ex. ありったけの未来をくれてやる 10
頭の上でぼそぼそと話し声が聞こえる。
瞼を突き刺すような眩しさと人の声を遮断したくて、柔らかいものに顔を押し付けた。
地肌に触れるほんのりとした冷気と、抱き枕の暖かさ。心地よい温度差に、覚醒しかけた意識が再び睡眠へと誘われていく。
「いい加減起きなさい、瑞」
「……ぃや」
「寝るときくらいちゃんとした格好しなさいって言ってるでしょう?あと、今度帰ってきたときに部屋片付けるって言ってたよね?捨てる捨てるって言って、まったく片付いてないんだけど。新本さんが来てるのに恥ずかしくないの?」
うるさ……
部屋は片付けるって言うほど散らかっていないし、別にいらなくなった教科書を私が後生大事にとっておいたところで、お母さんは困らないで……しょ……
あれ?
しぱしぱと重たい瞼をこじ開けたら、ブルーのジャージ生地が目に入った。
気まずそうな顔で、聖がこちらを見ている。
私の両手足はいつも通り聖の体を拘束していて、その暖かさと柔らかさを存分に堪能していた。
「おはよ、聖」
「ぅ、うん、おはよう」
「いま、お母さんの声しなかった?夢?」
夢じゃない!と大きな声が聞こえた方向に首を向ける。
仁王立ちした母と、呆れた顔をしたふたばと、困ったようにこちらを見る父。
なにしてるの。
「なにしてるの」
「なにしてるの、じゃないでしょう。いつまで寝てんの。昨日のことがあるからと思ってたけど、なに、普段もこんなだらしない生活してるの?あんた、大学ちゃんと行ってるんでしょうね?」
朝からうるさいな。
聖の左腕を掴んで時間を確認する。どうやらつけっぱなしで寝たらしく、手首にベルトのあとがくっきりと残ってしまっている。
「うわ、お昼じゃん。お母さんたち、お爺ちゃんのとこ行くんじゃなかった?」
「あのねぇ、昨日あんな話して、瑞たちのこと放って出かけるわけないでしょう?」
待っていても一向に起き出してこないから、しびれを切らして起こしに来てくれたらしい。とはいえ、わざわざ一家総出で訪ねてくる必要はないと思うのだけど。
お酒を飲んだわけでもなく、セックスしたわけでもなく、泣きつかれるようなこともなく、そのくせ十時間以上眠りこけるとは。
「ショウちゃんも起こしなよ……ハジメ、コアラみたいになってんじゃん」
「あ、いえ、あの、可愛くて……その、スミマセン……」
そんな間抜けな格好してる?してるか。たしかにこの体勢はコアラだ。
間違いなく、私はコアラであった。
「瑞、いいから起きなさい」
「寒い」
「服を着なさい!」
寝起きの頭にこれ以上母の説教を叩き込むのは勘弁願いたいので、とりあえず聖を解放してゆっくりと起き上がる。
ぐっと伸びをすれば、背中と腰からぱきぱきと嫌な音がした。寝過ぎて若干だるい。
私の隣で正座をした聖が、手櫛で髪を整えていた。
この場で真面目な話でもするつもりなのだろうか。せめて顔くらい洗わせてほしい。
聖なんてツンツルテンのダサジャージのままだ。
…………あ。
「お母さんたちに報告するのに、聖にジャージ着せたままだった」
「……今さらすぎて笑えないぃ……なんのイジメかなって思ってたのに……!ご挨拶用の服も用意してたのにぃ……!」
「ごめんね、ダサいけど可愛いから許して」
あはは!と笑ったら、肩をぽこすか叩かれた。
こんなツンツルテンのジャージで交際の報告とか、悪ふざけにしか見えないでしょ。申し訳ないことをした。
ふっと笑ったふたばが、父に向き直る。
「さっきのコアラとか、いまのバカとか見ても、お父さんまだ反対できる?」
そこは、いまのハジメの様子を見て、で良いと思う。コアラはまだしも、バカは完全なる悪口だ。
「家にいるとき、コアラこんな顔した?コアラ、泣けるようになったんだよ。爆笑するし、泣くし……あたしこれ、全部ショウちゃんのおかげだと思うんだけど」
コアラコアラ言い過ぎなんですけど。
退屈に溺れていたことは間違いないが、心を失っていたわけではないと大きな声で主張したい。家で笑うことは、たしかに少なかったかもしれない。けれど、友人とバカな話をしているときには笑う。
父はなにも言わない。母も、ただ黙って私と聖を見ている。
聖が姿勢を正して、私の家族に向き直った。
「私はまだ学生で、将来の安定もありません。正式な婚姻も結べず、苦労をかけてしまうことも多くあると思います。でも……」
あぁ、ひとりで言わせてはいけないと、ただそう思った。
聖に未来を預けるということは、私もまた、聖の未来を預かるということ。
予約されたと同時に、私も聖の隣を予約したのだ。
聖の手に触れた。
「大事にします」
その手を、握った。
「私が、幸せにします」
その手に、握り返された。
「幸せにする、努力をします」
ぶわっと胸に何かが咲いた。また、知らない感情がやってくる。いつも聖がつれてくる。
私はこれに、なんと名前をつけようか。
「瑞さんと共に生きることを、許してください」
寝起きで、ベッドの上で、髪も乱れていて、ツンツルテンのジャージを着て、なにも格好つかないけれど。
胸で膨らみ続けるこれのせいで、呼吸すら上手にできない。
私の手を握ったまま、聖が頭を下げた。
聖はいま、なにを考えているの。どんなことを考えているの。
聖の手が、震えている。
量産型の群れにも混ざれないような顔だけの女だけれど、この顔のおかげでこの人を捕まえることができたのなら、それはどんなに幸運なことだろう。
「お父さん、お母さん。この顔に生んでくれてありがとう」
「ハジメ……いますぐショウちゃんに謝りなさい」
「えっ」
なにを間違えた?と首を傾げたら、母が肩を震わせて笑い始めた。
「良い子つかまえたねぇ、瑞」
「そうでしょ。面白いし、可愛いし、イタリア語も英語も完璧だし、写真も上手いし、面白いの」
「面白い二回言ったぁ……」
面白くて、楽しいんだよ。
私は聖を否定しないのだと、本人はそう言った。それが嬉しいと、そこが好きだと、そう言った。
でもね、それはなによりも私のセリフだ。
聖はけして言わないでしょう?言わなかったでしょう?
『ハジメはそんなことしない』って。
父がなにも言わずに背を向けた。
髪で隠された頭皮は、きっとぼろぼろになっている。これから先も、私たち姉妹が傷を増やしていく。
まだ大人になりきれない私には、その責任の取り方なんて分かるはずがなかった。
なかったけれど、間違えずに言える言葉がひとつだけある。
成人式の日に言ったっけ。母から譲り受けた振袖を着て、せっかく成人したのだから、と誠意もないまま口にした。愛してくれてありがとう、と。
正しく言えるようになるまで、胸に仕舞っておかなければいけない言葉。
父は何も言わずに出て行ったし、私は何も言わずに見送った。
「はぁ、ほんっとに情けない……瑞、新本さん」
真剣な顔を作った母に頷いて見せる。聖も姿勢を正した。
「お母さんは昨日言ったとおり、応援はするけど賛成も反対もしません。まだ学生の新本さんに、瑞を預けますなんて言えない。瑞もそう。ひとりの人生を預かれるほど、大人じゃないんだから」
そうだ。私はまだ大人じゃない。たとえ成人したとしても、私たちは未完成の人間だ。
「まずはきちんと卒業すること。就職して、社会を知って、ひとりで生きていけるようになって、それでもふたりで生きていきたいって思えたなら……家族になりなさい」
もう一度、頷いた。
色々なことを、私は『ふぅん』と流してきた。嫌いだ、いやだ、とふたばのように声をあげることが出来なかったから。
ふたばは私たち家族を"気持ち悪い"と言った。私たち家族は、きっとお互いに許せないことが多くある。
それでも、家族だ。
「もしお爺ちゃんが何か言ってきたら、お母さんが味方になってあげるから。たぶん、ふたばも」
そうでしょう?と問われ、ムスッとしながらも、ふたばは「まぁね」と言ってくれた。ツンデレめ。ありがと。
「瑞、新本さんに捨てられないようにね」
「お母さんまで……」
「私の方こそ、捨てないでね、瑞ちゃん」
そんなことするわけないでしょ。
ありがとうと伝える前に、母とふたばは部屋を出ていった。部屋片付けなさいよ、といらない説教を残して。
ふたりきりになった部屋で、私と聖は呆けたまま座っていた。
そんなに長い時間ではなかったけれど、たぶんお互いに頭の中を整理するのに精一杯だった。
家族って、なんなんだろうな。
「瑞ちゃん、私ね」
「うん」
「速攻で就職決めるね」
ん?うん、なんて?
ふざけているのはツンツルテンのジャージだけで、聖本人はけしてふざけている様子はない。
母はたしかに「就職しろ、話はそれからだ」というようなことを言っていたが、別に速度は関係ないだろう。
「内定もらって、バイトしてお金貯めて、そうしたら、い、いい、い、い」
「い?」
「いいいいっしょに!住みませんか!」
夜中にプロポーズしてくれた聖はどこにいったの?さっきの格好良かった聖はいずこ?
まぁ、こっちの聖のほうが、私の聖だなって思うけれども。
「いいよ」
「ちゃんと考えてぇ!」
「考えたし、考えてるよ。猫飼っていい?」
でも、私も聖も働きに出てしまうとしたら、日中は猫を家に置き去りにしなくてはいけない。それは可哀想かな。
共に暮らすのだから、就職はやはり東京か。互いの勤務先と通勤時間なども考慮して部屋を探さなければ。
もし本当に聖の内定が早いうちに決まれば、私もそれに合わせる形で就職活動をしたほうがいいのだろうか。業界研究とかやっぱりやった方がいいの?
引っ越し費用を聖にだけもたせるわけにもいかないし、そうなれば私も稼がないと。
あぁ、でもその前に、聖のご両親に挨拶は必須だ。ある程度決めてから、こういう展望です、と話した方がいいのだろうか。
それとも、ざっくりと決めて、一緒に住んでもいいか許可をもらったほうがいいのだろうか。
聖さんをくださいって頭さげるの?あれ、でも私が新本姓をもらうんだっけ。
「この身を捧げます、とか言った方がいいの?」
「なにに!?瑞ちゃん、神の供物にでもなるつもり!?許しませんけど!?たとえ神でも私の瑞ちゃんは渡しませんけどー!?」
「いや、聖に」
将来の展望の話してるのに、なんで突然神さま出てきたの。
「それは大歓迎ですね!?」
「聖、落ち着いて。深呼吸、はい、吸ってー」
すぅぅぅぅ。
「って、そうじゃない!瑞ちゃん、頭の中のこと全部吐いて」
「一緒に暮らすにしても、まずは聖のご両親に挨拶しないとと思って。で、私が新本姓になるなら、聖さんをくださいはおかしいでしょ」
「そこから身を捧げようとする献身が愛しい……」
うちは大丈夫だと思うよ、と聖が微笑む。
大丈夫と言われても何があるのか分からない。やっぱり、資格とプレゼンは用意しよう。
手土産は食べ物のほうがいいよな、と思ったら、脳が関連づけたのかようやく空腹に気がついた。
そういえば、もうお昼なのだ。
祖父母宅では、今夜も美味しくないお節料理が振る舞われるのだろう。祖父の手打ち蕎麦を食べられないことは残念だが、自由気ままに過ごせる年末というのも悪くない。
「お餅食べる?」
「食べる。けど、そろそろ脈絡って言葉を覚えようね、瑞ちゃん」
「お腹すいたし。お風呂も入りたいし」
ベッドから立ち上がって、聖に手を伸ばす。私の右手を握る左手は、いつだって包み込むように温かい。
手を引いたら、立ち上がる勢いのままハグされた。
「本当の本当に良いんだよね」
「なにが?」
「私が、瑞ちゃんの全部もらっちゃうよ」
私で良いんだよね、と耳元で囁かれたそれはただの確認か、それとも不安か。
不安がるこの人に、私はあと何回、同じセリフを聞かせるのだろう。
答えるたびに、ちゃんと考えて、と聖は文句を言う。私が考えて、悩んで、足踏みすることを知っているくせに。そこが好きだと言ったくせに。
これから先も、聖は私に、聖のことを考えさせる。
私は、聖のことを考える。
本当に良いの、と不安を見せる聖に、私は何度だって言う。
「いいよ」
たとえ聖が、もういらないと言っても。これから先の全部を、君にあげる。
--------------------
およそ二ヶ月間の連載、本当にありがとうございました。
ありったけの連載は、ここで一旦閉じることに致しました。
この先、小ネタなどでまた番外編の更新があるかもしれませんが、その時はまた是非お読み頂けたらと思います。
今後は新しいお話をメインに投稿いたします。
詳細は近況ノートに記載致しますが、次回ももれなく百合です。
もし宜しければ、そちらもどうぞ宜しくお願いします!
ありったけの感情をのせてくれ うちたくみ @uchi_takumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます