八十四話――月夜の密談
ナシェンウィル国内一等地のフィフラーバルからほど近いミネトラ地区。ハイソな地区として有名なここは昼も夜も静かで穏やかな空気がただようのだが、夜は独特の冷えた雰囲気が流れている。どこの地区にもない特色。超高階級層だけが通う地区故の静謐。
この時刻、宵の帳が落ちてしばらくも経つ時に明かりを灯している店はない。……通常ならば一切ないこのミネトラ地区の常に逆らうように一軒の店に明かりがあった。
店外灯に白い明かり。店内には一棟をつくる漆黒の木材に反する赤が揺れている。
夜の青闇にあってなお存在を主張するかのような赤は強烈でもなんでもない。ただそこに在る。そう在るだけの明かり。「衣装ジルバーズ」に明かりが灯されていた。
明かりがある以外ひとの気配すらないと思われた店内で男が椅子に腰かけていた。古めかしい煙管をふかすのは黒い髪に
だが、彼は老人だった。たしかに歳を取った顔だったし、声も老人の震え声だった。
「いったいどういうことだ。なぜここに彼の御方の君姫がおられるのだ? わからぬ」
なのに、今、彼は若者の声で喋っている。少なくとも全盛期の若々しく力強い声だ。
店内でひとり呟く。君姫、というのが誰のことか、誰にもわからない。わかる者は今まだいない。そう、まだいない。つまり、ジルバーズと思しき男性は待っているのだ。
話ができる者を待っている。
その為の準備も済ませてある。人数分の椅子。ジルバーズが座っているのも併せ、四脚の椅子がある。ひとつの机を囲むように置かれた椅子の前には雅な細工のなされた硝子のグラスも置かれている。そして、中央には酒瓶が一本だけ鎮座している。
が、ラベルには杏子ジュース、と手書きがある。来客者は酒が苦手か嫌いらしい。
ジルバーズがふかし終えた煙管の中身を入れ替えようとした時、出入口の鐘が鳴った。
カロン、コロン、と軽やかに。これに二十代の姿でいるジルバーズが顔をあげる。
「相変わらず、私たちだけと会う時、あなたはそちらの姿になるのね、ジル?」
「なにかと気楽だからね、ニウィ。君たちはそれぞれに相応しい歳を繕っていて大変だ」
「嫌みですか、ジルさん?」
「噛みつかないことだよ、オクィレント。親しみやすい年齢に見えるのはいいことだろ」
「対応は冷たいままだけどね」
「ニウィ、勘弁してくれ。君にまでからかわれたくないよ。トリーリもなんとか言ってくれたっていいだろう? どうして僕ばかり集中攻撃されなければならないのさ?」
「それはほら、君姫と一番多く接しているからじゃないですか? わからないですが」
「えええぇ、心狭っ」
突っ込みや抗議に忙しいオクィレントと呼ばれた男性は本日昼と昨日の朝、バスナ区役所でシオンの対応をしたおじさんだった。他の来客者にも併せて茶化され、彼は膨れる。
「ジルさんだって今日接客したんだろ? それも採寸とか僕よりも近いじゃないかっ」
「そういう問題じゃないと思いますよ、オクィレントさん。頻度の問題かと。だってもう千年以上も君姫にお目にかかれることは二度とないって言われ続けてきて。なのに……今日こうして会えたことは奇跡です。数千年に一度の、私たちにとっても奇跡なんです」
奇跡だ、と言ってオクィレントを宥めたのはトレジだった。だが、そのオクィレントは彼をトリーリ、と呼んだ。ジルバーズに最初、声をかけた女性もこの中央国では有名な人物であり、中央校の教頭職に就いている。
ニークウィニーサ、トレジ、区役所内でオッティと愛称で呼ばれる者らが「衣装ジルバーズ」で会していた。彼ら彼女らはそれぞれジルバーズに会釈し、会合の準備どうも、をしてから席に着いていく。すかさずジルバーズが杏子ジュースを注ぎ、自分のに手酌。
これを見ていたトレジがどこか落ち着きなくそわそわしたが、ジルバーズは先んじて彼の言葉を封じておくのに手を翳した。大丈夫、結構だ、との意味あいがある動。
「トリーリ、君は謙虚すぎるよ」
「ですが、その、歳がいくらも上のあなたに手酌などさせてはあとで私が
「それこそ心が狭いね」
「そうよ、トリーリ。それにこの場に年長者への敬意だとかはむしろ無粋。今日は大切な話をしに来たのだから。余計な気を遣う方が失礼にあたるわ。ね、ジル?」
「ああ、ニウィの言う通り。みな、今日集まった理由を知っている。君も知っている」
「……あなた方がそう、おっしゃるなら」
渋々、というふうだったが折れて黙ってくれたトレジにそれでいい、とばかり他三名が軽く頷き、オッティとニークウィニーサがジルバーズを見た。トレジも注目する。
ジルバーズは杏子ジュースを一口飲んで今日この時、集まった者たちへ議題を与えるのに口を開いた。若々しい声だが、不思議と偉大なる者、を彷彿とさせる威厳がある。
「さて、早速本題といこう。なぜ、の理由を誰かあの御方に訊くことができたかい?」
「いいえ。どんなに訴えても「見守ってやってください」としか言われないわ」
「僕も、ね。お嬢様が区役所に来られた時は本当、心臓が飛びでるかと思ったっていうのに、僕からのそうだね、あの方曰く告げ口でユトが派遣されたみたいだけど顔見て帰ったってアルアが不満を零していたよ。あ、もちろん、大君には内緒での愚痴だけど」
「私たちは本日はじめてお目にかかったわ。びっくりした。お顔、背の君にそっくり」
「そうだね。アレもとても美しい顔立ちをしているからね。でも、思考は大君寄りだ」
「あら? 話せたの? お嬢様の友人を自称する人族のこどもが一緒だったのでは?」
ニークウィニーサの素朴な疑問にジルバーズは首を横に振る。そして、なんともあっさりと種明かしをしてくれた。彼ら彼女らが「大君」と呼ぶひとにシオンの思考がなんとなく寄っている、という確信をえた理由というものを。普段の観察眼がものを言う理由。
「あの場で彼女を不用意にお嬢様呼ばわりしては怪しまれるからね。ただ、古代史の分厚い本を鞄の一番取りだしやすい場所に詰めてらしたので、そうだろう、とね?」
「ああ。古代のことなど常にお考えになられるのは大君くらいなものだわ、たしかに」
「そうとも。歴史に、史実に、常より学びをえられる御方だからね、大君は。だからこその偉大なる叡智。至上の賢者が如き、尊きお考えを日々研きあげておいでだ」
「でも、今回のことは大君らしくない、と私は思うの。どうして放置なの? だって」
だって、その先をニークウィニーサは続けられない。悲しげに、苦しそうに額を押さえて頭痛を堪える仕草。トレジも同じだった。これにジルバーズはひとつ察する。
だから、ふたりが以上に言わないでいいよう手をあげて「言わなくてもいい」とした。
オッティもなにかを察したのか、口を噤む。店内に静寂が落ちる。しかし、言わなくてもいい、と合図されたニークウィニーサだが、思考を共有してほしくて口にだす。
「大君はお嬢様を愛している。誰よりも深く、誰よりも大事に想っておいでだわ。それなのに、お嬢様はどうしようもなく絶望していて、救うことすら憚られるほどお嘆きだわ」
「はい。御身に愛がない、などと。それにあの志望動機は本当に思いだすだけで辛い」
ニークウィニーサに続いてシオンを面談したトレジも口をだす。シオンの絶望と悲しみを思い、それだけで激痛を浴びてしまうかのように。まるで我がことのようにシオンの抱く悲痛を思うふたりはとても辛そうだ。
トレジの言葉にオッティは息を飲み、ジルバーズは神妙そうにまばたきする。
「なにを志望動機とされたのかね?」
ややあって、ジルバーズが口火を切った。シオンがいったいどのような志望動機で面談試験に臨んだのか、と問う。ふたりは言いにくそうにしていたが、ニークウィニーサが口を開く。店の外に突風が吹き、彼女の言葉が外に漏れないように搔き消した。
が、三人はしっかりと耳に入れ、それぞれに辛そうな顔となる。みな似たような、凍てついた表情だが、感情が揺れる瞳には激痛が在る。シオンの悲痛な心の叫びが志望動機には溢れていたのだ。目にしてしまったニークウィニーサとトレジは目を伏せる。
そして、またひとつ静寂がただよい、ニークウィニーサが震える声で続きを口にした。
「賛成すべきではなかったの。どうあっても反対で在るべきで。そう、在りさえすれば」
それは過去に横たわる後悔。その当時から反対だったが、説き伏せられ、承諾してしまったことで生まれた後悔をニークウィニーサは今、嘆いていた。だが、これにはジルバーズが言葉を添えてやる。ニークウィニーサの心にかかっている重さを取り除く言葉。
「大君への叛意は一族すべてを敵にまわすことに等しい。我々に選択肢はなかった。大君は絶対だ。そして、そのことで生じる大罪を大君は一身にお受けになるおつもりだ」
「そんな、だって、あんな……っ」
「そうとも。ゴミのせいでお嬢様方が犠牲の贄に選ばれ、責めは大君のモノ。許し難い」
許し難い、と言いながらジルバーズも過去の自分に憤怒を抱いているのか
シオンをお嬢様、と呼ぶ彼ら彼女らはシオンのあまりにも悲しい覚悟と先を望まぬその凍てついた心を痛ましく思っている。本来ならば、と……。過去を知るが故に、知っているばっかりに。どうしても許せない。自分自身の決断が今、痛みとなって襲いかかる。
ゴミのせいで、と言ったジルバーズはだが、かすかに怯えるトレジを見て咳払いし、自らの怒りを抑えた。抑え切れてはいない。それでも、年少の者への配慮だった。
「どうすればいいの……?」
ふと、ニークウィニーサが呟く。どうすればいいの、と。これから先、どのようにシオンと向きあってあげればいいのかわからない。わからなくて囁くよう答を求めた。
しばらくは誰も答えなかった。たったの一言なのに、異様に重い問い。嘆きと怒り、いたらなさにニークウィニーサの声には涙の色が混じる。が、ややあってジルバーズが正答に最も近しきを教える。まるで自分自身にさえも言い聞かせるかのような言葉で。
「見守ろう。大君のお言葉のままに。困っておいでの折には相談に乗る。それ以外での干渉はしない。過度に関われば聡いお嬢様のことだ、なにがしかに勘づいてしまう」
「でも、ノルオスとのこともあるのよっ」
「わかっている。無茶をなさらねばいいが。それでもしてしまった時はそれこそがお嬢様の正義だったのだと思って認めて差しあげるしかないさ。正義は、愛なのだろう?」
ジルバーズはシオンの言葉を借り、三人に言い聞かせる。シオンにとっての正義とは無であり、愛。目に見えぬ、なのに、明確な形あるモノ。シオンの愛。それは例えば……。
「なんだか、アンジェさんみたいですね、お嬢様の愛って。よくアンジェさんに遊んでもらっていたからかな? それとも、アンジェさんで遊んでいたせいかな?」
アンジェで遊んでいた、と言ったトレジの口元に一粒の笑み。それはとある珍事を思いだしてのこと。これには、暗くなりかかっていた場も明るくなる。くすくす笑いの声。
「ああ、あの悪戯はもう、一生ものの笑い。アンジェには悪いけど、さすがに笑った」
笑うなっ、との突っ込みが聞こえてきそうだが、四人はそれぞれに笑う。笑ってしまうのは仕方がない。だってそう……。あの当時、すでにあの称号を受けていたアンジェにシオンが、正確にはシオンたちがした悪戯は笑いから遠い彼らをツボにはめた。
「ふふ、彼が珍しく昼寝している隙にレースリボンを頭にお飾りになられるなんて」
「僕だったら計画した時点で漏らすね」
「アレもまたお嬢様方のある種偉業だ。ずっと、あの事件以降塞ぎ込み気味だった彼を違う意味で元気にしてくれたのだから。アレ以降、彼は少し落ち着いて見えた。まだ悲しみ、苦しみ、憎しみで心痛めていてももう激情に焼かれることはなくなった気がする」
ジルバーズの言葉でまた室内に沈黙が落ちる。特にあの事件、と口にした時、場の空気がたしかに凍った。そこだけ極寒の地であるかのように凍てついてしまった。
「恨んでいる、わよね。まだきっと」
「憎んではいない。怒りと悲しみの業火を抱えていても、憎悪に身を焦がしてはいない筈さ。でなければ、大君は彼を
「そう、ね。あの時は怖かったわ。本当に、本当に怖かった。彼のこともそう、あの男のこともそうよ。あんな野蛮で残虐な真似を平然とできる人間がいるなんて思わなかった」
「ああ。あの時ほど死を身近に感じたことも人間を汚らわしいと思ったこともない」
ニークウィニーサの言葉にオクィレントが同意する。トレジやジルバーズも押し黙って沈痛な感情を瞳にふらりと揺らす。アンジェ、という誰かのことを思うが故に。
そしてなにより、シオンを想って四人は苦い思考を共有する。彼女にもしものことがあればことだ、というのは口にださなくともわかる。わかるからこそわからない。
「ねえ、ジル? どうにかして大君にお伝えできないものかしら? 危険すぎるわっ」
「残念だけど不可能さ。アレで大君は堅いところがあるし、決め事を破らないひとだ。私もお嬢様が去ってすぐ連絡を入れたが「現状維持を」と一言でバッサリやられたよ」
「でも、ジルさん」
「そうです。もしもがあってからでは」
「遅い。そうだ。だがね、大君の身にもなってあげなさい。あの御方こそいの一番にお嬢様に会いたいし、抱きしめてあげたいと願っているのだと。それを押し込めてこの人間世界で暮らせるように手配させたのには理由がある。お嬢様は自らの意思で学ぶべきだと」
「そんな、そんなの我々が教えて」
「いけないよ、オクィレント。それは我らの思想に寄ったことだ。お嬢様は真っ白なところに己が本当に信じるべきを刻み込むべきなのさ。それだけが、大君に今できる精一杯」
「……皮肉ね。この世界は、本当に」
「ああ。では、これで散会としよう。いいね、過度な干渉は避けること。できるだけだ」
「わかったわ」
「はい」
「君が言うなら、ね。大君のご意向だし」
それだけ言葉を交わして一同はジュースを飲み干して席を立った。ジルバーズが三人を見送り、扉を閉める。格式ある店内にひとりきりになった男はぽつりと零す。
「せめて、何事もないことを……」
それだけ呟いてジルバーズは店の外の明かりを消し、店内の蠟燭に灯っている火も吹き消して闇の中に消えた。誰もいない静けさ。先までの静かながらも白熱した討論が嘘だったように、「衣装ジルバーズ」にもまた、他の店と同じ静寂が落ちたのだった。
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