第9話 花が咲く7
アオイ、とアサヒの唇が動く。
トウカは座敷を見上げた。そして――、息をのんだ。
座敷の姫。静かな微笑をたたえるその美しい顔。何ものにも揺らがない、人形のような顔。
それが――、表情を変えていく。
トウカにはその変化の一つ一つが、やけにゆっくりと見えた。
唇が弧を描いた。朱に縁取られた瞳が細く三日月をつくる。頬が紅潮する。彼女のまとう空気が変わった。神秘的なものから、無邪気なものへと。
結い上げられた彼女の黒髪を彩る簪がきらきらと輝いて揺れた。
彼女は欄干を掴んで、身を起こした。アサヒの方へと身を乗り出す。落ちてしまうのではないかと思うほどに乗り出して、そして。
夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「――!」
彼女は声を出さずに力の限り叫ぶ。一音一音、口を大きく開く。唇は五つの形を作った。
「あ――」
アサヒの瞳が揺らぐ。トウカの腕がきつく握られた。
アオヒメは――、にっと口角をあげてとびきり目を細めた。アサヒだけを見て、頬を染めて笑う。
あ、とトウカは思った。
――向日葵だ。
彼女の笑顔は向日葵のようだった。明るくて、華やかで、大輪の花。まさに向日葵だ。今までのたまゆら堂の娘としての笑みとはまったく異なる笑顔。これが本来の彼女の表情。かつてアサヒの腕をひいて街を駆け回った彼女の姿。
綺麗だ。
アオヒメは目を伏せて、髪に手をもっていく。その手にはアサヒの贈った向日葵の簪が持たれている。簪が、髪に挿された。黒髪に向日葵の花が咲く。トウカには、他のいくつもの簪よりも、その向日葵が一番彼女に似合っているように見えた。
「アオイ――」
アサヒは呟いて、微笑んだ。二人は笑いあう。
そのとき、小間使いの少女が慌てたようにアオヒメの手をひいた。何事かを訴えかけられて、アオヒメは頷く。一度こちらを見ると、恥ずかしそうにはにかんで、唇に人差し指を当てた。わずかに首を傾けると、簪が揺れる。
夜空に花が咲く。その光にアオヒメの顔が様々な色彩の光で照らされる。
一瞬が、とても長く感じた。
彼女は名残惜しいようにしながら視線を外すと、小間使いの少女に導かれてもとの位置に戻り、うつむいた。大きく空気を吸い込んで、長く息をつく。
すっと、彼女のまとう雰囲気が変わったのが分かった。静かに、研ぎ澄まされていく。
しばらくして再び顔をあげたアオヒメの表情には、すっかり静けさが戻っていた。たまゆら堂の娘としての微笑が浮かんでいる。揺らぐことなんてないような、人形のように端正な顔。
先ほどまでの無邪気な色はどこにもなかった。完璧なたまゆら堂の娘だ。
ぱんっと爆ぜる音がした。絶え間なく、空には花が咲いている。
澄ました顔であやかしたちと同じように夜空の花を見上げるアオヒメは、もうこちらを見ることはなかった。それでも黒髪には黄色い向日葵が咲いていて、その存在を示していた。
その後、大輪の夜空の花に照らされたアオヒメの披露目は、無事に終わった。
(第四章 第9話「花が咲く」 了)
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