第36話
昨日から敷きっぱなしの布団にぐでっと伸びる。日本人だが、生まれた時からベッドで寝ることが当たり前だった私にとって、畳と布団は慣れないものだ。
寝床が硬くて朝起きたときに腰に鈍い痛みが走るけれど、畳の匂いは嫌いじゃない。
「叶ちゃん、大丈夫かな」
「んー、大丈夫じゃない?」
叶はいま、謙太郎と会っている。
スキー場から早めに離脱して温泉に向かい、宿泊所に戻ってきた直後に謙太郎に呼び出された。
話がある、と真剣な顔をした謙太郎は、私もあまり見たことがない顔だった。
せっかく岩盤浴と温泉で気持ちも身体も温まったと言うのに、水をさされた気分である。
もし別れ話だとしても、わざわざ合宿中にすることはないだろうに。あれか、年末だから大掃除ってか。この野郎め。
フラれてきます!と元気よく出て行ったけれど、もし本当にフラれて帰ってきても、私は慰める術を知らない。
謙太郎と叶の不仲は、たしかに私にも原因があるのかもしれない。けれど、結局のところは叶の自業自得であって、正直私にとっては『知らんがな』の一言で終わってしまう話だ。
そもそも、私に慰められたところで、と思ってしまう。叶の恋にとって一番の障害だ、私は。
「叶、悪い子じゃなかった」
「……そういうものだと思うよ」
「そういうもの?」
うん、と頷いた聖は、お尻の下がもぞもぞするような優しい笑みを浮かべている。あぁ、もぞもぞするなぁ。
流石に旅行先でまでオーバーTシャツ一枚でいるわけにもいかないから、唯一所持しているスウェットを着ている。半分くらい聖のものと化しているので、元々は私の服なのに聖に借りている気分だ。
「表面しか見えないと、人の心って想像しにくいけど、仲良くなると心が見えるから。距離が変われば印象も変わるってこと」
「ふぅん……聖も、そうだった?」
「私?」
ファインダー越しに私を追いかけていた聖は、一年半ものあいだ私の表面を見つめていた。私の一年半を映したアルバムと、出会ってから私を映したアルバム。
距離が変わって私の心を見た聖は、どれくらい変わったのだろう。
「私は聖の印象、すごく変わった。謎の盗撮魔から新本聖になって、すごく変わった」
「私は……私はどうだろう。変わった、のもそうだけど……大きくなった、のほうがしっくりくるかなぁ」
聖はまだ、私を見ている。
いつまで、見てくれる?
恋の賞味期限は三年、だっけ。もし本当にそんなことがあるのなら、私の賞味期限ってもう一年くらいしかないんじゃかな。
恋って、なんなのだろう。友情や愛情には賞味期限なんて言わないのに、どうして恋情には賞味期限があるのだろう。
清水の舞台から飛び降りた聖を受け入れたら、その期限は伸びるのかな。私の中に聖と同じくらいの熱量がなくても、期限は伸びるのかな。
それとも、今みたいにのらりくらりと交わしていたら、一生このままでいられるのかな。
私の『楽しい』にも、賞味期限はあるのかな。
私と聖の『楽しい』は、本当に聖の恋ありきなのかな。
わからないから、目を見てつぶやいてみる。
「好きだよ、聖」
「っ………わ、私も」
瑞ちゃんが好きだよ。だけど、それを言うのは聖の目だけ。
私に勇気をへし折られた臆病者のこのひとは、これ以上踏み込んでこない。
私は本当に、自分勝手で最低だ。
「フラれました!」
「そ、お疲れ」
「泣いてもいいですか?」
叶が部屋に戻ってくる前に、私は結果を知ることになった。
謙太郎からきた『カナをよろしく』のメッセージには、言外の意味がたくさん詰まっていたから。何度か聞いた言葉だけれど、きっとこのメッセージが最後の『よろしく』だ。
だから私も謙太郎に『了解。お疲れ』とだけ返した。あの日、嫌味でぶつけた『お疲れ』とは真逆の意味だと言うことを、謙太郎ならきっと察してくれるだろう。
だけどさぁ、別れる原因を作った女に、振った女の後始末を任せるってどうなのよ。
「胸、貸そうか?」
「ショウさんが死んじゃうから遠慮する」
「そ」
布団の上に体育座り。叶がなにも言わないから、私たちもなにも言わない。
なにか言いたいけれど、吐き出したいことがあるけれど、言葉にならない。そんな顔。
恨言を言ってくれてもいい。全部、私のせいにしてくれてもいい。
私はたいていのことを『ふぅん』で流せる自信があるから、こういうときくらいは聞いてあげられる。優しい人間でも、誠実な人間でもないけれど、叶とは仲良くなれたつもりでいるのだ。
「いいよね……ハジメさん、フラれたこととかないでしょ」
「ん?元彼と別れた原因、私がフラれたからだけど」
「瑞ちゃんをフる男とかどんだけ偉いの!?」
聖は黙りなさい。
一年以上高校生活を共にした元彼は、受験の失敗を機に別れを切り出してきた。なんとなく自分が振られるのだろうとわかってもいたし、それがダメージになることも特にはなかった。
別れようと言われても、私はやっぱりね、としか思えなかったのだ。失恋をした自覚なんて、まったくと言っていいほど持ち合わせていなかった。
いまになって思えば、私は恋をしていなかったのだろう。聖や叶を見て、初めて実感した気がする。
同じ熱量がなければ、やっぱり恋は続かない。
「謙太郎のなにが良かったの?」
「……気づいてくれるところ」
根っからのリア充体質である謙太郎は、マスターほどではないがよくモテる。
男女問わず仲良くなるのが早く、男慣れしていない女の子の懐にもするりと入り込む。適度に真面目で、適度に不真面目。
晃太郎いわく、合コンの当率が高い。
「髪型変えたとか、メイクを変えたとか、そういうところにも気付いてくれるし……ひとりでいると必ず話しかけてくれる……あたしずっと、ケンくんに片想いしてるってわかってた」
誰かに片想いをしたことのない私には、叶の感覚は未知のものだ。ドキドキするとか、胸が痛いとか、私には分からなくてちょっとだけ羨ましい。
「一緒にいたくて、触ってもらえると嬉しくて、あたし以外の人といるとイライラして……好きになって欲しくて……」
心を整理するように、叶はぽつぽつと言葉を落としていく。私も聖も、黙ってそれを聞いている。
「あたし、ケンくんの一番になりたかった!」
そう言って、叶の目から涙が溢れた。
ずりっと衣摺れの音。聖がそっと、叶を抱きしめた。
私はなにも言えないから、やっぱりそれをただ眺めているだけ。こんなときでも私は『ふぅん』としか思えない。
共感性が欠けているのだ、私は。
叶を抱きしめた聖は、いま何を考えている。叶の吐露に、なにを思う。
静かな部屋に、叶の嗚咽だけが聞こえている。
聖の写真には、聖の欲が写っていた。聖は私が好きだ。
叶は謙太郎が好きだ。
『一番になりたかった』
聖は?聖もそう思う?
聖は、私の一番になりたい?
誰かの一番になりたいと思うことが、恋だと言うのなら。
ねぇ、聖。ねぇ、叶。
私には恋がよくわからない。嫉妬する気持ちなんてなおさらわからない。
叶を抱きしめる聖を見ても、あぁ抱きしめているなとしか思えなくて、そこに羨ましいと思う気持ちはない。
私は聖が好きだ。一緒にいると楽しいから。私の関心を引き出してくれるから。
聖と一緒にいる、楽しい時間が好きだ。謙太郎や晃太郎と一緒にいる楽しい時間よりも、聖と一緒にいるほうが楽しい。
ドキドキする気持ちも、胸が痛い気持ちもわからないよ。
なにが違うの。聖と、謙太郎や晃太郎に抱く気持ちは、なにが違うの。
なにが違うの。聖や叶が持つ恋と、私の気持ちはなにが違うの。
私だって聖の一番になりたいと思った。一番の友達になりたいと思った。
ねぇ、聖。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます