消えない怒り

6、嫌な夢

『 あなた達は、もっと感謝すべきなのです』

 耳元で、誰かに怒鳴られたような気がした。

 しわがれた低い女の声。児童保護施設〈笑顔の里〉の教師の決め台詞だ。

 目をつり上げ、忌々しげにこちらを睨みつける顔までぼんやりと浮かんでくる。

 実際に目を開けてみると、目の前には深い暗闇が広がっていた。

 手のひらを顔の前にかざしてみる。手と闇の間に、ほんの少しだけ濃淡の差があった。

(…………反省室か)

 両腕で膝を抱えるようにしてうずくまり、そのまま眠ってしまったらしい。

 悪さをした子供を閉じ込めるための反省室は、とても狭かった。

 照明はない。窓には木の板が打ち付けられ、ほんの僅かな光さえ入り込めないようになっている。

 この状態で、外側から扉を閉めて施錠してしまえば、たとえ昼でも真っ暗になってしまう。

 どんなわんぱく小僧でも、跳ねっ返りの反抗娘でも、失明したかと思うほどの暗闇の中では大人しくなる。

 いつまで閉じ込められるのかは決まっていない。強いて期間を言うなら、『大人たちの気が済むまで』である。

 美夜子のこれまでの経験からすると、最短で一日、最長で三日だった。

 その間、食事は抜きだ。水も与えられない。

 反省室から出された子供は、大体酷い脱水症状と貧血を起こしている。

『 誰のおかげでご飯を食べることができるのか。立派な服を着ることができるのか。よく考えなさい。暖かい部屋で眠ることができる幸せを、噛み締めなさい』

 また、耳障りな女の声がする。傍には誰もいないはずなのに、やけにはっきりと聞こえた。

 親に捨てられたり、保護者を亡くした子供のための児童保護施設───〈笑顔の里〉の教師は、笑顔どころか常に子供たちを忌々しげに睨みつけていた。

 もう十年近くこの施設にいるが、美夜子は大人たちの笑顔を見たことがない。

 嘲笑めいた薄笑いと一瞬目が合ったと思ったら、すぐに眉間にしわを寄せ、歯を剥き出して怒鳴りつけてくる。

 教師たちの口癖は「感謝しろ」だった。

 美夜子は、〈笑顔の里〉の外を知らない。物心ついた頃にはもうここにいて、大人たちに怒鳴りつけられていた。

 だが、それでも、自分の置かれた環境が酷いものだということぐらいは、わかっている。

 朝は裏側が透けて見えるほど薄い食パン一枚と、コップに半分の水。

 昼はない。

 夜は朝と同じようなパンと、うっすら色がついた味のないスープ。

 服は、あちこちに穴が空いた灰色の上下が二枚だけ。

 身長が伸びても大丈夫なように、実際の体格より二回り大きいものが与えられる。

 それすら着られないほど成長してしまうと、新しい服が与えられるが、『多忙な先生方の手を煩わせた罰』として、数時間怒鳴られることを覚悟しなければならない。運が悪ければ反省室行きだ。

 子供たちが生活する部屋に、冷房や暖房はない。夏は服の裾を捲りあげ、窓を全開にして暑さに耐え、冬は近くの子供と身を寄せあって寒さを凌ぐ。

 この環境で、大人たちは「感謝しろ」と言う。

 お前たちには恵まれている、甘やかされている、贅沢者だと。

(…………でも、もうすぐそんなのとはおさらばだ)

 暗闇の中で、美夜子は奥歯を強く噛み締めた。

 美夜子は今年で十五になる。

 十五になれば、『成人の儀式』がある。それをやり遂げれば、ここから解放されて、自由になるのだ。

「反省室の者、出なさい」

 低い男の声がした。ぎいぃ、と不愉快な音を立てて扉がゆっくりと開かれる。

 一度床に両手をついて、膝からゆっくりと立ち上がる。頭を起こす時に、ぐらりと目の前が揺れた。

「感謝の言葉はどうした」

 倒れそうになるのを、膝に両手をついて堪える。頭上から不機嫌な声が降ってきた。

 頭を角刈りにした大柄な男性教師が、丸太のような太い腕を組んで立っていた。

 眉間にしわを寄せ、いかにも不愉快そうな表情で、美夜子を見下ろしている。

「わざわざお前のために時間を割いてやったんだ。感謝の言葉はどうした、無礼者」

「あ…………りがとう、ございました。先生」

「誠意がまるで足りないな」

 掠れた喉で何とか感謝の言葉を絞り出したところで、何も変わらない。男性教師は忌々しげに吐き捨てた。

「言葉だけ取り繕えば良いと思ってるんだろう。お前のような卑怯者は、見てくれだけは整えようとするからな。そんな馬鹿な真似が、先生に通じると思ったか?」

(どうせ何を言ったところで罵倒するくせに)

 不満が顔に出てしまっていたらしい。男性教師の眉間のしわが、更に深くなった。

「なんだその顔は。言いたいことがあるなら言えばいいじゃないか。先生は超能力者エスパーじゃないんだぞ」

 頭を小突かれた。倒れないように膝に力を入れる。奥歯を噛み締めて、大人と目を合わせないように気をつけて、ひたすら黙ってやり過ごす。

「そうやって黙って察してもらえるのを待ってるのか? え? お前、いつからそんなに偉い人間になったんだ?」

 当然、口汚い罵倒を山ほど浴びるはめになるが、これが一番正しい対処法なのだ。下手に口を開けば、もっと酷い目にあう。

「これだから最近の子供は駄目なんだ。自分ってものがまるでない。先生が子供の頃は、お前のような能無しはそうそういなかったんだがな」

 一通り罵った後、男性教師はわざとらしいため息をついた。

「まあ良い。お前のような馬鹿者に、先生の話を理解しろというのが無茶だった。それは先生が悪かった。本来ならもう一度反省室に入れるべきだろうが、今回は大目に見てやる。感謝しろ」

「はい。ありがとうございます、先生」

 目を合わせずに、棒読みにならないように気をつけて、感謝していることを示すために頭を下げる。

 〈笑顔の里〉の教師の力は絶大だ。無力な子供は従うしかない。

 だが、十五になるまでだ。

 十五歳になれば、成人の儀式がある。

(早く、誕生日が来れば良いのに)

 〈笑顔の里〉の子供たちの誕生日が、祝われることはない。

 だが、十五歳の誕生日だけは特別だった。

 

 

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