第108話 良弦の資料

「以前、父から聞いたことがあるのですが、プロの方は資料を重視されるそうですね?」


「ああ、確かにね」


「りょうげんさんもでしたか?」


「もちろんさ。毎日整理しててね。大事にしてた」


「その資料はどうなさったんですか?」


「あたしが引き継いで保管してるけど?」


「見せていただくわけにはいきませんか? 今後の参考にしたいんです」


 申し出を聞いた小夜は眉根を寄せて首を捻った。


「うーん」


 軽く唸った後、首を起こすようにして捻り直した。迷っているようだった。


「ダメですか?」


「いや、ダメってわけじゃないんだけどさあ…」


 口調は歯切れが悪かった。


「むしろ、勉強のためには見せてやりたいぐらいなんだよなあ」


「でしたら―」


「でもねえ、見せてあげたいのはやまやまなんだけど、あたしんチってあたししかいないからさあ。零央くんでも招くってのはどうなのかなあ」


「お独りなんですか? お父様やお母様は―」


 言いかけた零央が気づいた時には遅かった。悲しく歪めた顔を小夜がしていた。


「…二人とも事故で死んじゃった」


「…すみません。不用意でした」


「ううん。いいんだよ。あたしも何にも言ってなかったしね」


 慮りを欠いた言葉を零央は悔やんだ。何でもないかのように振る舞っている小夜の様子も、却って心に痛みを呼んだ。


「…今述べた希望はなかったことにしてください」


「希望って…、資料のこと?」


「そうです」


「え? でも…」


「いえ、構いません。お願いします」


 頭を下げ、頑なに零央は解消を願った。小夜に悲しい思いを繰り返させたことが自分で許せなかった。敷居を跨ぐ資格は無いと考えていた。おそらく父親の数磨は知っていたはずだ。プライベートな事柄にも関心を払っていれば避けられた事態だった。

 断ってみれば、良弦の資料を見られなくなったのは残念ではあった。それに、小夜の生活する家を見てみたいという思いも少しばかりあった。下心と言われればそれまでだが、私生活の一端に関心を寄せているだけでそれ以上のものではない。このような成り行きでは断念するよりなかった。


「そっか」


 小夜が口元で笑っていた。『そこまで気にしなくていいのに』とでも言っているかのようだった。


「気が変わったら言いなよ。考えたげる」


「…はい」


 返事をしてはみたものの、既に零央にとってはあり得ない事柄になっていた。すぐに話題を変えた。


「少し歩きませんか? まだ見ていない場所があります」


「あ、うん」


 促すと、小夜はテーブルの上の紙くずを摘み上げようとした。食べ終わったクレープの丸めた包み紙だった。


「いただきましょう」


「あんがと」


 差し出した零央の手に小夜が紙くずを載せる。手の平で包むと零央はドリンクを飲み干した。噛み潰したタピオカが滑り落ちていく感触は妙に喉に冷たかった。

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