終章 眠れる女神に永遠の約束を 5

 赤い陽が山を染めている。ことさら背の高い三本杉の上から、夕刻になってもなお山で遊ぶ一人の少女を見下ろす人影があった。少女からは妖の好みそうな、清涼で甘やかな霊力の匂いがする。このまま日が暮れれば、その霊力は格好の餌となるだろう。女神が人に許している時間は、日の光が満ちている間だけなのだ。


 三本杉にたたずむ人影がカラコロと高下駄を鳴らす。その音に誘われるようにどこからともなく木霊たちが現れ、きゃらきゃらと笑いながら少女を取り巻き手を引っ張った。


 ――町へお帰り。

 ――夜は、妖の時間だよ。

 ――また明日、遊びにおいで。


 木霊たちに誘われ、少女は渋々といった様子で街の方へと歩きだした。山の麓の、町の入口に立っている少年はきっと少女の迎えだろう。不安げにうろうろと少女が降りてくるのを待つ彼にそっと微笑んで、杉の木のてっぺんに立つ青年はふわりと風を送る。大丈夫、君の待ち人はもうすぐ来るよ――その声にはたと立ち止まり、少年はきょろきょろと辺りを見回した。


 やがて少女を見つけた少年が木霊たちの代わりに手を引いて街に帰っていくのを満足げに見つめたあと。白い法衣をまとい、朱面を被った青年は袖を翻して飛び上がった。


 ――ふうわりふわり、天狗様のお通りだい。


 そんな風に歌い踊る木霊たちを従えて、青年は空を翔る。赤い陽の光の一滴が、山の端に落ちて消えていく。これからは、自分達が主役の時間だ。高下駄を高らかに鳴らして、青年は一心にひとところを目指して飛ぶ。彼が舞い降りたのは、山一帯が見下ろせる見晴らしの良い峠だった。


「えらく楽しそうな顔をしておるの、市伊」


 白く輝く月の光のした。美しく微笑む一人の少女の姿があった。身の丈ほどの長さのある烏羽玉の髪にさされた簪をしゃらりと揺らし、大地をうつす柔らかな瞳で少女は優しく青年を見つめる。寒椿の着物の袖で口許を覆い、くふくふと嬉しそうに笑う女神のそばへと歩み寄った天狗の青年は、その足元に跪きながら言葉を返した。


「ほんのすこし……人助けをしていただけですよ」

「ああ、玖珠木の子か。久しぶりに、わらわを見られるほどの力を持って生まれた子じゃな」

「いずれは……水城神社に嫁ぐ身となるでしょう。ここ数代の神主はまた力が弱くなっていますから」


 神主の力が弱まれば、力の強い娘を嫁がせる――それは時が移り変わっても今なお受け継がれる風習である。時の流れと共に帝の住まいが西から東へと移り、大きな戦を経験したあと、村は神木町と名を変えた。町には鉄の乗り物が走り、夜も煌々と明かりがつくようになった。混ざりものだった人々の血は限りなく人に近づき、妖を見るものも今はもうほとんどいない。


 それでもなお、柚良は大城山と神木町を守り続けていた。ほんの少し妖に魅入られやすい人々のために結界を敷き、人々を襲わぬよう掟をつくって大城山の妖たちを従わせる。それは、今も全く変わっていなかった。


「この太平の世においては、少しばかり過ぎた力を持った子です……あまり妖の世界に踏み込みすぎないようにしなければ」

「そうじゃな。そなたのように、人の世に戻れなくなるかもしれんからの」


 いたずらっぽく言葉を重ねる女神にそっと微笑んで、市伊は白い御手に口付ける。くすぐったそうに身をよじった柚良は、幸せそうにひとつ息を吐いた。


 妹や親友、村の人々に別れを告げて、市伊は妖の世に生きることを決めた。十数年はかかると言われる天狗の修行をたった数年で終わらせ、柚良のそばに侍ることを許されたことはもう遠い昔の記憶である。


 失われた力がようやく満たされ、女神が眠りから目覚めたのは戦いから実に三百年が過ぎようといった頃だった。彼女が眠っている間に金狐や白鹿は長き眠りにつき、彼らと柚良がもう一度言葉を交わす機会はついぞ訪れなかった。


「市伊は……人の世を離れたことを後悔してはおらんかの」


 ほんの少し不安に揺れる女神の瞳をまっすぐ見返して、市伊は大きく首を振る。彼女が目覚めてからずっと、何回も聞かれる問いだ。


「後悔はしていません。貴女の傍に居られることが、何より俺の幸せですから」


 彼女を選ぶと決めたとき、決して後悔はしないと誓った。父や、妹、親友の最後を直接看取ることはできなかったが、かわりに彼らやその子孫をずっと市伊は大城山から見守ってきた。市伊にとっては、それで十分だった。それよりも、もう二度と柚良と言葉を交わせなくなる方が市伊にとっては辛かった。


「これからもずっとお傍に居ます。貴女がいつも、笑っていられるように」


 柔らかな柚良の両手をとり、市伊は歌うように誓いの言葉を落とす。彼女がその言葉を欲するなら、何度だって約束をしようと決めた。柚良が市伊の傍で笑っていてくれること。それこそ何より市伊が望むことだった。


 煌々と夜空を照らす月の光を浴びて微笑む女神の姿は、何にも代えがたいほどに愛しく、美しかった。どうかこの気持ちが伝わりますように。そう願いを込めながら市伊は神前で言霊を紡ぐ。


「柚良さまに、永遠の約束を捧げましょう。俺の全てをかけて貴女を幸せにする、と」

「その言葉、絶対に違えるでないぞ」

「……仰せのままに」


 くしゃりと笑み崩れた女神が、勢いよく腕の中へと飛び込んでくる。その重みをたしかめるようにぎゅっと抱きしめて、市伊は一つ、深く息を吐いた。


 初夏の夜風が祝福するように木々を揺らす。空に輝く月と星が、幸せそうに寄り添う二人を静かに見守っていた。

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眠れる女神に永遠の約束を さかな @sakana1127

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