11日目

昨日、初めてお嬢様の涙を見た。家族と別に1人だけ劣悪な環境で幽閉されても。理不尽な罵倒を受けても。元婚約者から死ねと言われても。ただ凛と背を伸ばしながらも、手の先を白くする程粗末なドレスを握りしめ、耐えていたお嬢様。

ただ、俺の一言で泣いた姿を、見た。ただ、俺が貴女を肯定したたった一言で。


頬を伝う透明な雫を。潤んでいた空色の瞳を。勤務が終わって仮眠をとるべくベッドに転がり、目を閉じても脳裏に浮かぶその姿のせいか、ろくに眠れぬまま勤務時間になった。

俺は1段、1段と階段の石畳を昇る。今日ももう1人の見張りの兵士は勤務時間前に詰所で着替えている最中であった。ほんと、お嬢様に脱走されたらどうするんだお前。首が飛ぶぞ物理的に。と俺が忠告してもどこ吹く風で、同僚はさっさと退勤していった。

俺は溜息を吐き、気持ちを切り替えていざ仕事と。デスパイネ公爵令嬢を見張るべく格子窓越しに姿を確認したのだが……。


「何してるんですか。お嬢様」


思わず俺は真顔で尋ねた。

窓に置かれた固そうなパンは昼のものだろう。まだ夕飯は配膳のメイドがやってきていないのだし。お嬢様は石の窓枠に肘をつき、うふふっと擬音語が聞こえそうな笑みを浮かべながら、両頬に手を添えて、パンを眺めている。真っ先にその光景が目に入った俺は、虚無を宿す眼差しをお嬢様に向けた。お嬢様は素晴らしいどや顔を披露しながら、意図を説明してくださったわけだ。


「ふふん、私考えましたのよ!脱走するための道具が入手できないのなら自前で作ればいいじゃない!ほらこのパンを放置してかっちんこっちんにし、この扉の蝶番を殴りまくれば何れはばっきりと、こう、ばっきりと」


ふむふむ、なぁるほどぉ?確かに。


「なるかもしれないけどどうして俺に言っちゃうかなそれぇ!!!」


思わず俺は叫んだ。大声に驚いたのか、カラスが濁声で鳴きながら飛び去る羽音が聞こえた。もしかして北の塔の外観が白い何かで汚れているように見えるのはカラスの糞なのだろうか。と少し現実逃避をしたくなった。

お嬢様は相変わらず楽しそうに、自信満々に脱走計画を披露している。ここまでポンコツだといっそ清々しくなるような心地を覚える。


「でも、よく考えてみてくださいお嬢様。現在かっちんこちんにするために放置されて多分半日たっている位のパンですけど、明日の天気は雨なんですよね。」


「あら、そうですの?晴れてるように見えますけど。」


お嬢様は不思議そうに窓の外を見て、俺の方を向く。俺は見てくださいねと塔の下の方を飛ぶ鳥の1羽を指さした。


「あれ、明日が晴れる時は遥か上空を飛ぶんですけど。近々雨が降りそうなときには低空飛行することが多いんですよね。」


「へぇ、そうなんですのね……!存じませんでしたわ。」


そういったこと、初耳とばかりにお嬢様は感心した様子を見せている。

が、問題はそこじゃない、そこじゃあないんだお嬢様。


「明日が雨ってことは、そのパンが湿気るってことなんですよね。」


「あっ!わかりましてよ。つまりかちんこちんの放置をやり直しになるってことでしょう?ふふん今回は長期戦の構えですから心配ご無用……。」


「いえ、それならまだいいんですけど、カビます。」


「えっ?」


かびます?とオウム返しするお嬢様。


「カビです、カビがパンに生えます。」


「カビって……確かブルーチーズとかに生えてるあれですわよね。」


「まぁそれもカビの一種ですね。大体は風呂場とか洗濯場とかに生えてる白とか青色とか茶色とかのわけわかんない色合いのものですが、お嬢様にはあまり縁がないかもしれませんね。」


「生えて……どうなるんですの?」


真顔の俺を不思議そうに見つめる瞳は、あっこの人わかってないと俺が理解するのに十分である。俺は懇切丁寧に言い切った。


「臭くなります。油臭さと発酵食品を合わせたかのような生臭さがこの部屋に充満します。」


それでも、パンをかちかち作戦は実行しますか?と言い添えた俺をお嬢様はじっと見つめ……。


「因みに庶民はかちかちのパンをスープにしばらく漬けて柔らかくして食べるのが一般的です。」


「今日の夕食はパンが2つになることが決定しましたわ。」


お嬢様の作戦が中断してくれて本当に良かった。俺は心からそう思った。

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