第48話
部屋がすでに暖かいことに感動した。
「しょーーーう!温泉!」
「檜風呂だねぇ」
「お湯がもったいない!」
チェックインを終えて部屋に入ると、すでに快適な温度に調整されていた。
合宿のときに泊まった宿泊所の『リスさん』は、冷凍庫に部屋割りされたのかと思うほど寒かったのだ。天国と地獄かと思うほどの違いは、宿泊料の桁の違い。
高い旅館、その中でも更に良い部屋。お金ってすごいな、と馬鹿みたいに思った。
扉をあけ、洗面台やトイレなどの水場を過ぎ、襖をあける。気持ちの良い畳の匂いがした。そこにほんのりと混じる温泉の香り。
旅行に来たんだなぁ、としみじみ感じさせる非日常感。
ガラス張りになった部屋の向こう側には板張の床と木製の湯船が鎮座しており、すでに満杯のそこにざばざばと湯が注ぎ続けている。
源泉掛け流し!必殺技みたいで響きが格好いい。
「本当に温泉があるー!」
荷物だけ放り投げて、コートも脱がずにカラカラとガラス戸をあけた。
冷たい空気と、ほんのり暖かい湯気が顔を撫ぜる。
「湯気ー!聖!湯気!」
柵の向こう側で茂る常緑、もくもくと立ち上がる白い湯気、床と湯船の木目。風情しかない。
振り返ったら、聖の顔がでろんでろんになっていた。表情筋ってここまで崩れるのね。私の猫並に乏しい表情筋では再現できない。
まぁ、再現するつもりもないけれど。
「来た甲斐あったぁ」
「ね!この温泉だけで素晴らしい価値ですよ聖さん!」
「ぅゔん!ソウダネェ」
コートを脱いでハンガーに掛け、座椅子に座る。この座椅子が、旅館!という感じがして良い。背もたれで曲線を描く木の座椅子、ぜんぜん座り心地が良くないところもまた趣。
緑茶、ほうじ茶、梅昆布茶の三種類がふたつずつ、お土産屋さんにも置いてあるお菓子もふたつずつ。
あぁ、良い。謎の掛け軸も良い。子どもの頃、旅館の部屋にかけてあるこういう掛け軸の裏に、得体の知れないお札があるんじゃないかって、無駄に怖がっていた。
部屋で自殺した人の幽霊を封印してるんだよ、なんてふたばがあることないこと言うから、家族旅行で旅館に泊まるのがいつも嫌だった。
旅館の部屋で自殺とか、迷惑すぎるでしょう。
今となっては可愛い思い出だ。
「えへへぇ、お茶淹れよ」
聖も飲む?と問いかけたのに、返事がない。
「何してるの?」
「ファントムを押さえつけてる」
「あはは!意味わかんないから。はやくこっちおいで」
入り口でしゃがみ込んだまま頭を抱えている。いつもの発作だとは思うが、全身で表現されたのは初めてかもしれない。
というか、前にも言っていたその"ファントム"って一体なんなの。なんで心に怪人を飼ってるの。
「聖のファントムってエリック?それとも亡霊?」
「え?エリック誰?」
「怪人。オペラ座の怪人の、ファントム」
膝の間から顔をあげた聖が、ちょっと間抜けな顔を晒している。
「オペラ座の怪人、よく知らない……」
「んー、えっとー……最後死ぬ」
「雑!」
だって、実際最後死んじゃうもの。
もし聖がエリックならば、私はクリスティーヌになるのだろうか。それはちょっと頂けない。
「カルメンとかオペラ座の怪人とか、瑞ちゃんそういうの詳しいよね」
「暇だったから、高校生のとき」
夢中になれるもの探しをしていただけ。ハマることはなかったが、趣味は?と聞かれた時に観劇と答えるのは、高尚な趣味っぽくて格好いいかなぁなんて思っていた。
本格的な舞台やオペラのチケットなんて、高額すぎて手が出せなかったので、全部中古のDVDで履修した。
なんとも言えない顔をした聖に、おいで、と言えば、今度こそゆっくりと動き出した。
お茶飲もう、お茶。
「緑茶、ほうじ茶、梅昆布茶。聖、どれがいい?」
「………ほうじ茶」
「おまんじゅう食べる?あ、お茶飲んだら温泉入ろ」
緩慢な動作でコートを脱ぎ、向かい側に腰を落ち着けた聖にお茶を渡す。目が合うと、へらっと笑った。
私の趣味探しは結局頓挫している。内緒だけど。ふたばには美容オタクなんて言われたが、本物の美容オタクは二十三時過ぎにポテトチップスを食べたりしません。
趣味かぁ。趣味ねぇ。
お茶を啜る聖を眺める。強いて言うなら、これが趣味。
趣味、聖。いや、これはちょっと……
「夕飯は十八時からだっけ」
「うん、まだ結構時間あるよ」
温泉入ったら売店に行こうとか、旅館の周りを散歩しようとか、お茶を飲みながらそんな話をする。ガラス戸を経て、ざばざばとお湯の音が聞こえるのが、また心地いい。
それこそ温泉のようなこの時間に、肩までずっと浸っていたい。
身を沈めたら、ざばぁっとお湯が流れていった。自宅でやろうものなら、水道代!と慌てるところである。と言っても、一人暮らしのために必要なお金は、食費以外両親が出してくれているのだけど。
だけどやっぱり、水道光熱費を無駄にするのは気がひける。
「あぁー、きもちいい」
ふたりで入っても十分な広さがある。湯に浸からないよう髪をまとめているせいで、剥き出しになったうなじに冷たい空気がまとわりつく。
染み渡るような温泉の熱と、外にいることを実感させる冷気。その対比に、体の芯まで溶けていきそうだった。
真っ昼間から貸切の露天風呂。
「聖、遠くない?」
「これが限界なんです勘弁してくださいお願いします死んじゃうから」
「あはは!合宿の時はもっと近くにいたじゃん」
般若心経唱えて逃げたけど。本気で怖いからやめろと真顔で言ったので、以来お経を唱える姿は見ていない。やるなら心の中だけでお願いします。
目をぎゅっと閉じて、四角い湯船の端っこに縮こまっている。
個別温泉付きの部屋のなかでもかなり良い部屋であるらしく、グレードを下げると湯船も小さくなるという。あぁ、贅沢している。
檜の香り、冬の匂い、日本人で良かった。
湯の中を移動して、聖に近く。
「おい」
するすると聖が逃げる。また近づく。
「本当に勘弁してくだせぇ。あっしの心臓が止まってしまいやす……」
「大丈夫、人間はそう簡単に死なないから」
「死ぬときは死ぬ!人間けっこう簡単に死ぬ!」
湯船のなかをぐるぐるとふたりで回っていると、流れるプールのように水流が出来上がった。私が追いやすくなったぶんだけ、聖も逃げやすくなる。
どうしてすぐ逃げるかな。
俊敏な動きで逃げつつ、閉じた目だけは頑なに閉じ続けていた。
もう、仕方ないなぁ。
速度を上げてぐんと近づけば、聖もびゅんっと逃げる。
だから、追いかけるフリをして止まってやった。
「のぅわっ!」
湯船の壁に沿ってぐるぐると追いかけっこをしているのだから、片方が止まれば追いつくに決まっている。
聖が勝手に飛び込んできた。
「ひぇっ」
「つかまえた」
聖を捕獲するの、これで何度目だろう。
湯の中で触れた肌。腰に手を回したら、驚いた聖と至近距離で目があった。
人工的な水流が、剥き出しの肌を撫でていく。
唇の端をニィッとあげて、意識して顔を作る。悪い顔。気分はいたいけな少女を追い詰めるチンピラ。
「へっへっへっ!もう逃げられないぜ、お嬢ちゃん!」
「誰!?」
「貴女の彼女ですけど?」
発作かフリーズか、そう思ったのに。
唇がわなわなと震え、鎖骨から首筋が真っ赤に染まった。まだ明るいから、色の変化が手にとるようにわかる。
逃げないでね。
グロスを落とした唇から、はぁと息が漏れた。湯気に混じる、白い吐息。
「はじ、めちゃ」
「うん」
腰を抱き返されたから。くすぐったさに背筋がゾクッと震えたから。目の前のこの人と同じように、体が赤く染まったのはそのせいだから。
けして、射抜かれるような熱い視線のせいじゃない。
「瑞ちゃん」
「なぁに」
湯から引き上げられた手が、私の頬を濡らす。
距離を詰めて、残り五センチのところで聖が呟いた。もう、マスクはない。
「キスしていい?」
「……………うん」
唇は、やっぱり震えていた。
たぶん、私も。
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