第84話 やりたいことをやれ

 実行に到ったのは全くの偶然だった。所属する大学でシンポジウムがあり、参加企業の中に出版取次の会社があった。その会社は膨大な書籍のデータベースを持ちながらも活用できておらず、売上の減少もあって新規事業を模索していた。事業プランの募集に対して手を上げたのが零央だった。サービスを展開するための人員や設備は企業側が受け持っており、零央が提供したのはアイデアのみだった。零央の構想は企業の事業領域を侵すものでもあったため、内部の調整に多少の時間を要したものの最終的には時代の趨勢を見極めた果断な決断が下された。中古の書籍に対象を絞り、競合を意識したサービスは小粒ながらユーザーの支持を得ていた。


「いいんじゃないの?」


 話を聞いた小夜は軽い調子で肯定した。


「仕事の二股は悪くないよ。どっちかダメになっても生きる道があるからね。恋愛だったら、男だろうが女だろうが信用できないけど」


「ですね」


 二人は笑った。


「何があんたを引き留めてんのかな? あたしだったら、それだけ実績が出てたらやるけどな?」


「…そうですね。何でしょうか?」


 紛らした受け答えをしつつも零央にはおぼろげながら理由が分かっていた。おそらくは不安定な環境に身を投じることを回避しているのだ。現時点での零央は将来がある程度見通せる状態にあった。そして、見通しを捨て去るほどの情熱を試みに対しては感じていなかった。それでもなお結果が出せている状況は、ビジネスにおけるタイミングや協力関係というものの重要性を物語ってもいた。


「思いつきで始めてしまったのが良くありませんでしたね。どうしてもやりたいわけじゃなかった」


「だったら、やりたいことをやればいいじゃないか」


「それが難しいんですよ」


「何でだよ?」


 追及された零央は口を重くした。

 正直な話、零央にはやりたいことがなかった。もちろん、日常の生活や趣味などには、それなりの要望なり指向なりがあった。だが、それらは決して強烈な欲求ではなかった。堅固な意志を抱かせる類の対象でもない。小夜の言う『やりたいこと』とは、そうした強く心に訴えかける何かであるはずだった。


 言い出しかねていると小夜が言った。


「やりたいことをやった方がいいよ? 人生は一回しかないんだからさ」


「そうですね。それは同感です」


 零央は気弱な笑みを小夜に向けた。優しく小夜は受け止めた。


「やりたいことをやらないと頑張れないって、じっちゃん言ってた」


「頑張れない?」


 一つ、小夜が頷いた。


「頑張れないっていうより、踏ん張れないって言いたいんだろうなってあたしは受け取ってた。しんどいと投げ出したくなるもんじゃん? 人間って」


「そうかもしれませんね」


「だからさ、元々やりたくもなかったことなら、余計に投げ出すに決まってるじゃん。嫌がってんだからさ」


 小夜の言葉を受け、眼を見開いた零央は黙り込んだ。


 確かにそうだ。人は、嫌なことは投げ出すものだ。気乗りしない事柄をやり続けていて、そこへ困難が降りかかれば、ここぞとばかりに放り出したとしても何の不思議もない。自分の望んだことをやっているなら、容易に投げ出したりはしないだろう。少なくとも粘るはずだ。零央は己が境遇に思いをはせた。


 …今の自分は、やりたいことをやっているのだろうか?


 会社の跡継ぎ候補として数えられているのは創業社長の子息として生まれたからだ。投資に勤しんでいるのも、後継者を選定する目的で父親から課されたからやっているだけだ。どれもみな成り行きだった。

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