第十四話 腕輪の行方。
乳母のノーラと挨拶を交わし、白い織機と糸車のことを尋ねても何もわからなかった。そもそも、あの繊細な階段を登る勇気がなくて、二階より上に行ったことがないらしい。
「この屋敷を譲ってくれた貴族はすでに亡くなっている。近くの町か村で聞くしかないな」
後日、一緒に聞きに行く約束をして、織機と糸車のことは置いておくことにした。
◆
売られたことを嘆く暇もなく、新しい経験と驚きを繰り返しながら三日があっという間に過ぎ去った。王子は就寝以外の時間はすべて私に着いて心を砕いてくれている。何故と疑問に思っても、今の私はすべてを受け入れて感謝することしかできない。
日中、散歩や初めての庭仕事で疲れるからなのか、夜には目を閉じると眠ってしまう。
王子と二人きりの食事は、どうしてもロブのことを思い出してしまう。王子は楽しい話や冗談を言いながら、私に様々な美味しい料理を勧めてくれる。
別人なのだからと自分に言い聞かせても、実は王子は呪いが解けたロブなのではないかという淡い期待が拭えない。
でも、ロブと王子が同一人物だとしたら、完全に私には手が届かない人になってしまう。王子は愛人は必要ないと言っているし、貴族の身分も無くした上に別の人と婚姻していた私は、王子妃になる資格を失っていて――。
そう考えた時、自分の浅ましさに気が付いてしまった。つい先日まで侯爵夫人という立場を受け入れようと努力していたのに、今では初恋の少年を王子に重ねて王子妃を夢見ている。
まずは自分の足で立つことから始めなければ。この館の管理人として働いて、もしも可能であれば白い織機と糸車で布を織って売りたい。
貴族だった頃と違って、実現可能な夢を見られることがとても幸せに感じていた。
◆
昼食後、マリーを迎えに行くと言って王子が私を二階の執務室に案内した。白い布が掛けられた家具が並んでいるだけで、どうやって迎えに行くのかわからない。
「この本を動かすと、隠し部屋への扉が現れる」
少年のように笑う王子が、壁の本棚に置かれた分厚い革表紙の本を奥へ押し込むと、本棚の一部が扉のように開いた。
隠し部屋には、瓶や袋が置かれた棚が壁にあるだけで、他は何の家具もない。天井と床には複雑な図形が描かれている。
「これは転移の魔法陣だ。複雑過ぎて毎回描くのが面倒なので、常設にしている」
「転移?」
「魔法で移動するんだ。転移の魔法陣は幾つか用意していて、今から行くのは君の祖国レガレルア王国だ。マリーを連れてすぐに戻ってくる」
王子がそう言った時、棚に置かれた水晶珠が青く光った。
「時間ぴったりだな。マリーは几帳面だ」
苦笑した王子が、水晶球に触れると赤く光った。
「これは?」
「準備が出来たという合図だ。いってくる」
「いってらっしゃい」
私の言葉に笑った王子は、魔法陣の中央に立った。複雑な呪文を唱えると、その体が赤い帯状の光に包まれる。魔法陣がさらに赤く光り輝いた時、王子の姿が消えた。
お伽話の中の魔法が目の前で起きていることで、胸の鼓動が期待に高鳴る。次に何が起きるのかと魔法陣を見つめていると、赤と青の光が人の形になっていく。
瞬きの後、王子と男装姿のマリーが立っていた。深緑色の短い上着に茶色のトラウザーズとブーツ。結い上げた髪には小さな帽子が飾られていて、腰には剣が下げられている。改めて見ても、男装姿のマリーは凛々しい。
「イヴェット! 無事で良かった!」
駆け寄ってきたマリーに抱きしめられた。
「マリーも無事で良かったです。本当にありがとう」
再会の挨拶の後、私たちは女主人の部屋でマリーが買って来たお菓子を広げ、お茶を飲んでいた。お菓子を楽しんだ後、王子が姿勢を正した。
「マリー、結果報告を聞かせてくれないか」
「それは……アルト、あまり良い報告はできません」
「構わない」
「イヴェット、貴女には衝撃的なことが多いと思いますが聞きたいですか?」
「はい。私のことですから知りたいと思います」
「結論から申し上げますと、フラムスティード侯爵を捕縛することはできませんでした。〝百華の館〟の店主と女主人が護送途中に何者かに殺され、関与したという証言も証拠も確保できなかった為です」
店主は書面を一切残さず現金での取引のみ。店主が死んでしまった以上、何の証拠もなかった。
「……想定外で事前準備が足りなかったからな。仕方ない。店主は自死ではないのか?」
「いえ。どちらも首の後ろに毒針が刺さっていました」
その恐ろしさに体が震える。隣に座っていた王子が、握りしめた私の手をそっと包む。
「こちらの内部に裏切り者がいるのか?」
「いいえ。実は……馬車に不具合が起きて、新しい馬車が来るのを待っていた間でした。馬車の事故を見物する人々に囲まれた一瞬の出来事だったそうです。店主も女主人も大人しく従っていたので完全に油断していたと聞いています」
裏切り者がいないと知って王子は安堵の息を吐く。自分の秘密を護る為、顧客の誰かが刺客を送った可能性が高いと説明してくれた。
「イヴェット、何か確認したいことはありますか?」
マリーに問われて、ここに来てから気になっていたことを思い出した。
「あ、あの……マリー、私が付けていた婚姻の腕輪はどこにあるのでしょうか」
「私は外していませんが……アルト、外しましたか?」
マリーが王子に問いかける。
「いや。外していない。……侯爵家に戻りたいのか?」
王子からは戸惑いの声が返って来た。
「戻りたくありません。でも高価すぎる物だったので、何らかの方法で返すべきではないかと思っていました。きっとどこかで落としたのかもしれません」
二つと同じ物のない、繊細で豪華な装飾が施された白金と珍しい
「イヴェット、腕輪のことは忘れましょう。貴女を売った男です。腕輪を返しても次の妻に渡すだけです」
「……もう新しい妻がいるのですか?」
「それは聞いていません。しばらくは大人しくするのではないでしょうか」
「私の死亡届は出ていますか?」
「…………はい。あの日の昼には出されていました。急病で死亡したと」
「そうですか」
驚きも嘆きも何も感じない。ずっと感じていた重苦しい気持ちが嘘のように消え去っていく。
「イヴェット……何と言ったらいいのか……どうか気落ちしないで下さい」
「いいえ。すっきりしました」
子爵家の娘で侯爵夫人だったイヴェットは死んだ。ここにいるのは、ただの女。
「これまでのことはすべて忘れて、ただのイヴェットとして生きていきます」
不思議な安堵の気持ちが、私を自然な微笑みに導いた。
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