第8話 湖の中3

「――っ!」


 大きく息を吸いこんだ。冷たい空気が体に流れ込む。ひゅっと喉が鳴った。あまりの冷たさに何度も咳き込んだ。


「トウカ!」


 名前を呼ばれ水音がしたかと思うと、ウツギがトウカのもとまで駆け寄ってきた。

 あんなに荒れていた水は静けさを取り戻し、胸のあたりでゆらゆらと揺れていた。


「ごめん――、ちょっと、疲れた」


 ウツギの顔を見た瞬間、安心して体から力が抜けた。水の中に倒れ込む寸前でウツギの腕に支えられる。

 首に違和感がある。重い。手で触れた。冷たい感触がある。そこには枷があった。しっかりと、トウカの首に嵌っている。かけられた錠が揺れて、軽い金属音が鳴った。


「まじない、できたんだ」

「ああ」


 ウツギの声が震えていた。

 そこで、トウカは自分の手がなにかを握っているのに気づいた。意識をしていないのに、しっかりと握っているものがある。


 ――湖の中で、掴んだ手。


「タンゲツ」


 ウツギの胸の中で視線だけ動かして、手の先を見た。

 白い女性が立っている。

 鏡の中でも、湖の中でもない、ここにタンゲツがいた。白い髪はしっとりと濡れて、月の瞳でトウカを見ている。その首にはトウカと同じ枷がある。

 やはり感情の薄い瞳。だが、そこにわずかな光が灯っているように見えた。息遣いもある。ここに、生きている。


 まじないは成功したのだ。タンゲツも自分も、今ここにいる。

 トウカの呼びかけに応えるように、タンゲツはその眼差しをトウカに向けた。


 ――ああ、生きてる。ちゃんと、動いてる。


 どうしようもなく嬉しくて、心が震えて、涙が浮かんだ。

 タンゲツが瞬きをする。一歩踏み出した。それにあわせて水面が揺らぐ。垂れていた腕を持ち上げた。ぽたんぽたんと水が水面を跳ねる音がする。

 その瞳でトウカを真っ直ぐに見つめて――。

 タンゲツの手がトウカに伸びた。


 首元に彼女の腕が回っていた。

 ぐっと引き寄せられる。タンゲツに抱きしめられている、と分かって、トウカの頬を涙が伝った。


 ――あったかい。


 涙が止まらなかった。


「ごめんね、私、ずっとあなたのことを忘れて、ひどいこともたくさん言って」


 震える声で伝えて、しかし首を振った。ごめんはもう、たくさん言った。今、相応しい言葉はもっとあるはずだ。こういう時になんて言えばいいのか、トウカはもう知っている。


「――ありがとう。ずっと私のそばにいてくれて。会いたかった」


 トウカもタンゲツの体に腕を回して、抱きしめた。ここに、ちゃんと彼女がいる。それを確認するように、強く抱きしめた。

 そうしていると、ふいにトウカとタンゲツを二人一緒に包む者がいた。


「ウツギ――、泣いているの?」

「うるさい」


 つっけんどんに言いながら、ウツギはトウカとタンゲツを一度に抱きしめていた。その腕が震えている。


「ほんと、泣き虫だなあ、ウツギは」

「お前だって泣いているくせに」

「うるさいよ――、ウツギ、痛い」


 抗議をしてみても、ますますウツギの腕の力は強まった。ぎゅうっと痛いほどに抱きしめられる。


 ――救えたかな、みんなのこと。


 トウカはウツギにもたれかかった。


「やっぱり、あったかいな。みんながいてくれると、あったかいよ」


(第8話「湖の中」 了)

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