7、朝の日常

 ────ピリリリリリリリ……

 やや離れたところで、目覚まし時計が鳴っている。

 目を閉じたまま、腕だけ伸ばして音を止めた。

 いつもなら静かになったところで二度寝と洒落込むのだが、今日はむくりと顔を起こす。

「あー…………すっごいな夢見た」

 低い声で呟いて、美夜子はのそのそとベッドから這い出した。

 淡い桜色のカーテンの隙間から、朝の光が零れている。ピチピチと鳴く可愛らしい小鳥の声が聞こえてきた。

 洗面台に向かって、まずは顔を洗う。冷たい水のおかげで目が覚めた。

 背中に流していた髪をうなじのあたりで一本に結んで、クローゼットから着替えを取り出す。

 今日は白い小花がプリントされた淡いクリーム色のシャツに、焦げ茶色のパンツ、それにデニムのジャケットだ。

 色気もへったくれもない守護兵ガードマンの制服────紺色の戦闘服だ────に着替えるのは、本部に出勤した後である。通勤時の私服に特に決まりはない。個人の自由だ。

 テーブルの上に置いていた電気ケトルを片手に、リビング兼寝室から出て、一人暮らし用の小さな台所へ向かう。

 ケトルに水を入れたら部屋に戻り、スイッチを入れる。湯が沸くまでの間に、粉末スープの袋とわんを用意。ついでにパンと、サラダ代わりの野菜ジュースを持ってくる。

 テーブルの片隅に置いたトースターで、分厚く切ったパンを温めている間に、湯が沸いた。粉末スープ────今日はコンソメにしてみた───を椀に入れて、湯を注いだ頃にはパンも良い具合に温まっている。

 パンに塗るのは、バターかジャムか。今日はバターにした。その日の気分でどちらにするかを決めている。

 朝食を済ませて、歯を磨き、化粧をして、身支度が整ったら、革製のバッグを片手に出勤だ。

 足元はヒールが低めの黒いパンプスで決める。爪先にリボンがデザインされた、美夜子のお気に入りだ。

「…………よし」

 ドアに鍵を掛けて、大きく深呼吸する。

 ここは児童保護施設〈笑顔の里〉ではない。

 築三十年、三階建ての木造アパート、最上階の角部屋だ。

 今住んでいる部屋には、窓がある。寝室兼リビングと小さな台所、風呂とトイレは別だ。

 冷房や暖房は、その日の気温に合わせて、好きな時につけることができる。

 もう、無力な子供ではないのだ。

 部屋の外には、長い廊下が続いていた。エレベータなどという便利なものはないので、外に出るには突き当たりの階段で一階まで降りなければならない。

 共通玄関までたどり着くと、箒とチリトリを手にした大家が掃き掃除をしていた。

 年齢を聞いたことはないが、多分七十は過ぎていると思う。銀色の髪をきっちりとまとめた、小柄でふっくらとした可愛らしい老婦人だ。

「おや、みゃあこちゃん。おはよう」

「おはようございます、大野おおのさん」

 掃除の手を止めて、大野はにっこりと笑いかけてきた。

「今日も早いのね。車に気をつけて、行ってらっしゃい」

「はあい、行ってきます」

 ひらひらと手を振る大野に手を振り返して、出発する。

 ここでは、顔を見て挨拶ができる。美夜子と目が合えば笑顔を向けてくれる。

 愛想笑いだ。だけど、それで充分だった。

 目が合うだけで不愉快そうに顔をしかめて、事ある毎に「感謝しろ」と怒鳴りつけてくる大人はいない。

 体格に合わない灰色の服を着なくても良い。

 自炊は滅多にしないが、三食きちんと温かいものを食べている。

 美夜子はもう、無力な子供ではない。今年で二十七になる。

 まだおばさんを自称するつもりはないが、そろそろ未成年相手に「お姉さん」を自称するのは辛くなってくる年だ。

「さあて、お仕事お仕事」

 朝の七時十五分。美夜子は、職場に向かって歩き出した。

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