第六章 くゆる戦火に青光は落ちて
第六章 くゆる戦火に青光は落ちて 1
ざわざわと揺れる木の陰から、山中を調べて回る人間を見るものがいた。人間はどうやら神獣の痕跡が残っている場所に手当たり次第罠を仕掛けているようだった。それも、普通の罠ではない。神獣を捉えるためだけに作られた罠である。こざかしいまねを、と人間たちの動向を見ていたものは吐き捨て、踵を返して森の中を滑空する。しばらく飛んだその先には、柚良と話す青年の姿があった。
「──市伊、本当に頼もしくなったな。どうか……不甲斐ない父を許してくれ……」
その呟きは誰にも聞かれることのないまま。男はただ、慈しむような目で二人の姿を見守っていたのだった。
「市伊、本当にすまぬな……最近無理をしてはおらんかの」
す、と白い手が市伊の頬に伸びる。目の下にできた隈をゆっくりと指がなぞった。明らかに出会ったときより疲労の色を濃く滲ませる青年に、柚良の表情がぎゅっとゆがむ。そんな彼女を安心させるために、市伊は微笑んでその手に自分の手を重ねた。
「大丈夫ですよ、柚良さま。俺がやりたくてやっていることですから」
「でも……」
「俺たちの村には、あなたが必要なんです。絶対に、あいつらには渡さない」
小さな手を両手で包み、まっすぐな目で市伊は言いきった。その言葉に、こわばっていた表情がほんの少しだけ柔らかくなる。柚良さま、と囁きを耳元に落とし、泣きそうな少女の目元に市伊はそっと手を伸ばした。さらりと黒髪が手の上にかかる。彼女を失いたくない、と言う気持ちは日に日に大きくなっていた。
「どうかあなたは一番安全なところにいて、変わらぬ笑顔を見せて下さい。それが何より俺の心の支えになります」
「市伊、わらわは……幸せ者じゃな。そなたに出会えて本当に良かった」
ふわ、と柚良が笑う。まるで膨らんだつぼみが弾けて花開いたかのような、あどけない笑顔だ。この表情が好きだ、と市伊は思う。彼女に抱く特別な感情が崇拝なのか、敬愛なのか、情愛なのか──それは市伊自身にもわからない。
それでも、決してこの胸の内を彼女に伝えることはないだろう、と思う。自分と柚良では、生きる時間も世界も違う。なにより瑞希をただ一人残してはおけない。彼女は、大事なたった一人の肉親だ。柚良の傍にずっと居たい、などという大それたことはもとより望まない。ただ、彼女が笑っていられる世界を護りたい。市伊が願うのはそれだけだった。
「……俺も、あなたに出会えて幸せですよ。こうして、触れることを許されていることも」
ざあ、と二人の間を風が吹きぬけていく。そっと離れていく青年の手を、少女は名残惜しそうに追う。市伊は時間です、と告げてその手をやわりと押しとどめ、ぽんぽんと柚良の頭を撫でた。また会いに来ますから。そう約束されて、ようやく柚良は納得したように手を離す。少しだけ尖らせた唇も可愛いな、と口には出さないよう市伊は笑って、少女にそっと背を向けた。
「束の間の逢瀬は楽しめたかしら?」
「……あなたは何もかもお見通しなのですね、紫金どの」
小さく囲まれた結界地の出入り口で、柚良と過ごす束の間の場を提供してくれた神狐に深く頭を下げると、女は艶やかに微笑んだ。全てを見透かすようなその瞳に、市伊は弱い。取り繕うことを諦めた青年に、紫金はまだまだね、と目を細めた。
「年の功と女の勘をなめないで頂戴。わたくしも、昔は人間の男に叶わぬ恋をしたものよ」
「……恋、なのでしょうか。これは」
何か衝撃的な言葉を聞いた気もするがいったん脇に置いておこう。そんな風に思考停止した青年は、己の気持ちを上手く言語化できぬまま、胸の内の感情を持て余していた。恋と言うには献身的すぎ、愛と言うには盲目的ではないもの。今まで男手一つで瑞希を育てる事に必死だったあまり、そういった類いのことは一切経験がない。胸をじりじりと焼き尽くしていく焦燥にも似た感情が何なのか、このところ市伊はずっと決めかねていた。
「恋と思えば恋なのでしょうし、愛だというのならそうなのでしょう。大事なのは自分がどうしたいか、ではないかしら」
「俺が、どうしたいか……」
「二つのどちらかを選ばないといけないとき、あなたの天秤はどちらに傾くの? きちんと考えておかないと、両方とも手から零れおちてしまうわよ」
「……心しておきます」
ずっと考えないようにしてきた問題。それを改めて紫金に突きつけられ、市伊は弱々しく笑うことしか出来なかった。そんな未来がこなければいい。そう切に願っているけれど、万が一の時、判断を迷ってしまわないように考えなくてはならないことだ。今後打つ手のなくなった葛良が瑞希を人質に取り、「邪悪な妖」の元へ案内しろと行ってこない保証はない。そうなったとき、市伊はどうすれば良いのだろうか。
しばらく報告事項と共有事項を確認してから、紫金の元を辞して村へと戻る。近くの川で体をすすぎ、頭を冷やしてから神社に向かった。だが一日が終わり寝るときになっても、その答えは出せないままだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます