第8話 湖の中1

 静かな湖面にトウカはそっと足を踏み入れた。冬なのに、湖の水は温かい。


「トウカ」

「うん」


 アサヒの声に振り向く。アサヒ、ヨシノ、カグノの三人が立っていた。ん、と二人の少女がそれぞれ持つ枷をトウカに手渡す。


「ありがとう」


 もともとはヒサゴの枷。トウカとアサヒでまじないを完成させて、それをヨシノとカグノが二つに写したものだ。

 トウカのためにと手助けをしてくれたあやかしたちが、湖畔に集っていた。


「トウカ、これを」


 ウツギが袂からなにかを取り出して、トウカに握らせた。


「お守りだ。ずっとなくしたと思っていたんだが、カグノとヨシノが家を漁っているときに出てきた。昔、ヒバリが俺たちのために作ったものだ」

「ヒバリが?」

「俺の妖力もこめておいた。――結局俺は、今回もなにもできなかったから。せめてこれだけでも」


 トウカはお守りを見て、微笑む。


「ウツギはたくさん私のために頑張ってくれたのを知ってるよ。お守り、ありがとう」


 ヒバリとウツギの妖力を感じるお守りを衿に挟んで、ゆっくり深呼吸をする。


「行ってきます」


 トウカが呟くと、シラバミがひらひらと手を振った。

 背を向けると湖の中央へ足を進める。腰ほどまで水に浸かって立ち止まった。

 月明かりに照らされて、湖面には鏡写しのような世界が広がる。だが、そこに映る人影はトウカ――ではなく、タンゲツの姿だ。


 白く長い髪、白い着物、月のように美しく、そして感情の見えない瞳。

 記憶の中にいるタンゲツは、いつも笑っていた。優しくて穏やかな女性だった。

今は魂の残り香でしかない彼女は、その感情が欠けているのかもしれない。それでも、彼女を取り戻したいと願う。トウカもウツギもそう願っている。


「遅くなってごめんね。タンゲツ。迎えにきたよ」


 そっと湖面に映るタンゲツへと手を伸ばした。水に触れる。

 その瞬間、トウカの体が湖に沈み込んだ。

 口からもれた息が泡となって昇っていく。水が揺れている。水に体を包まれて深く沈む。


 静寂に包まれていた。暗く、どこまでも広がる世界。

 上を見上げれば、水面のゆらぎが見えた。ぼんやりと月明かりがさしている。ゆらゆらと、水が揺れれば光も揺れる。不思議と焦りはしなかった。水の中なのに息もできる。

 ふと、気づけばトウカの目の前に、タンゲツがいた。この湖の世界のように、静かな瞳でトウカを見つめている。手を伸ばせば、触れることができた。


「ごめんね。ずっと私のことを守ってくれて、ありがとう」


 タンゲツの頬を撫でて、抱きしめた。彼女は動かない。


「一緒に、ウツギのもとに帰ってほしい。帰ろう」


 そっと身を離した。トウカの手の中には二つの枷がある。

 ヒサゴが遺してくれたもの。アサヒがまじないをかけてくれたもの。カグノとヨシノが二つにしてくれたもの。みんなの想いがのっている。自分一人ではここまで来ることはできなかった。

 ありがとうと心の中で呟いて、タンゲツを見ると再び手を伸ばす。

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