第77話

「落ち着いた?」


ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、何度か頷いた。自分で聞いておいて、これは落ち着いていないな、と勝手に判断して立ち上がる。


「ちょ、は、はじめちゃ、どごいぐの!」

「え、いや、メイク落としと蒸しタオル持ってこようかと……」

「いがないで!」


はいはい、と適当に返事をして、化粧台からシートのメイク落としを取り出した。


一世一代の大告白のつもりだったのに、謎の大号泣のせいで私の決意もどこへやら。目も鼻も真っ赤、アイラインが涙で滲んですごい顔になっている。


シートを一枚取り出して、聖の目に押し付けた。


現在、時刻深夜二時。明日はとくに用事もないけれど、良い子は寝る時間である。

このままだと話の進展もないだろうし、今夜はとりあえず寝て、明日、スッキリした頭で話の続きをしたほうが良い。


「聖、私シャワー浴びてくるから、メイク落としてて」

「なんでぇ!?どうじでぞの発想になるの!?この状況でお風呂っでなに!?瑞ぢゃんの思考回路わげわがんないよぅ!」


またダバーっと涙が溢れる。

わけがわからないのは私ではなく聖の大号泣だ。意を決して大告白をかましたというのに、それに対するコメントがあるわけでもなく、突然大泣きされたのだ。ゲリラ豪雨じゃあるまいし。


「だって聖ずっと泣いてるし」

「だがらっでなんでお風呂ぉ!」

「寝ようかなって」


なんでぇ!と詰め寄られて、思わず尻餅をついた。運動神経も悪ければ筋力もないのだ。同じ体格の女を支えられるわけがない。


床に押し倒されるような形になったので、とりあえず下から聖のメイクを落とす。ぽろぽろと涙が溢れる上から、シートでアイメイクを拭っていく。


「ごごは涙拭ぐどごろでしょ!」

「ティッシュ、ティッシュ……はい、鼻チーン」


鼻にティッシュを押し付けたら、素直に鼻をかんだ。まるめたティッシュをゴミ箱に投げる。


ふちに当たって、ぽとりとフローリングに落っこちた。


ふぅ、はぁ、と息を落ち着けようとする聖を見上げながら、黙ってメイクを落としていく。本当はシートではなくちゃんとオイルやリキッドで落としたほうが良いのだけど。


「瑞ちゃん」

「落ち着いた?」


ひと通りメイクを拭い終わったら、聖の嗚咽も落ち着いた。

泣きすぎて腫れぼったくなった瞼に、指先を当てて冷やしてやる。冷え性の指はこう言う時に役立つらしい。


腫れないように、本当は蒸しタオルであっためてあげたいんだけどな。


「瑞ちゃん」

「なぁに」


瞼を冷やしていた手をそっととられて、そのまま床に押し付けられた。これは完全に押し倒されている。


「私のこと好きって、ほんと?」

「ん?うん」


好きだよ。と、そう言ったら、また眦に涙の粒が浮かんだ。脱水症状をおこさないか心配になる。


細かい機微はわからないけれど、私の告白が嫌すぎて泣いたということではないだろう。もしそうなら辛すぎる。


これはなんの涙なのだろう。一度フラれているとは言え、期待してしまいそうになる。


「泣くほど嫌だった?それとも、泣くほど……嬉しかった?」

「……天変地異すぎて……」


「待って、聖。いつもの変な例えとかいらないから、私にも分かりやすいように言って」


たしかに私は言葉が足りない。墓場太郎にも、叶にさえ怒られた。聖にもよく思考回路が意味不明と言われるけれど、それは思考の経過を口にせずすっ飛ばした結果のことであって、おそらく疑問や戸惑いをその場で口にすれば、避けられたすれ違いも多かったのだろうと思う。


聖はその逆だ。喋る時はばーっと喋る。けれどその羅列には、私には理解が難しいような言葉が詰まっていて、追いつけないことが多い。


だから、私にも伝わるように言葉にしてほしい。

謙太郎の言っていた話し合いとは、たぶんそういうことだ。


ふらふらと視線を泳がせたあと、私の上からのそのそと降りた聖がスーツケースから一通の大きな封筒を取り出した。


「これ、受賞した写真」

「見ても良いの?」

「うん」


イタリアに飛んでいった写真。私には見せてもらえなかった、私の写真。

中の分厚いそれを指で挟んで引き出す。


「これ……」

「私が一番好きな瑞ちゃん」


引き伸ばされた写真に写っているのは、間違いなく私だった。


開いた窓からなだれ込む桜の花びらと、夜風に舞う私の黒い髪。

窓枠に寄りかかった私が、微笑んでいる。


私じゃないみたいだ。夜桜の雰囲気も相俟って、どこか妖怪じみている。


あぁ、でも、これは。これは、私だ。

なんだ……なぁんだ、私、この頃からちゃんと聖に恋をしていたじゃないか。


ベッドの中で幸せそうに笑った聖と、同じような顔をしている。レンズの向こうにいる聖に、貴女が好きだって、そう言っている。


「初めて……聖の部屋に行ったときの……?」

「うん。瑞ちゃんがあんまりにも綺麗で、私が泣いちゃったときの」


あのときの涙の理由。そういえば、カメラを構えながら泣いていたっけ。


私の手から写真を取り上げて、大事そうに写真のふちをなぞった。


「私と話がしたいって言ってくれた人ね、モデル事務所を持ってたり、ファッションショーの主催とかやってたり、そういう凄い人だったの」


ぽつり、と落とされた言葉には喜びも悔しさも、大きな感慨はなく、ただ事実だけを述べていた。


「専属カメラマンのアシスタントをやらないかって……」

「凄いじゃん!」


「うん。でも、断っちゃった」


なんで、と問うた私に、聖はふっきれたような、優しい笑みを浮かべた。

カメラを仕事にしたくてなんの伝手もなくイタリアに飛んだのに。悔しさや情けなさを滲ませて、それでも写真が好きだと泣いたのに。


チャンスだったはずだ。一度は諦めた夢への切符だったはずだ。

それなのに、どうして。


「この写真と同じものが撮れるなら、っていう条件だったから」

「同じもの……」


「無理ですって、言ったの。こんな写真、モデルが瑞ちゃんじゃなきゃ撮れないし……撮りたくないから」


グラスの氷がカランと涼しげな音を立てた。薄いアイスティーが、また薄くなる。

気持ちを大事に大事に仕舞い込むように、写真を封筒に閉じ込めた。


「私ね、本当に欲張りなの。強欲の化身。最初は遠くから瑞ちゃんを撮るだけで満足だったのに、声を知りたくなって、名前を知りたくなって……名前を知ったらもっと仲良くなりたくなって、手を繋ぎたくなって、触れたくなって……恋人って関係を受け入れてもらえただけで幸せだったのに」


聖、と名前を呼んだ。


「えへへ。恋って、苦しいんだね」


やっぱり、私と聖の恋は違うものだった。けれど、それはけして相容れないものではない。


「今度はね、瑞ちゃんの"好き"が欲しくなっちゃった」


これはきっと、過去の話。


私は聖がそう思う前に、私の恋に気づくべきだったし、聖はその気持ちを私に話すべきだった。

ねぇ、聖、もう遅い?それは全部、過去の話?


「欲しくて欲しくてたまらなくて、それなのに瑞ちゃんの無理してる顔を見るのがそれ以上に辛かった。瑞ちゃんの笑った顔が好きだから、大好きだから、私のせいで瑞ちゃんが笑わなくなっちゃったのが、いちばん」


辛かった。


その言葉を聞きたくなくて、聖の手を握る。ぎゅうっと、強く強く握り返された手が、ただただ嬉しい。


「本当に傷つきたくないのは私の方だったの。私がね、瑞ちゃんに別れてって言われるのが、怖かったの。傷つけてごめんね、瑞ちゃん」


期待してもいいのかな。これで「だけど、もう好きじゃないです」なんて言われたら、たぶん夏いっぱい寝込む自信がある。


「向こうで改めてこの写真を見てね、私やっぱり瑞ちゃんのことが好きだって思った。好きじゃなくなるなんて、無理だよ」

「うん……」


「帰らなきゃって。もう好きじゃないなんて嘘だって。恋人に戻れなくても、私が瑞ちゃんのこと好きじゃなくなるなんてあり得ないって。そう言わないとって思って」


握っていた手を放して、また絡めるように握り直される。同じような体格なのに、手と足の大きさだけは違う。


服も化粧品も共用できるのに、靴だけは貸し借りできない。それが、私と聖だ。


「瑞ちゃんに会いたくて会いたくて、我慢できなくて、急いで帰ってきちゃった」


あはは、と声をあげた聖を抱きしめて、いつの日かしたいみたいにその肩に頬を寄せたかった。だけど、我慢。


今は、聖の言葉が欲しいから。


「私の賞味期限も、まだ切れてないよ」


聖にドキドキしたことはない。聖の体を見てエロティズムを感じることはあれど、それが性欲に直結したこともない。


聖みたいに感情の昂りで変な発作を起こしたこともなければ、フリーズしたことだってない。


でも、この胸の痛みは喜びで、安堵で、愛しさで、そして私の恋なのだ。


「二橋瑞さん」

「うん」


すぅ、と息を吸って、はぁ、と吐く。何度も見た、聖の深呼吸。

大切なことを言おうとするときに、聖はいつも深呼吸をする。私はいつも、そんな聖を待っている。


「私は瑞ちゃんが好きです」


聖がまた、舞台から飛び降りた。


「瑞ちゃんに恋をしています」


それは、あのときと同じ言葉。


「瑞ちゃんの恋人になりたいです」


絡んだ指を、擦り合わせた手のひらを、痛いくらいに握りしめる。聖の目は、真っ直ぐに私を射抜いていた。


「いいよ。私をまた、聖の彼女にして」


先に飛び降りた私は、落っこちてきた聖を抱きとめた。

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