第82話 就職も投資

 しばらくの沈黙の後、唐突に小夜が口を開いた。


「…じっちゃんが言ってたっけ」


「はい?」


 呟くように聞こえた言葉を零央は聞き洩らした。


「これも、じっちゃんが言ってたんだ。就職する時の会社選びも銘柄を選ぶのと同じだって。会社ってさ、寿命があるって言うだろ? そうすると、今調子のいいとこに入ると年月が経って出世した頃には会社は落ち目になってたりするんだってさ。ま、必ずってわけじゃないんだけどね。でもさ、責任重くなってから会社が落ちぶれたりすっと困るよね? だからさ、そうじゃなくて、これから伸びる会社とか、今んとこ調子を落としてるような会社に就職すると将来上向いた時に報われることになるんだってさ」


「入るなら、今業績のいい会社ではなく、今から業績の良くなる会社に入れ、と?」


 小夜が頷いた。


「就職ってのは、実は労働力っていう資本の預け先を決める投資なんだよね」


「どうしたんですか、急に?」


 零央が尋ねると小夜は腕ごと指を上げた。指差した先にはとある店舗があった。それはトラッドなファッションブランドの店で、他の店舗には多くの客が見えるのに対して一人の入店者もなかった。店員が手持ち無沙汰な様子で立っている。零央の印象ではブランドは確立しているものの現在では広範に受け入れられている状況にはない。往年のブランドだった。店舗の状況は、そのままブランドの状況を如実に反映していた。


「お店を好きで勤めてるならいいけど、単に給料をもらうためだけなら冴えないよね。ん? 逆か?」


 小夜が眉根を寄せた。


「ま、とは言ってもさ、店員さんがどういう状況で何を思って働いてるかなんて分かんないんだから、外野のあたしがとやかく言っちゃいけないよね」


「それはそうかも知れませんが…」


 言葉を濁しつつ、零央は店の様子を眺めた。遊歩道を行く人々は店の前を素通りしていく。ブランドの衰退は明らかなように思えた。


「会社やブランドってもんに浮沈がある、ってのは別に言ってもいいかな?」


 小夜の言葉に零央は同意した。


「だからさ、職選びが投資なんだっていう、じっちゃんの見立てが正しいんだったらさ、やっぱ、ちゃんと考えないといけないよね。何となくで決めちゃって、いいことあるわけないじゃんねえ?」


 小夜の言葉を聞いて零央は言葉を失った。


「? どったの?」


 訊かれて我に返った。


「ああ、いえ。ホントにそうだな、って思ってしまって」


 零央は小夜の言葉を自分に当てはめて考えていた。


 小夜の言うように就職が投資なのだとしたら、自分は何に投資すればいいのだろう?


 突如として大いなる疑問が胸の内に生まれていた。

 零央は桐矢家の人間としてキリヤの仕事に携わるものと幼い頃から思い込んでいた。何よりも周囲の人間の言動がそう思わせてきたし、明言こそしなくとも父親自身も望んでいると折に触れて感じるものがあった。おそらくは兄二人も同じ思いを抱えているはずであった。これまで、そうした思いに疑問を抱く機会はなかった。だからこそ、後継者を決める試験の話を聞いても当たり前のように受け入れたし、最善を尽くすために小夜の助力を仰いだのだ。

 もし後継者に選ばれたなら、伝え聞いた者全てが深い感慨を抱くであろう出来事だった。だが、キリヤ・ホールディングスは父親の手によって既に隆盛を誇っている。隆盛を誇っている状態とは、株に照らして考えてみるなら上昇している姿と相似だ。ならば、実のところ自分にとっては後継に選ばれないことこそが正解なのではないか。零央の脳裏をこれまでの思い込みを根底から覆すような考えがかすめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る