第30話 僕らの心は、ずっと雨の中で

 何も考えられなくなったと言っても、僕の五感は生きていた。


 周囲の物は、はっきりと知覚している。

 黒く濁ったビルの壁と、水の匂いが混ざった、先輩の肌の気配。

 雨の雫は、先輩と僕の体温で僅かに温まっていた。

 そして、自分と他人の呼吸が混ざり合った嗅いだことのない匂いを知って、僕は思い知るのだ。


 先輩の唇と僕の唇が触れていると言う事に。

 抱きしめて来た先輩の、柔らかさに。

 二人の隙間を流れる空気の、異常な艶めかしさに。


 それらを感じたのは一瞬から数秒――酷く短い時間だったように思える。

 だけれどこの時、僕には時間が止まったように思えて仕方が無かった。

 音も、風も、ビルの隙間を走る頼りない光も、雨と一緒に落ち続ける影も、全てが存在感を失くしていたのだ。

 今まであった悲しい事すらも、遠いどこかでの出来事に感じてしまう。

 あるのはただ、空気を通して伝わる冷えた肌の気配と、心臓の音、そして触れ合っている場所の温もりだけだ。

 その熱だけが、今ある物の全てだった。


 ――一滴の涙が、目から流れている。

 雨の中でもそれを知覚出来ている。

 それは先輩の目からだけではない。僕の目からも流れている。

 それを感じながら、思った。

 もう、これで良いのかもしれないと。

 先輩と一緒に生きていくのも、悪くは無いのかもしれない。


 もちろん、今も僕にとっての特別な存在は笹山村さんだけだ。

 これからも、きっと僕は笹山村さんの事を忘れられない。

 けれど。それでも。この滅びの予言を逃れた地獄のような世界で、たった独りきりになった先輩を放って生きて行くことも、僕には出来ないのだ。

 この感情は恋じゃないのかもしれない。

 愛でもないのかもしれない。

 だけど、それでも僕は、救いを求めている先輩を受け入れ始めている。


 ふと、僕の背中に回された先輩の手がわずかに動いたような気がしたが、それでも時は止まったままだった。

 ずっとこのままでいたいとすら思う。

 例え、これが幸せでも何でもない時間なのだとしても、しかし――


 全ては唐突に動き出すことになった。

 僕の背後から声が聞こえて来たのだ。


「ここにいたんですね、健太郎君」


 瞬間。先輩が僕から遠ざかる。

 まるで、こうしているのがバレてはいけない存在に見つかったかのように。

 そして僕は振り返った。

 もちろん、声の主は分かっていたのだけれど。


「……田中々?」

「はい。田中々です」


 それは、紛れもなく田中々だった。

 ビルとビルの間、影になった薄い暗がりに、少女は立っていた。

 走って来たのだろうか。先ほどの声には出ていなかったが、肩で息をしているのが見える。

 若干、雨は勢いをなくしていたが、田中々は降り続ける雨の中で笑いもせず、何の感情も示さないまま僕らを見つめていた。

 やがて少女は、唐突にいつも通りの、あの抑揚のない声を僕に投げかける。


「探しましたよ。すでにびしょ濡れみたいですが、傘をどうぞ」


 田中々が持っている傘は、二本。

 自分でさしている分、そして、近くのコンビニで買ったのだろうか、もう一本はまだビニールの包装で覆われている。

 途中で投げ捨てた自分の傘を拾いに行く気力もなく、僕は素直にその一本を受け取った。


「田中々さん、どうしてここに?」


 先輩が口を開き、ジッと田中々を見ている。

 田中々は空気を察したのか、質問に応えた。


「さっき、偶然にも健太郎君を見かけたのです。傘もささずに走る姿が見えたので、追いかけて来ました。ここに先輩もいたのはびっくりしましたが」


 もちろん嘘だ。

 あの店を田中々が出たタイミングは分からないけれど、きっと僕を追って来たに違いない。

 とは言え、矛盾は無いように思える。

 先輩は酷く沈んだ顔で、「そう」と、力なく笑った。

 それだけを言うと、目を伏せたまま、僕に言う。


「健太郎。私、今日は帰るね。邪魔も入ったし。でも、私の気持ちは伝えたから。学校が再開したら、返事を聞かせて頂戴」


 学校。

 思えば懐かしくもあるが、伊藤巻も、笹山村さんもいなくなったあの場所を想うと、心が痛い。

 ただ、そんな心の傷を表に出すことは、今の僕には出来ない。


「……わかりました。じゃあ、学校で。あの、この傘は先輩が使ってください。俺は田中々の傘を借りますから」


 僕はそれしか言えなかった。

 僕が田中々に受け取った傘のビニールを急いで破き、先輩に差し出すと、先輩は細い指でそれを受け取った。


「ありがとう。それじゃあ、またね。健太郎」


 新郷禄先輩は僅かに笑う。

 ずっと沈み続けていた顔が美しさを取り戻したかのように見えた。

 静かに振り返った先輩は、そのまま大通りへと続く通路を歩き続ける。

 まるで映画の一シーンの様に感じた。

 それを綺麗だと思うと同時に、僕が先輩の申し出に心の底から応じることが出来ないことが、少しだけ苦しかった。

 そうして先輩が見えなくなってから十数秒。田中々がスンと鼻を鳴らし、「健太郎君」と、傘の中に僕を導き入れる。


「私たちも行きましょう」


 もちろん異論はない。

 ただ、僕よりも背の低い田中々が、傘を上に持ち上げているのが気になった。


「傘、俺が持つよ」

「ありがとうございます」


 素直に渡された傘を受け取り、僕達は大通りに向けて歩き出す。

 雨は一向に止む気配は無いし、僕らの足取りは重かったけれど、この場所にい続ける理由が何一つとして無いのだ。

 僕らは歩かなければならない。

 例え、向かう場所に風が吹いていたとしても。


 と、歩いている途中、田中々がポツリと呟いた。

 小声でもあったし、雨音に紛れていたそれは何かの聞き間違いかとも思ったけれど、確かに聞こえた。


「間に合って、良かった」


 何気なく顔を覗き見ると、いつになく真面目な顔をしている様に見える。

 いや、そもそも田中々の表情の変化なんて些細な物なので、本当に真面目なのかは判断が難しいところだけど。


「……今」


 何かを言おうとしたところで、知らずに震えている自分の口元に気づく。

 原因は不明だが、胸がざわつく感覚があった。

 何か、大変な失敗をしてしまったかのような、喪失感にも似た感覚があったのだ。

 だが、それを考えている暇は無かった。


「では、健太郎君。風邪をひかないでくださいね。その傘は差し上げますから。私は用事を思い出したので、先に帰ります」


 田中々は傘の外へと走りだす。


「ま、待ってよ。田中々――」


 僕の声に彼女は振り返らなかった。

 僕は追いかけようとしたが、傘が風にあおられてそれも出来ず、迷その姿が水煙の中に消えてしまった後、立ち尽くすしかなかった。


 ――


 胸のざわつきが消えないまま僕は自転車を回収し、帰宅する。

 靴を脱いでから、冷えている自分の体に気づいた。

 夏の雨だとは言え、まだ6月である。

 このままでは本当に風邪をひきかねない。

 脱衣所で濡れた重い服を脱ぎながら、傘を置いて帰った田中々を想う。


「あれじゃ、田中々だって濡れただろうに」


 言いながらジーンズのポケットをまさぐった。

 水に弱いと聞いていた携帯電話だったが、奇跡的に無事だったらしい。

 折りたたんであったそれを開き、明るくなった画面を見て安心する。

 とは言え、念のために電源を切り、電池を外して乾かしておくことにした。


 そうして浴室に向かった僕は熱いシャワーを浴び、体を温めている間に沸いた湯船につかって十数分。

 その頃には自分が披露しきっているのだと言う事を実感した。

 思えば笹山村さんが死んでしまった後、ほとんど憔悴しきっていた一週間の後、二日間も動き回ってしまったのだ。

 さらに言うと、心も消耗しきっている。

 お風呂を切り上げ、パジャマに着替えた僕は、重い体を引きずるようにして自室のベッドに倒れこむと、そのまま目を閉じた。

 まだ夕方ではあったが、構うものか。

 僕はすぐに眠りに落ちていく。


 ――しかし、僕の睡眠は、唐突に中断させられることとなった。

 疲れすぎていたのか、自室のドアも閉めずに寝てたらしい。

 居間にある電話の呼び出し音が、僕の部屋にまで聞こえているのだ。

 居留守をしようと思ったのも数秒、父か母か、そのどちらかからの心配の電話かもと言う淡い期待を込めて、僕は体を持ち上げた。

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