第三十一話 沼の魔女。
毎日王城に通い、結婚式の準備を終えたのは雪が解けて春の息吹を感じ始める頃だった。その頃には王城の人々や貴族女性たちとも顔見知りになり、公爵家の娘として受け入れられていた。
私は空いた時間を見つけては布を織り、月の光の糸で〝時戻りの衣〟を仕立て上げた。透ける布は七色に輝き、衣は軽い。
「……羽織ってみたいけれど……駄目なのよね……」
羽織ると若返る夢のような衣でも、夢の中の伯爵夫人は一生に一度しか作ることができないと言っていた。
長方形を組み合わせたような衣は、今までに見たことの無い不思議な形。畳むと完全に平らになる。
布の美しさと手触り。直線の不思議を楽しみながら、何度も作業机の上で広げては畳んでいると、扉が開いた。入ってきたのは笑顔のアルテュール。今、帰って来たばかりなのか、豪華な上着を着たままの姿。
「お帰りなさい、アルテュール! 今、〝時戻りの衣〟が出来上がったの!」
嬉しくて畳んだばかりの衣を広げると、魔法灯の光で煌めく。
「……ありがとう、イヴェット。蜘蛛の糸を織るのは大変だっただろう?」
「いいえ。アルテュールの呪いが解けるのなら、大した事じゃないわ」
長い時間が掛かってしまったものの、呪いを受け続けている辛さに比べれば大変なことではないと思う。
アルテュールの顔を見ると、緊張感が漂っていた。
「どうしたの?」
「……イヴェット、口づけてもいいかな?」
「は、はい」
どこに? と聞く前に、唇が合わさって強く抱きしめられた。頬は熱くなり、鼓動が早鐘を打つ。
経験したことのない長い口づけに足がふらつくと、唇が離れた。
「……すまない」
謝罪を囁きながら、アルテュールは私を抱きしめる。恥ずかしさより、様子がおかしいことが気になる。背中を撫でても腕の力は弱まらない。
「……明日、魔女に会ってくる……」
「私も行きます」
「それは……駄目だ」
拒否の言葉が胸を刺す。
「何故? 魔女に会うのは危ないことなの?」
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃなくて……」
アルテュールは黙り込んでしまった。呪いを解いてもらうだけではないのか。抱きしめられたまま、答えを待つ。
「…………わかった。一緒に行こう」
その声は、決意に満ちていた。
◆
翌朝、転移して向かったのは、辺境の森の中にある小さな家。屋根の一部は落ちて空が見え、レンガで出来た壁も崩れていて、人が住んでいるとは思えない。
「……ここは曾祖父の隠れ家だった。私と同じように、転移魔法で王城と行き来していたんだ」
改めて部屋の中を見回すと、湖の館と同じように快適に整えられていたと想像できた。外壁はツタに覆われていて、部屋の中にも入ってきている。
家を出ると目の前には、鬱蒼と茂る木々に囲まれた緑色の沼が広がっていた。太陽の光は遮られ、沼の奥は闇に包まれている。
「ここに魔女がいるの?」
魔女の家があるのかと思っていた。
「……ああ。少し準備をする」
アルテュールは服の
「これは水晶を砕いた粉だ。イヴェット、この円の中に立って欲しい」
円の中に立つとアルテュールが指を鳴らし、私は透明なガラスのような硬い壁に囲まれた。
「これは何?」
「結界魔法だから心配しなくていい。……イヴェット、もしも私に万が一のことがあれば、館に転移するように設定している。そこから出ないで待っていて欲しい」
「アルテュール? どうして? 危ないことではないのでしょう?」
「ああ。心配しなくていい」
仮面の下の笑顔は、優しい。こんな時、目を見る事ができないことがもどかしい。
アルテュールは笑顔のまま私に背を向けて沼へと歩いていく。
「レプティール! ……フリーレル王国第三王子アルテュールだ! 〝時戻りの衣〟を届けに来た!」
叫んだ声が反響して不気味な繰り返しが周囲に流れ、木々が揺れてざわめく。沼の中央に空気の泡が浮かんでは消える。次第に空気の泡は増え、沼全体が泡立ってきた。
何かが近づいてくることを感じて、恐怖が体と心を締め付ける。アルテュールは私に背を向けたまま、直立して何かを迎えようとしていた。
直後に沼の中から現れたのは、黒いレースのドレスを着た白い肌に長い黒髪の美しい女性。赤い唇と銀色の瞳から、目が離せなくなるような魅力が溢れている。
女性が指を鳴らすとどこからか風が吹き、髪や体に滴っていた水がさっと乾いた。
『久しいのう、アルト。今度はちゃあんと〝時戻りの衣〟の本物を持ってきたのだろうなぁ? 次に偽物を持ってきた時は、お前の命をもらうと言うたのを覚えておるかえ?』
魔女は赤い唇を弧にして、不吉な笑顔を浮かべた。
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