第29話 神明裁判 1
朝になって、リリアーヌが地下牢の石の床の上で目を覚ますと、ちょうどニコラが勢いをつけて壁をよじ登ろうとしているところだった。
ニコラは、天井近くにある小さな明り取りの窓にはまっている鉄格子を掴み、外の様子を伺った。
堀に囲まれ、防衛のために建てられた塔は、外からも中からも出入りするのが難しい。
牢番が朝食のパンと水を持って、廊下からこちらにやって来る。
ニコラは素早く床に降りた。
鉄格子の下にある隙間から差し出された、二人分のパンと水の入った木製の器が置かれたトレイを、ニコラが受け取る。
ニコラのうしろにいたリリアーヌが、鉄格子の前に進み出て、牢番に呼びかけた。
「あの、あなたから獄吏長に伝えて。私が神明裁判を希望している、と」
「ええっ?! ……正気か、リリィ?」
ニコラは驚いて、トレイを落としかけた。
リリアーヌは決意に満ちた眼差しで、頷く。
「それしかないの。他に身の潔白を示す方法が、ないんですもの」
リリアーヌは自分のせいで、ニコラがひどい目に遭わされるくらいなら、いっそこちらから神明裁判を申し出ればいい、と決めたのだ。
「だけど、あれは……。王国法から逃れて、神の審判に任せるというより、教会の裁量にゆだねることになるんだよ?
教皇は寵姫の身内だから、リリィが聖女と言えども味方になってくれるかどうか」
神明裁判とは、立証することが困難な事件を解決するための厳かな儀式であり、神の奇跡に頼る方法だ。
教会は、望む者に神判で有罪か否かを判定してみせることで、フレイア神の威光を人々に示していた。
しかし、それを悪用する者たちもいる。
リリアーヌは、夢の内容をニコラに話すことをためらう。
エレオニーたちの陰謀を知れば、必ず反対されるだろうから……。
牢番に伝言してしばらく経ってから、王宮礼拝堂の司祭が地下牢のリリアーヌに面会にやって来た。
「ああ、おいたわしい。聖女さまがこのような場所に入れられるとは」
「司祭さま、ご足労ありがとうございます」
リリアーヌは司祭の姿を見て、ホッとした。
司祭との面会が許され、神明裁判を申し出て良かったと思う。
(これから私たちの身柄は、教会に引き渡されるはず。
そうすれば、この牢獄からニコラとともに出られる。
夢で見たように、ニコラが拷問にかけられることもない)
「すぐにも聖女さまを、ここから出して差し上げたいのですが、残念ながら、国王陛下の許可が降りませんでした。
申し訳ありませんが、神判までこちらでお過ごし下さい」
司祭の言葉に、リリアーヌは落胆を隠せなかった。
代わりにニコラが司祭に食って掛かる。
「教会は聖女を守る気がないのか? 神判はいつやるんだよ?」
「明日の正午です、聖騎士ニコラ」
「明日だと!? 随分急じゃないか」
「はい、現在こちらにおいでの教皇聖下が直々に、神判を執り行うことになりまして。また、王子殿下の葬儀や聖下の帰国の日程などの都合もあり……」
「それじゃあ、教会は何の調査も行わず、神判する気か?」
「いえ、あの。聖下が、その前に聖女さまに赦しの秘蹟を授けるそうです」
「何だよ、それ……」
二人だけになると、ニコラはリリアーヌに、訴えた。
「俺は絶対にあきらめないからな。大人しくリリィが神判にかけられるのを、黙って見てなどやるものか。最後まであがいてやる」
「ニコラ、万一の時はあなただけでも、生き延びることを選びなさい。
これは命令よ、反論は許さない」
「いやだ、例えリリィの命令でも、それだけは聞けない」
「――ねえ、私を信じられないの? 私も死ぬつもりはないわ。
神判によって、身の潔白が証明されたら、いつぞやニコラが言ってくれたように、二人でどこかに行って暮らしましょうよ」
ニコラは目を丸くして、リリアーヌを見つめた。
「リリィ、本当に? 俺、こんな時だから弱みにつけ込むようなことは出来ないと思って、気持ちを伝えるのを我慢してたんだけど」
石の床に片膝をついて、リリアーヌの手を取り、甲にキスをした。
「リリィ、愛してる。多分、ずっと昔から。
この命が尽きるまで、俺の気持ちは変わらない。
俺はリリィの行くところなら、どこまでもついて行く。
それが例え、地獄の底だったとしても」
リリアーヌは泣き出したいような、嬉しくて笑いたいような気持になった。
弟のような存在だったニコラが、いつの間にか頼りになる、なくてはならない存在になっている。
あの怖ろしい夢を見た時、リリアーヌはニコラなしでは生きて行けない、自分にとってかけがえのない大切な人なのだと痛感したのだった。
顔をくちゃくちゃにして、やっとニコラに返事をする。
「――地獄に行くのだけは、勘弁してね」
そして、神明裁判の当日を迎えた。
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