6章 青い惑星 - 1

 目覚めたセッテは僕を見るや、耳の無くなった顔の左側へと手を伸ばした。冷たい指先が傷口に触れたが、不思議と痛みはなかった。


「よかった。……本当によかった」


 僕は頬に触れるセッテの手を握り、うわ言のように繰り返す。そんな僕を、セッテは表情に乏しい顔でじっと見つめている。


「ナナオ、どうして泣いてますか? 怪我が痛いですか?」

「違いますよ。あ、いや痛くないわけではないんですけど……。僕は今、嬉しくて泣いてるんです。セッテさんにまたこうして会えたことが、たまらなく嬉しくて」


 裸のセッテの肩にブルゾンをかけながら僕は答える。次にセッテが口を開くまで僅かに間が空く。その沈黙の意味すら、今ならば少しだけ分かるような気がした。


「ナナオは、嬉しくても涙が出るのですか?」

「そうみたい、ですね」


 僕は言いながら、出会ったときにセッテが流していた涙を思い出す。

 セッテは困ったように、ほんの少しだけ眉根を寄せていた。


「分かりません」

「今は分からなくて大丈夫です。でもきっと、セッテさんも嬉し涙を流せると思います」

「流せるでしょうか」

「はい。流せますよ」


 あのときセッテは想像すらできない不自由に哀しみの涙を流した。ならばきっと、嬉し涙だって流すことができるはずだ。


「ナナオは、不思議です」


 セッテに眉根を寄せたまま、呟くように言った。

 僕はいい加減に涙を拭う。再会の余韻に浸るだけの余裕はまだない。分厚い装甲の向こうでは依然として、保安局の追跡の手が迫っているのだ。


「……セッテさん。僕はまず、あなたに謝らないといけません」


 今度は僕が真っ直ぐにセッテを見つめる。セッテの瞳は曇りなく澄んでいて、僕は吸い込まれそうな気分になった。


「僕はセッテさんをお店から連れ出しました。それは今の火星のルールでは違法です」

「ドーム法第七六条の違反は――――――」

「分かっています」


 僕はセッテの言葉を遮る。不意にセッテがいなくなってしまうような不安が押し寄せて、僕は彼女の手を掴む。


「僕が連れ出したせいで、僕が無力なせいで、セッテさんを危険に晒してしまいました。本当に、……本当にごめんなさい」


 ヒートライドの駆動音が響いていた。セッテはもう謝る僕を不思議だとは言わなかった。


「僕はあのとき、二手に別れようと提案したとき、きっともう投げ出しても構わないと思ったんです。囮になって捕まって、役目を果たした気分になりたかった。何かを成し遂げて、過去に犯した罪を償ったような気分になりたかった」


 結局のところ、僕はずっと自分勝手の都合で動いていたに過ぎない。地球でも、火星でも、僕はひたすらに自分本位に生きている。


「それは覚悟がなかったからなんだと、今は思います。誰かの何かを、背負う覚悟がなかった」


 当たり前だった。

 僕はずっと他者を拒絶し続けてきた。自分本位であることに縋って生きてきた。

 他人に向き合おうとしない僕に、誰かの何かを背負うことができるはずがないのだ。

 僕は、セッテに重なるカレンの面影を掻き消した。


「セッテさん、聞かせてほしいんです。僕はまだ、あなたの望みを聞いていないから。あなたの願いを、背負いたいんです」


 セッテの手に添えた自分の手に、ほんの少しだけ力を込める。冷ややかな機械の温度に意志は―――魂は、宿るだろうか。


「僕はセッテさんに地球を見せたいです。……セッテさんは、どう、でしょうか? どうして僕と、一緒に来てくれたんでしょうか?」


 他人に向き合う。

 それは口にすればとても簡単で、きっと誰もがごく普通にやっていることなのだろう。僕はそれがずっとできなかった。どれだけ努力したところで、理解なんてできないものだと思っていたから。

 でもたぶんそれは違った。理解できても、できなくても、向き合うということそのものにたぶん意味があるのだ。その意味を僕はまだ知らないけれど、無意味でないことだけは分かるような気がした。

 長い沈黙だった。

 やがてセッテが呟いた。


「レイリー散乱」


 それはかつて僕がセッテに教えた地球の空が青い理由だった。セッテはゆっくりと目を閉じ、それからまた開いた。僕に真っ直ぐに向けられた眼差しは、地球の空よりもずっと澄んでいるように思えた。


「ナナオ、私は―――」


 セッテの声を、あらゆる音を掻き消して、鈍い爆音と猛烈な衝撃が突き抜けた。ヒートライドが大きく揺れ、掴んでいた手がセッテから離れる。吹き飛んだ僕とセッテは壁に激突する。これまでのどんな衝撃とも比にならない、凄まじい震動だった。


「……そんな。ブリッジにいる限り、向こうは攻撃してこないはずじゃ……」


 状況を確認するように、あるいは願うように口に出してはみたものの、ゆっくりと左側に傾き始めた車体が僕の思考を言い知れぬ恐怖で塗り潰していく。車内のモニターに表示される外気温がみるみるうちに低下していき、あっという間に氷点下へと転じた。その意味を瞬時に理解できる程度には、僕は火星で過ごしてきている。

 手繰り寄せたはずの一縷の光明は、いとも容易く掻き消えていった。


「ナナオ! マズい! 奴らブリッジを落とす気だ!」


 斜めになった床の上を器用に走りながら、トムがやって来る。トムが着ている活動服アクティブドレスが、僕の予感を確信に変える。


「攻撃してこなかったのは、避難誘導を優先してたかららしい。ブリッジの出入り口の隔壁を閉められた。やられた! 今の一撃で、もうブリッジには穴が開いてるやがる。たぶん次でヒートライドごと、下に落とされる」


 突き付けられたのは、絶望。

 もはやどんな抵抗をしたところで無駄だった。ブリッジの閉鎖と崩落によって、僕らはドームから締め出される。そしてそれはそのまま火星社会から切り捨てられたことを意味する。

 限りなくテラフォーミングされつつあるドーム内とは異なり、火星の外環境はまだまだ人が生きるには過酷だ。飢えに苦しみ、寒さに震え、暑さに喘ぐ。そんな悲惨な未来が僕の脳裏を過ぎった。


「トム、本当にすまない……」

「謝る必要はねえよ。俺が選んだことだ」


 そう言ったトムの笑顔は引き攣っていた。

 当然だった。想定しうる限りの最悪が、今まさに降りかかっているのだ。


「掴まれっ!」


 誰かが叫んだ。僕は右手で近くにあった手摺を掴み、左手をセッテへと伸ばした。届くより先に凄まじい衝撃が僕らの平衡感覚を奪う。ほんの一瞬だけ重力が掻き消え、次の瞬間には心臓を鷲掴みにするような嫌な浮遊感が全身を駆け巡っていた。

 ブリッジから地面まで、一体何メートルくらいなのだろう。僕は迫る絶望から逃げたくて、そんなことを考えてみた。何メートルだろうと、状況の最悪さは揺らがなかった。

 突き上げた衝撃が脳を揺らし、意識を握り潰していく。

 僕はまた間違えたのだろうか。

 間違えたとすれば、一体どこで何を間違えたのだろうか。

 かつてカレンを殺した僕は、また僕自身のエゴに他人を巻き込んでいる。今度は一人ではない。トムも、ワンフーたちも、そしてセッテも。大勢が僕のせいで死ぬ。

 激しく揺さぶられて霞んでいく視界の隅、ぺしゃんこに潰れてしまったカレンの顔が見えた。

 罪からは逃れられないと、耳元で亡霊が囁く声がした。

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