番外 逃亡者の夜。
真夜中の空には、赤い月と緑の月が輝いている。白い月は細く、星々の光が草原に降り注ぐ中に立っていると、世界にただ一人で存在しているような幻想が身を包む。
穢れの無い光がこの手に掴めるかもしれないと、一時の夢を見た。それは本当に夢でしかなく。繊細な花は逃亡生活に耐えられないという分かり切っていた現実を突き付けられて、ようやく目が覚めた。
俺の最初の罪は、酔って母を殴り殺した父を刺殺したことだった。その時から俺の手は血に塗れている。
村を飛び出し、傭兵の男に拾われて技術を受け継いだ俺は、同じ傭兵になって各国を渡り歩き、様々な仕事を請け負ってきた。
「ダグラス! 見つけた!」
旅装マントのフードを外しながら駆けてきたのは、海の向こうへ置いてきたはずのルイーズだった。抱き着かれて抱き返すと、安堵する自分の心を感じて戸惑う。
「ルイーズ……あの男はどうした?」
新しい仕事だと騙し、金持ちの優男を誘惑させて屋敷に潜り込ませた。ルイーズの美貌なら、そのうち妻になれるだろうと、婚姻届を出した神殿へ離婚届を出しに行くつもりだった。
「……ダグラス、あたしは贅沢も平穏な生活も要らないのよ。……貴方しか知らないし、知りたくない」
ルイーズは裕福な商人の娘だった。大規模な地震災害の中、倒壊した屋敷で家族を亡くし、男たちに襲われかけていた所を助けてから懐かれてしまった。
ルイーズも元は繊細な花だった。俺の隣で咲く為に口調を替え、慣れない酒を飲み、変幻自在の妖艶な華へと変化してきた。咲き誇る姿は美しくても心に抱く闇は深い。
俺に着いてきたのも生きる為だったのだろう。俺への愛も、生きる手段を誤魔化す為の心の防御反応であって、本当の愛ではないと思っていた。ルイーズを変えてしまったのは、すべて俺のせいだと罪悪感を持ちながら愛してきた。
……果たしてイヴェットは同じように変化できただろうか。繊細な花のまま、しおれて枯れてしまったかもしれない。
「近くに町があるはずだ。そこで宿を探そう」
「あたしは野宿でも平気よ」
「駄目だ。また流行り病に掛かったらどうするんだ?」
出会った直後、俺は何も考えずにルイーズを連れたまま野宿を繰り返していた。不衛生な野宿の中、ルイーズは流行り病に掛かって苦しんだことがある。それ以来、ルイーズを連れて野宿はしないと決めている。
どんな宿でも一番高い部屋を頼めば、大抵はすぐに泊まることができる。先払いの代金に、宿代以上の小金貨を一枚加えれば、ひれ伏さんばかりの対応で部屋に案内された。
「こんなに良い部屋でなくてもよかったのに」
そう言いながらも男装姿のルイーズは手早く荷物を片付けていく。俺の性格や好みを熟知したルイーズは、どんな場所でも俺の居心地を良くしてくれる。
交代で浴室を使い、ベッドに座って酒を飲む。
「あの仕事、随分途中で抜けたけど大丈夫なの?」
いつもは計画の完了までの仕事が多い中、国家転覆計画は準備だけを請け負っていた。
「もらった金の分は働いた。情報もすべて送ったし、兵士の転移場所も確保した。あの仕事は下準備までで、後はあいつらの仕事だ」
あの国の兵士たちは与えられた命令通りに動くことはできても、それ以上のことはできない。だから俺のような自由な傭兵が表立って工作を行い準備を整え、あの国から来た指揮官へ引き継いだ。
もっとも、直後にフリーレル王国で俺が騒ぎを起こしたので、計画は破綻しているだろう。依頼人が俺を探しているかもしれない。
いつも酒を飲むルイーズが、今日に限って果汁ばかりを飲んでいる。美味いのかと聞いて口移しで飲むと、酸味の強さに閉口した。
「あの国って、他の国でも同じ事してたんでしょ?」
「ああ。あの国は十、二十と国の乗っ取り作戦を同時に仕掛けて、その内一つか二つでも成功すればいいと考えているからな。恐ろしいのは十年、下手をすれば百年の時間を掛けてもいいと思っている所だ」
武力で侵攻すれば国と国民すべての存亡を掛けた戦争になるが、武力ではなく卑怯な工作で国を乗っ取れば、自国の損失は起きない。知略といえば聞こえがいいが、倫理的には非難される行為だ。
「……ねぇ、あの女たちは鱗のこと、何か言ってた?」
ルイーズが背中の鱗を撫でると体が反応する。他の人間が触れると不快感しかないが、ルイーズの手だけは心地いい。
母方の遠い先祖には竜の血が入っているらしく、俺の背中には竜の鱗がある。先祖返りと言われたこの鱗と白金の髪色で、父は母の不貞を疑った。成長するにつれ俺は父に似てきたものの、一度亀裂が入った夫婦仲が完全に戻ることはなかった。
「何度も言っただろう? お前に出会ってから、俺が抱くのはお前だけだと」
「そんなの信じられる訳ないでしょ」
「俺の体はお前にしか反応しないと知っているくせに」
耳元で低く囁けば、ルイーズの体が震える。ルイーズを抱いてから、俺の体はルイーズにしか反応しない。言葉と手技だけで、あらゆる女たちが調教できた。
「……そんな事言ったって、それ以外はするんでしょ? ……『奥様』を抱きたいと思ってたでしょ?」
「……」
違うとは言えなかった。抱きたいとまでは思わなかったが、手に入れたいと思っていたのは事実だ。あの怯える瞳の奥に、不思議な煌めきを見ていた。
「今までは仕事だからって我慢したけど、『奥様』だけは本気じゃないかって思ったの」
「だからと言って、売ることはなかっただろう」
あの日、イヴェットを人買いに売ったと知って驚いた。
「貴方が本気の目をしたから悪いのよ。そうでなければ、怪我で済ませたのに」
ルイーズの鋭い視線と甘い微笑みが堪らなく劣情を掻き立てる。肩を抱き、胸に手を伸ばそうとして遮られた。
「……今日は抱かれたい気分じゃないの。我慢して」
「誘っておいてじらすとは、酷い女だな」
痛みを感じる程に体は反応している。組み敷こうとした途端、ルイーズはベッドから立ち上がって走り出し、手洗い場で吐き始めた。
ガウンを持って駆け寄り、震える身を包む。
「ルイーズ? まさか…………月の障りは?」
「……二月前から無いの……でも、あたしは……」
出会った頃に掛かった流行り病のせいで、子供を宿せない体になったと医術師から診断を受けていた。その時から繊細な花は光を失い、闇を抱く妖艶な華へと徐々に変化していった。
「ヴァランデール王国へ行こう。知り合いがいる」
少年の頃、放浪していた破天荒な王子としばらく旅をしたことがある。『騎士にしてやるから気が向いたら来い』という約束を覚えているかどうかはわからないが、間諜として売り込むことはできる。逃亡生活から抜け出す為には、現時点でそれが最適だろう。
「でも……あたしたちは……沢山の人を殺してきたわ。……幸せになる権利なんてないのよ」
不安に揺れるルイーズの瞳を見て思い出した。そうだ。イヴェットの怯える瞳を見て、俺はあの光に手を伸ばし渇望した。それはイヴェット自身に好意を抱いていたのではなく、出会った頃のルイーズの面影をあの瞳に求めていただけだったのかもしれない。
「俺たちは罪人でも、子供に罪はない。子供だけでも保護してもらおう」
何も好きで殺してきた訳ではない。父殺しの偶然が傭兵という生業で生き残る為の必然を産み、目的を果たす為に人を殺すことに何の感情も起きなくなっていた。
「…………私……産んでいいの?」
「もちろん」
ルイーズの瞳から零れた涙が、白く光り輝きながら落ちていく。俺の奥深くに眠る竜の血が、その涙に女神の力――神力を感じ取った。俺が失わせてしまった光を、ルイーズは取り戻した。
ルイーズを抱きしめれば、甘やかな香りに包まれる。姿形は妖艶な華に変化していても、その心の奥深くは変わってはいなかった。強がりで、繊細な花のような女。
「ルイーズ、俺はお前を愛している」
俺の為の花は、ここに咲いていた。
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