扉がないだけで壁は存在し、オープンな構造というわけではない。部屋が異なれば、別空間にいる人間を目にすることはなかった。

 僕は、実質一人だけの世界となったキッチンで、朝ごはんの準備に戻った。




 しばらくして、僕は何だか違和感を感じた。

 何だろうか、と考えてすぐに、大男の声が聞こえてこないことに気がついた。いつもなら、意識しなくても聞こえてくるあの大きな声が聞こえない。


 僕は不思議に思って、の部屋に聞き耳を立てる。


「………だよ」


「……で………のか?」


 二人ともわざと声を潜めているのか、耳をそば立たせても、途切れた言葉しか入ってこない。

 それが僕の好奇心を刺激した。僕は、僕と二人のいる空間の狭間にひっそりと向かうと、耳を大きくした。


「この世界も狭いところだからな。色々情報が入ってくるんだよ」


「まぁ、近からず、遠からずな分野だしな」


「それで、だ。事件について、お前どう思う?」


「どうって?」


 大男の問いかけに、父さんは質問で返した。

 その返答は「ほら、あれだよ。あれ。あの事件だよ」、と大男も曖昧に返す。具体的な言葉を避けているというよりは、ど忘れのような、単に言葉を思い出せずにいるような雰囲気を感じた。


「あの研究所の」


「あぁ」


 何のことを言っているのか、父さんがその答えに行き着いたとき、僕も内容を理解した。


「とある研究者から聞いた話では、どうやらそれも嘘ではないらしい」


「それ?」


「禁忌を犯した人間がいるかもしれないってことだ」


 その言葉に驚いたのか、息を呑む音が僕の耳にまで届く。

 僕には何のことを言っているのかさっぱりわからなくて、どこかにヒントが落ちていないか、必死に探した。


「もし、それが本当で、この世に禁忌の子がいるとしたら…そんな禁忌を犯してまで、つくるその目的は何だ?」


「実際にいたとして、その答えは人によるとは思うけど…何だろうな。好奇心?」


 父さんの解答は、語尾が疑問形で締め括られた。

 曖昧さを帯びたその言葉は、ある一つの可能性を述べただけだと言わんばかりに、宙を浮く。

 大男はそれを掴まえて、自分の手元におろすと、嘲るように鼻で笑った。


「そうだとしたら、そいつはイカれてる」


 吐き捨てられた言葉。

 自分自身に言われたわけでもないのに、父さんは何だか困ったように笑った。


「研究をやってる人間は、何にせよ好奇心は持ってるだろ。それが、何に向くかは人それぞれなわけで…」


「それにしたって、倫理に反することはいかんだろ」


「まぁな」


 てんでついていけない会話に、僕は心をくじきそうになった。

 大人の会話を——いや、どんな会話であろうと、人の会話を盗み聞きするものじゃない。僕は自分の心に罪悪感が芽生え始め、ご飯の準備に戻ろうと、背を向けようとした。


「なぁ……戻ってこないか?」


 大男の言葉に、僕の足は止まった。

 より声を潜め、目の前の父さんにだけ囁かれた言葉が、やけに響いて聞こえた。

 僕は何かに取り憑かれたように、その場から動けなくなった。ただ、足は固定されたように自分の意思を無視しているのに、聴覚だけは研ぎ澄まされたように、大男の言葉を逃すまいとしていた。


「実はな、各方面からこの件について調査依頼がきてるんだ」


「…」


「情けない話、これは俺たちだけでは荷が重い。だから、断ろうとしたんだ。いや、断ったんだよ。

 だが、ことがことなだけに、依頼する側も躍起になっている。藁をもすがる思いなんだろうよ」


「……」


「なぁ、頼む。戻ってきてくれ。お前なら、力になれる」


 懇願するような大男の声だけが聞こえていた。その声しか聞こえないのは、父さんの声が僕に届かないほど、小さいからではない。

 このかん、父さんは一言も口を開いていないのだ。


 僕は自分の心にもやのような、白い何かが覆われていく感覚を感じていた。その感覚には、既視感があった。それがいつ、どんなことに対しての記憶なのかはわからない。

 それに、何に対して心を曇らせているのかも、僕自身わかっていなかった。

 大男のいう “調査依頼” の話がわからないからか。大男が必死にお願いしているのにもかかわらず、父さんが何も言わないからか。それとも——


 さらに二人の会話に耳を傾けていれば、その答えが見つかるかもしれない。

 僕は期待に目を輝かせた。

 けれど、タイミングがいいのか、悪いのか。次に僕の耳に届いたのは、父さんの声でも、大男のあの太い声でもなかった。


 お米が炊き上がる時のかぐわしい香りとともに、その部屋いっぱいに機械音が広がった。

 それが合図とでもいうように、金縛り状態にあった僕の身体は解かれた。解放され、自由の身となった身体の感覚を取り戻しながら、僕は心の中で舌打ちした。




————————————————

————————




「勉強の方は順調か?」


 大男が、その見た目に従順するかのように、大きな口を開け、朝食を飲み込んでいく。

 毎日のようにやってきて、もはや我が家の食卓に馴染みつつある大男だったけれど、その豪快な食べ方だけは、いまだに慣れない。


「それはミネさんが持ってきてくれた本のことですか?」


 おそらくそうだろうとは思った。それでも、学校の勉強という選択肢も捨てきれず、僕は答える前に確認の言葉を投げる。

 大男は、同意の意味を込めて大きく頷いた。


「少しずつですけど、やってますよ。たまに父さんにも聞いたりして」


「何だ、自分で調べたりはしないのか?」


 スマホとか、パソコンとか

 大男は、僕には馴染みのない電子機器の名前を連ねた。スマホを持っていないことを知ると、とても驚いたように、食べ物を喉に詰まらせていた。


「ほしいと思わなかったのか?」


「特に…必要性を感じなかったので」


「便利だけどな。それじゃあ、父さんにパソコンを借りればいいじゃないか。自分で調べるのも楽しいぞ」


「情報が多すぎるから。その中から、正しいものを選択できるほど詳しくないので」


 僕の言葉に、大男は目を見開いた。

 体の割に、そこまで大きくない目を、最大限まで広げているように見えた。

 大男は父さんの方を一瞥すると、すぐに僕の方へと視線を戻した。


「なら、英語の論文とか読んでみないか? それなら、ある程度内容は保証されているし。レビューと言って、まとめのようなものもあるから」


 レビューなら、そんなに長くないし。そう付け加えて、大男は謎の提案をした。

 僕は、頭にはてなマークが浮かんでいただろう。その質問の了見を、僕は理解できなかった。


「どうしてですか?」


「ん?」


「どうして、僕にそんなことを勧めてくれるんですか?」


 素直に思っていることを口にした。

 素人である僕が、ちょっとした興味本位に勉強しているのだから、今のままでも十分だ。

 それなのに、大男はより高度なことを勧めてくる。


 父さんは、相変わらず口を挟むことなく、黙々と目の前の栄養源に手を伸ばす。

 お互いがお互いを気にしていないかのように、大男は僕に笑みを向けた。


「いずれ、坊主と一緒に研究できたら楽しそうじゃないか」


「え…」


 大男は、全く想定していなかった言葉を投下する。

 思わず、まぬけな声が出てしまって、僕は少しだけ恥ずかしさを覚えた。それも大男は全く気にしておらず、「あんな事件もあったから」と独り言のように呟く。


「坊主が研究している人間に嫌悪を感じていなければ、だけど…」


「ミネが決めるなよ」


 久しぶりに聞こえた声に、僕も大男もその声の出どころへと顔を向ける。

 一気に視線が自分に寄せられたことに、父さんは恥ずかしそうに味噌汁を啜った。まるで、それで顔を隠すかのように。

 父さんが、そのお椀を下ろすまで、僕たちはその視線を動かさなかった。


「奏多には奏多のペースがあるから」


「何だ、坊主は将来なりたいものは決めてないのか?」


「…」


 将来なりたいもの。将来の夢。

 それは最近よく考えていること。僕は、いくら考えても行き着くところが同じだということに、もうきっとそれなのだと思っていた。

 けれど、それを口に出して言うには、僕にはまだ勇気が足りない。


「もし話聞きたくなったら、いつでも教えてやるぞ。父さんに話にくかったら、俺に何でも言え」


 僕が答えに窮していると思ったのか、大男が自ら助け舟を出してくれた。

 その声も、その表情も今まで見た中で一番優しさを帯びていた。


 僕がその言葉に「ありがとう」と頷くと、さらに破顔し、小さく見えるお椀を持って、ご飯を掻き込んだ。







「じゃあ、そろそろ出るわ」


 朝食を食べ終えると、大男はすぐに席を立った。

 僕がいるからか、朝食の席では仕事の話なんてしない。それなのに、しっかりご飯を食べていくのは、もはやそれが目的のようにも思えた。


 大男が部屋を出ようとしたタイミングで、何やら電子音が聞こえた。

 その音に聞き覚えがあるのか、大男はお尻のポケットに手を入れると何かを取り出した。取り出したかと思えば、すぐに指をスライドさせ、それを耳に当てる。


「もしもし」


 大男は電話に出ると、挨拶もほどほどに軽口を叩こうとしていた。電話口の相手は、それほど親しい間柄なのだろうか、と考えていると、大男の表情が変わった。

 それは、誰が見てもそう思うだろう。どんどん眉間にシワが寄り、その表情は歪んでいく。


「言っていることがよくわからん。とりあえず、その部分のデータを送ってくれ」


 そう言って大男は電話を切った。

 すぐにメールを確認する操作を行いながら、それが届けられるのを待っていた。


「何かあったのか?」


「坊主のシーケンス結果が出たそうなんだが…」


 しーけんす

 その聞き慣れない言葉が、脳内から弾き出される。

 自分に関係すること、ということだけは理解できた。結果、という言葉から、僕はその内容を憶測する。


 ただ、大男のその表情に、ただならぬ何かを感じていた。

 よくないことでもあったのだろうか。僕関連でよくないこと、だなんて。そう考えると心が落ち着かなくなった。


「お、来た」


 大男がスマホの画面を見ながら、指を動かしている様子を僕は眺めていた。

 スマホを覗き込もうと、父さんが大男に近づいていくところも、ただ傍観していた。


 だから、二人の表情がみるみる変わっていくのも、僕の目はしっかりと捉えていた。


「「ん? これは何だ?」」


 二人は同調するように、ほぼ同時に言葉を発した。

 僕がいる場所からは、スマホの画面なんて見えなかったので、そこに何が表示されているのかはわからない。

 ただ、二人はもう一度「どういうことだ?」と、再び声を揃えていた。

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