第126話 膨大な資料

 部屋の左に目をやると、そこにも本棚の間に隙間があった。やはり人が一人通れるほどの幅を持っている。もう一つの部屋への通り道に見えた。


「見たがってた資料は、そっちね」


 小夜の声に押されるように零央は隙間に向かって歩いた。


「―」


 新たな部屋に踏み込んだ零央は声を無くした。そこは資料室と呼ぶにはあまりにも壮観な場所だった。

 大きな木製の棚が部屋全体を占拠して存在を誇示していた。手前と奥には二台、中央には背中合わせに四台が横置きされて巨大な行列を成している。棚と棚の間は人が通れるようになっており、どの棚にも寝かされた紙の束が分厚く並んでいた。紙の束は大判で、厚紙の表紙が付されている。紙と紙の間が空きながら厚みを成す様子は、一枚一枚の薄い紙を少しずつ重ねていった作業の集積と年月の重みを伝えていた。


 棚は十二段あり、人の背丈まで連続する。さらにその上にはもう一段の棚が天井まで伸び、広めのスペースを形作っていた。零央から見える場所には季刊の株式情報誌や筆記帳が列を成して置いてある。そうした品々が棚の中で一つの塊となって踏み入った人間を圧倒するのだ。部屋と一体化したような特殊な形状から考えると特注の作りつけだと推察された。紙束を納めてある棚にはラベルが貼ってあり、手書きで年月が記入されている。右側にある束ほど経年による変色が激しい。手前左側の棚にはまだスペースが空いており、これから埋まっていくように思われた。棚の左端にアルミ製の小さな脚立が立てかけてあり、上にあるカラフルな毛ばたきが製図台の椅子にあったクッション同様、妙に目立った。


「…これが、全部手書きのチャートですか?」


 ようよう出した声はかすれていた。


「ううん。新聞の綴じ込みもあるよ。じっちゃんが情報源として重視してたからね。ちなみに、業界新聞じゃなくて普通の経済紙。チャートは気に入った銘柄しかやんなかったから案外少ないんだよ」


 普段と変わらない小夜の声がした。


「新聞の綴じ込み?」


 聞き覚えのない事柄を耳にした零央の声には疑念が混じった。


「そ。経済紙の株式面を綴じてあるの。株をやるにはチャートと同じぐらい大事だってじっちゃんは言ってた」


「ぼくにはおっしゃいませんでしたよね?」


「ま、ね。教えんのが一年て決まってたからさ。いいかなって」


 笑って言った後で小夜が尋ねた。


「零央くんもやってみる?」


「やります!」


 即座に零央は返事をしていた。プロの仕事を知ることができて嬉しかった。新しい内容を教えてもらって嬉しかった。作業の面倒さよりも上達への道筋が見つかった方が嬉しかった。


 また一つ、りょうげんさんに近づける。


 対面もしておらず、今後も永遠に会えようもない人物は零央の中で大いなる存在となっていた。目標とするに足る人物だった。

 零央は、改めて自分の眼前を埋める膨大な資料を見渡した。

 積み重ねた作業と年月の重みが零央の前にはあった。最初の訪問の時、小夜が株式投資を亀の歩みに喩えたことを思い出していた。耳にした時にはしっくりこなかった喩えも今なら分かる。喩えは投資の成果のみならず、そのための準備も含んでいた。どれだけの時間と労力を費やせばこれだけの資料を作れるというのだろう。気の遠くなるような思いを零央は味わっていた。

 近くに立つ小夜に尋ねた。


「小夜さんも同じ作業をしているんですか?」


 肯定の言葉を言って小夜が頷く。


「じっちゃんがやってたんだから、あたしもやんなきゃ」


 …何て謙虚なんだ。


 静かな感慨を零央は抱いた。

 市場に立ち向かう姿勢がまるで違う。自分はやり方まで間違えた。損失を出すのは当然の帰結だった。


「どうせだから、手に取ってみれば?」


「はい」


 零央は手近にある比較的新しい資料から手にし、見入った。

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