第67話 孤児の少女と魔術師の男
野草が咲き乱れている。
数匹の蝶がひらひらと飛んでいた。そのなかの一匹が仲間たちから外れて、木々のあいだを進んでいく。向かい風、そよ風、追い風。蝶のからだを転がすように流れていく。漂うように泳ぐように、蝶は飛んでいく。
灰色の石造りの建物があった。ガラスのはまらない空間があいているだけの窓に、蝶は誘われるように飛びこむ。室内は暗い。差し込む陽は、壁の上部しか照らしてはくれなかった。
蝶は古い巻物や書物が乱雑に乗る机に舞い降りた。羽根を休め、作りもののように動かない。ドアが開いた。ひとりの男が入ってくる。黒いローブを着ている。裾は長く、床をひきずっていく。元々は上質のものだったろうが、すっかり汚れ、ぼろ布のようになっている。それがしゅるしゅると男の動作にあわせて音を立てる。
男は椅子に腰かけ、机にあった巻物のひとつに手を伸ばした。蝶が目に留まったのか留まらなかったのか、男は「頃合いかな」とつぶやくと、くるりと反転して戸口を見やる。ノックの音。
「おはいり」
ドアが開く。男は巻物に視線を戻していた。
「食事の準備ができました」
戸口いるのは少女だった。十歳になるかならないか。やせている。薄地のブラウスにシミの目立つエプロンをかけ、靴はサイズが合わないのか、かかとに隙間がある。不憫さを誘うが、少女の表情は明るい。
「今日のメニューは?」
男は巻物に目を通しながらたずねた。まだ一度も少女の方を見ていない。
少女は緊張したようにエプロンをにぎる。
「パンとシチュー、きのこのサラダです。シチューは鹿肉が入っています」
「それは楽しみだね」
男は巻物を閉じ、椅子から立ち上がった。少女はドアノブに手をやったまま、数歩下がる。男は少女の頭に触り、
「きみを引き取って正解だったな。よく働いてくれる」
少女の目を見る。少女は、照れたようにはにかんだ。
料理の準備を、少女がひとりでしたわけではない。鍋を洗ったり、野菜を刻んだりはする。でも、この家には専門の料理人がいたし、掃除や買い出しに行く使用人も、彼女以外にたくさんいた。
でも、この家にいる人間は、自分と男だけだった。他はこの男――彼は魔術師だ――が使役している悪魔たちだ。太った料理人も、赤ら顔の下男や白髪交じりの洗濯女も、全員、正体は悪魔だと、少女は知っている。
孤児院から、この男に引き取られて数か月。最初は戸惑ったが、もうすっかり悪魔たちとの暮らしに慣れている。
この家に引き取ってもらえて助かったと、少女はいつも感謝している。孤児院は寒く、いつも冷たい床の上で雑魚寝する日々。ベッドはあるけど、あれは選ばれた子どもたちしか寝させてもらえなかったから。
この家では、少女は個室を与えられ、食事もお腹いっぱい食べさせてもらえた。悪魔たちは話が噛み合わないことが度々あったが、少女を楽しませようと昔話を聞かせてくれたり、簡単な変身術(彼らはよく蜘蛛やトカゲに変身した)を見せてくれたりした。
男は愛想のない人物だったが、少女を大切にしてくれている。孤児院から引き取られるとき、院長先生は「魔術師相手じゃ、苦労するだろうけど、お前は健康だから長持ちするさ」といった。どういう意味か問いたかったが、院長先生が熱心に数枚の紙幣を数えていたので、聞きそびれてしまった。
少女が荷造りしていると、年長の子が、
「魔術師は子どもを食べるんだぞ」
と耳打ちしてきた。
それから少女の髪を引っ張ると笑い、部屋から走り出ていった。
少女の荷物は少なかった。布袋一枚で事足りる。
孤児院に来るとき、持ってきたはずの物のほとんどは、いつの間にかなくなってしまった。スプーン、フォーク、カップ。それらも誰かが盗ってしまったのだろう。
だから布袋には、穴の開いた毛糸の靴下と、去年の冬、貴族のご婦人がくださった聖誕祭のカード、それから母親が死ぬ前に作ってくれた布製のお人形くらいしかない。
でも、そのお人形も、指をくわえて泣いていた子にあげることにした。少女はもうお人形で遊ぶような年頃ではなかったから。
男は少女を引き取ると馬車に乗ったが、ぐんぐんと街から離れていき、夜の森をどこまでも走っていった。少女は不安になった。どこに行くのだろう。とても人が住めるような場所に到着するとは思えなかった。
でも、明け方にはちゃんとした建物に到着した。ここが新しいお家なんだ。人里離れていたけど不自由はなかった。男の暮らしぶりは貧しくとも、悪魔たちを使役することによって、快適に暮らしていた。
少女の生活は、恐れていたようなことにはならなかった。魔術師だというのは本当だったけど、男は子どもを食べたがったりしなかったから。少女と男は、いつも同じ料理を食べた。孤児院よりおいしい料理を。
男は少女に対して礼儀正しく、父親のように接してくれた――もっとも少女が抱く父親像はけっして温かいものではなかったけれど。
少女の仕事は、主に家事ばかりで、魔術の実験に参加させられることはなかった。稀に悪魔たちを使って、男は部屋で何かしていたが、廊下につんとした刺激臭が漂ってくるか、ガタガタと物が騒がしく動く音が聞こえてくる程度だった。少女が怯えるような出来事に出くわしたことはまだないし、これからもそうだと思う。
食卓につくと、男は少女を見ながらいった。
「そろそろ頃合いだな」
少女はいつも男と向き合って食事をとる。悪魔たちは食べなくてもいいようで、いつもこの時間はふたりきりだ。
少女は運びかけていたシチューを口の前で止めた。男は少女の不安をかんじとり、優しく、彼女の名前を呼んだ。
「グレイス。何もお前を食べようなんて話じゃないよ」
グレイスはきまり悪そうに笑った。男はサラダのきのこにフォークを突き立てながら、「近々、王都に出向こうと思っている」と話した。
「王都に?」
グレイスは王都に行ったことがない。孤児院も地方にある小さなものだったから。
王都は彼女にしてみれば、おとぎ話と同じだった。王さまがいる場所、王子さまがいる場所、お姫さま、召使、知らない国から来た人たち、着飾った動物……本当に行ける場所だと思っていなかった。
「いつまでも隠者な暮らしでは、あきあきしてきた。王都に居をかまえようと思う。あそこなら魔術師の仕事だけじゃなく、他でも稼ぎ口はたくさんある」
もっとも、と男はサラダを咀嚼して、
「悪魔をいまのように複数使役するのは注意が必要だ。昨今はあまり魔術師の評価が高くない。わたしは興味を引きたくないのだ。まだ、その時期じゃない」
グレイスはシチューをスプーンでかき混ぜながら、興味深げに耳を傾けていた。男が長く話をするのは珍しかった。いつもは二言三言でおしまいだ。
「だから」と男は話をつづける。
「王都に行けば、お前の負担が増すかもしれない。まあ、その分、もっと上質な服も買えるし、本や遊び道具も手に入るだろうが。教育を受けたいのなら、午前は学校に通い、午後に仕事をしてもいい」
「わたしも文字が読めるようになりますか?」
グレイスは学校に興味があった。幼い頃、村の学校を外から眺めて、いつか自分もあそこに通うのだろうと思っていた。でも、その前に両親が亡くなって隣町の孤児院に行くことになったので、勉強し損ねている。
「あの孤児院は悪質だったな。本来ならあそこでも文字くらいは学べたはずなのに」と男。「最初からはじめるとなると、自分よりも年下の子にまざって学ぶことになるが、それでも興味があるかい」
「あるわ」グレイスは興奮で頬を染めた。
「赤ちゃんといっしょでも大丈夫。わたし、本を読めるようになりたいの」
「そうか」
男はたぶん微笑んだのだろう、彼の表情は変化に乏しいが、声音でなんとか読みとれる。グレイスは「楽しみです」と、嬉しそうにシチューをくちに運ぶ。
「もっと料理を覚えます。掃除も完璧にやります」
喜びから勢いづくグレイスに、男は首を振り、
「気負うことはない。悪魔の数は減らすがお前をひとりだけ働かせるつもりはないし、食事も、王都ならでき合いのものが簡単に手に入る」
男――ザーツバルはグレイスと目を合わせると、重々しくいった。
「ただこれだけは必ず守ってほしい」
「はい」とグレイスは背筋を伸ばす。
「わたしが魔術師だと、周りに言いふらしてはいけない。もし、何か聞かれたら、わたしのことは父親だと話せばいい。翻訳の仕事でもしていることにしよう」
「わかりました」
グレイスの真面目な凛とした目に、ザーツバルは好ましく思ったのか、珍しく、「今日は夜更かししても良い。悪魔たちと遊んでおいで」と許可を出した。
グレイスの表情が瞬時に明るくなる。
「空を飛んでも?」
「怪我のないように」
鳥になった悪魔たちは、グレイスを背に空を飛んでくれる。それは楽しい時間だが、あまりザーツバルは良い顔をしない。万が一にもひと目が気になるらしい。でも今夜は新月だし、お許しが出た。
「今日のデザートはチェリーパイです」
グレイスは弾むように立ち上がると、デザートを取りに厨房へと駆けて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます