6章 青い惑星 - 2

 ひどく寒かった。

 考えなくても分かる。これが死の温度というやつだ。僕はもうすぐ死ぬか、あるいはもう死んでいるかのどちらかだろう。

 ヒートライドの落下とともに潰れて死んだのか、落下によってヒートライドが破損し、流れ込んだ冷気によって凍死したのかは分からない。どちらも同じような気がした。だけどもし選べるならば凍死のほうがいい。死体が腐りにくそうだ。だけど罪に塗れた僕に似合いなのは間違いなく圧死のほうだろう。潰れてミンチにされたって、僕に文句を言う資格はない。

 セッテは、無事だろうか。

 落下がどれほどの衝撃だったのかは分からないが、ドールは多少の衝撃では壊れないように作られている。だから無事かもしれない。もし無事なら、簡単に壊れてしまう脆い僕のことなど放っておいて、どこか遠くに逃げてほしいと思う。きっと保安局もドームの外までは追ってこないだろう。もし保安局の執念深さと謹厳さが予想以上でも、ストライキが収まるまでは手が回らないはずだ。僅かに与えられた猶予でも、ドールの脚ならかなり遠くまで逃げることができるに違いない。

 遠くのほうでパラパラと音が聞こえた。

 天使が吹く喇叭にしては無味乾燥な気がしたが、そんなものなのだろう。少なくとも天使に歓迎されるような人生は送れなかったのだから。地獄の閻魔に引き摺り回されたりしないだけ、感謝すべきなのかもしれない。

 ひどく寒い。ひどく寒かった。

 僕の思考は余すことなく最後の一片まで、ゆっくりと、確実に、凍りついていく―――。



 熱した針が神経に流し込まれるような、強くて鋭い衝撃が僕の全身を駆け巡った。

 真っ黒だった景色はチャンネルを切り替えたみたいに白くなり、やがて白のなかにおぼろげなシルエットが浮かび上がる。


「        」


 何かが聞こえた。何が聞こえているのかは分からなかった。


「        !」

「         」


 シルエットは二つあった。二つのシルエットが懸命に何かを叫び、僕に声を掛け続けていた。


「     ろ!     しろ!」

「       し    か」


 もう一度、鋭い衝撃が全身を駆け巡る。左の胸の奥のほうが蹴り飛ばされたように痛み、景色の靄が急激に吹き飛んだ。


「――――――――――――ぅはっ!」


 色々な情報が一斉に五感に流れ込み、脳がパンクして悲鳴を上げる。勢いよく吸い込みすぎてしまった空気に肺が蹂躙され、僕は血を吐く勢いで咳き込む。


「大丈夫か、ナナオ。俺が分かるか?」


 まだ少し霞む視界に見えたのはトムだった。すぐそばにはナナオもいて、不安そうな顔で僕を見下ろしていた。胸に貼り付けられたAEDのパッチが、朧げな意識のなかで感じていた熱と衝撃の正体だろう。僕はまた二人に、助けられたのだ。


「僕は、一体……」


 周囲を見回して、気付く。僕の左腕の肘から先がなかった。既に止血は施されていたが気づいてしまったら最後、耳が吹き飛んだときとは比べものにならない激痛が神経を嬲った。


「あ、あ……あぁ、あっ、ああっ!」


 悲鳴さえ、満足に出すことができなかった。声が出ないまま、口だけが魚みたいにぱくぱくと空回りした。


「落ち着け! ナナオ! ゆっくり呼吸しろ! 大丈夫だ!」

「う、腕……え、腕、うう、うでがっ、あ、あぁっ!」

「ナナオ! ナナオ、しっかりしろ! 息を吸え! ゆっくりだ!」


 のたうつ僕をトムがなだめる。僕は縋るように浅い呼吸を繰り返す。半開きの口からは情けない呻き声と泣き声が漏れる。

 セッテは抱えていたAED端末を放り出し、僕の右手を握る。僕は真っ直ぐに僕へと向けられる眼差しに意識を注ぎ込む。ほんの少しだけ、痛みが和らいだような気分になった。


「そうだ、ゆっくり呼吸を整えろ。止血はしてある。鎮痛剤も打ってある。大丈夫だ。大丈夫だから落ち着け」


 呼吸が整い、徐々に周囲が見えてくる。

 どうやらヒートライドは落下の際に横転したらしい。僕は今、壁だった場所に横たわっているようだった。当然、積み込まれていた棚や機材はぐちゃぐちゃになっている。僕の左腕はたぶん、吹き飛んだ機材にでも持っていかれたのだろう。

 トムも血だらけだった。額からは血が流れ、活動服アクティブドレスは真っ赤に染まっている。セッテも流れる血こそないものの、人工皮膚が剥がれた場所からは鈍色の躯体が覗いている。他にも落下や銃撃戦で怪我を負った採掘課のメンバーが血を流しながら呻いていた。

 耳をすませば、ぱらぱらと銃撃音が聞こえた。保安局は僕らを追い出しただけではなく、ここでトドメを刺すつもりらしい。ワンフーたちがどれほど強いかは知らないが、苦戦を強いられていることは間違いないだろう。

 もう、今度こそ、打つ手はなかった。

 これまで幾度となく困難が降りかかり、もうダメだと思う度に誰かが手を差し伸べてくれた。僕だけではどうにもならないことも、誰かの助けに背中を押され、手を引かれ、辛うじて乗り越えてこられた。

 だが今度こそ、終わりだ。

 ドームは閉ざされ、逃げ場のない僕らは保安局の銃撃に遭っている。食糧はもちろん、銃弾だって潤沢にはないだろう。それにもし奇跡が起きて保安局の手から逃れられたとして、僕らに生き残る術はない。立ち向かって抗って散るか、飢えや寒さのなかでゆっくりと死に至るかを選んでいるに過ぎない。


「トム、本当に、本当に……」

「気にするな。まだ終わっちゃいねえ。こんなとこで死ぬのは御免だ。なんとかするぞ……とは言いてえが、かなり厳しいなこりゃ」

「すまない。こんなことに巻き込んで……」

「みなまで言うなよ。ただ年食ってくたばるよりはずっとましだ。それに俺は、手足捥がれたって大人しくしてやるつもりはねえよ」


 トムは真っ直ぐにそう言ってくれる。だがそれが虚勢だと、僕でも分かる。

 全くもって非科学的だが、これは呪いなのだ。

 僕に関わった人間はみんな不幸になっていく。いや、僕が不幸にしてしまう。かつて拒絶して殺したカレンの怨念が、僕を、僕の周囲の人間を、破滅へと導いているのだ。意識が途切れる瞬間、僕がカレンの姿を見たのはきっと幻でも何でもないのだろう。

 カレン・ウノの潰れた顔がずっと、のうのうと生きる僕を恨めしそうに見つめている。


「ナナオ」


 セッテが僕を呼んだ。引力のある眼差しが、僕を真っ直ぐに捉えて逃げることを許さない。だがもはやそこに救いはなく、僕を痛めつけるような純真があった。


「ナナオ。私は見て、みたいです。地球。青くて豊かな星。今はまだ、想像もできないけれど、ナナオと一緒に、地球を見てみたいです」


 それは僕がずっと確かめたかったことであり、望んでいた言葉だった。

 だけどそれは今、どうしようもなく空虚に響くだけの妄言にも近い願いだった。


「ナナオ、私は―――」

「もう無理ですよ。地球は見られない。僕らにはもう打つ手がない。望んでいるだけじゃ、どうにもならないんです」


 僕はどうにもならない現実から逃げたくて、セッテから顔を背ける。床にべっとりと付いた血はまだぬらりと黒く光っている。


「僕は間違えた。また間違えたんだ。自分本位に人に関わって、全部を台無しにした。こんなことなら。……こんなことなら最初から―――」

「ナナオ、それ以上は言うんじゃねえぞ」


 トムがナイフみたいな鋭い声を僕の喉へ突き付ける。僕はもうどうしたらいいか分からなくて、言葉だけは辛うじて呑み込んで、黙った。

 小学生のとき、学校で飼っていたウサギが死んだ。落ち込んだり泣いたりするクラスメイトたちを見て、僕は気持ち悪いなとぼんやり思った。死別が哀しいというのは分かる。だが命あるものは必ず死ぬ。遅いか早いかの違いはあるけれど、それだけだ。僕は彼らの涙の理由が分からず、まるでタイミング悪く自分たちの前で死んでくれたことを恨むようなものにさえ見えた。

 中学の時、クラスで虐めがあった。担任に個室へと呼び出されて代わる代わる事情を聞かれるなかで、僕は答える。笑っていたから問題ないと思います。持ち物を勝手にゴミ箱へ捨てたり、机の上に花瓶に入れた仏花を置いたり、トイレで頭から水を被せることが問題ないはずがないことは知っていた。だが僕は、そんな仕打ちを受けながら必死に笑っていた彼の気持ちが理解できなかった。嫌なら嫌と言えばいいのに。虐められていた彼は、僕の小学校からの幼馴染だった。

 高校に入ってすぐ、同い年の女子に告白された。話したこともない僕を好きになるなんて、どうかしていると思うと、考えたことをそのまま答えた。その子は泣いて帰り、次の日の朝、その子の友達に人の心がないと詰られた。

 以来、僕は人と関わりすぎることを積極的に避けることにした。理解できない僕が悪いのか、不可解な周りが狂っているのか、分からなかった。だけど数学の定理や物理の法則みたいに一定性のないそれに関わるのが面倒なのは確かだった。

 そしてその面倒さと同じくらい、それらしく振る舞うことが重要なのも確かだった。無暗に波風を立て、敵を作ることが生きる上で得なはずがない。

 そこで目をつけたのがドールだった。感情も共感もないのに、それらしく振る舞う彼らの構造が理解できれば、僕もそれらしく振る舞える人間らしい何かでいられるような気がした。大学ではドール工学を専攻した。

 僕の研究は在学中から成果を出し、実績もそこそこ積み上がっていった。だけど僕には何が感情の正解なのか、ほんの一部分さえ理解できないままだった。

 研究者になり、カレンと出会ってからはセッテに話した通りだ。

 僕は僕自身の手で犯した罪は、これまでの人生全てが誤りであったことを決定づけた。

 何が間違いだったのか、今なら少し分かる。

 僕には他人を理解する気がなかった。理解する気もないのに理解できないからと遠ざけ、遠ざけられなかったものは無感情に踏み躙った。

 怯えていたのだ。僕は人の感情という未知に。

 関わらなければよかったのだ。トムやワンフーたちとも、仕事だけの事務的な関係を築き続けるべきだった。

 そうすればセッテと出会うこともなかった。左の耳と腕を失うことも。誰かに銃口を向けることも。皆が罪を犯し、命の危険に晒されるようなこともなかった。

 覚悟もないのに、何かを望んではいけなかった。

 僕は最初から何もかもを間違えていたのだ。間違えて、他人の全てを滅茶苦茶にした。


「なあ、ナナオ」


 トムが言った。吊り上げた口元は相変わらず引き攣っている。だけどなぜか、そこに振り切った自信のようなものが垣間見えた気がした。


「これくらいで十分なんて、自分で線を引くなよ。惨めに這って、砕け散って傷つけ。お前がしでかしたことは、それくらいのことだろうが」


 掛けられた言葉は安易な慰めでも、見えない希望でもなかった。とことん無様に失敗するまで止まるな。それが事を始めた僕の責任なのだと、トムは言っているのだ。下手な同情よりもずっと厳しく、だからこそ確かな温度の宿る言葉だった。


「状況は最悪だ。普通ならもう死ぬしかない。だけどよ、もしこの土壇場で夢を叶えたら、俺たち最高にクールだとは思うんだがどうだ?」

「夢って、まさか……」

「たぶん俺とお前が考えていることは同じだ。乗るか? この最高にクールな博打」


 僕はセッテを見やる。僕の一存では決められない。既に彼女は僕に確かな意志を示してくれたのだ。だから今一度問う必要がある。

 セッテは即座に頷く。澄んだ眼差しは、まだ見ぬ青い惑星へと向けられている。


「ナナオ、私は地球を見たいです」


 ならば決まりだ。迷うことはない。砕け散るまで進む―――間違え続けてきた僕には出来すぎた終わり方だと言える。もしその果てで、セッテに地球を見せるという願いが叶うならば、僕は僕の人生にささやかな意味さえ見出せるかもしれない。


「行こう。だけど博打じゃない。僕は君を信じるよ、トム」


 僕は頭上を見上げる。ヒートライドの武骨な壁が視界を塞いでいる。その遥か先にあるだろう青い惑星は、まだ見えない。

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