3章 逃避行 - 4

 僕とセッテの間に落ちる気まずい沈黙を散らしたのは、頭上から降り注ぐ虫の羽音のようなプロペラ音。

 僕はその正体を探すように顔を上げる。羽音の原因はすぐに見つかった。

 忙しなく回転する四つのプロペラを搭載した球体。膨らんだ下部に取り付けられた全方位型のカメラアイと視線が交錯。その正体は改めて考えるまでもなく、僕の背筋は氷塊を突っ込まれたように凍えた。

 火星の居住圏は半透明のネルガリウム膜によってドーム状に覆われているため、軌道エレベーターを除けば建物の高さには厳密な制限が設けられている。そしてその高さは建物だけではなく、浮遊物や飛翔体にも適用される。そしていくつかある例外が、まさに今相対しているドローンだった。


「―――保安局」


 追いつかれた。そう思うと同時、僕とセッテは走り出す。だが見つかった時点で既に窮地だ。増援要請を受けたドール捜査官が二機、すぐに駆けつけてくる。


「くそっ、早すぎる!」


 セッテはすぐに僕を担ぎ、その場からの離脱を図る。しかし踵を返した先にも既に別のドール捜査官が一機、回り込んでいる。


「くっ……セッテさん、あっちに」


 右側へ方向転換。タイミングよく走ってきたホバーライドのボンネットを滑って反対側の歩道へ。速度を落とすことなく角を曲がり、路地へと入る。ドール捜査官も当然のように追随。急停止したホバーライドを飛び越えて追い縋ってくる。頭上ではドローンが旋回。たとえ捜査官たちが僕らを見失おうと、僕らの位置は丸裸だった。

 ドール捜査官が電磁パルス銃を発射。青い雷球が迫る。セッテは紙一重で角を左に曲がり、電磁パルスを回避。閃光が弾け、僕の視界を青白く染める。


「ナナオ、どうしますか」


 セッテが問う。さっきは入り組んだ隘路での追走劇だったため、地形を活かせば電磁パルス銃の射線からは容易に外れることができた。しかし今いる場所はきちんと区画整備された市街。道の幅は太く、直線距離で開けている。つまり照準されれば、運よく曲がり角が近くにない限り、電磁パルスを躱すことは難しい。

 その上、単純な機体性能で劣っているのだから、仕留められるのも時間の問題だった。


「セッテさん。二手に分かれましょう」


 僕の提案に、セッテは首を横に振る。だが僕はセッテの拒否を拒絶する。


「まずドローンが厄介です。でも一機。あれを僕が引きつけます。その間にセッテさんは捜査官たちを躱してください。そこは自力になってしまいますが」

「ナナオが、捕まります」

「大丈夫です。僕には秘策があるんです。だけどセッテさんが近くにいると使えません」


 セッテが黙る。僕の言葉の信憑性を思案しているのだろう。

 もちろん秘策など大嘘ブラフだ。だがこのままではほぼ確実に二人とも捕まってしまう。ならばたとえ一人でも、少しでも逃げ延びることができる可能性に賭けるのは合理的な判断だ。


「ですが私は、ナナオと」

「約束します。そう簡単に捕まりはしません。たとえ離れても、必ず後で合流しに行きます」


 セッテは納得していないようだったが、時間はなかった。


「次の角を右に曲がる直前で僕を下ろしてください。その一瞬、この角度ならセッテさんはドローンの視界から外れることができる。セッテさんはそのまま、僕は曲がらず真っ直ぐに逃げます。それでドローンは僕を追ってくるはずです」


 問題はドール捜査官のほうだったが、二手に分散できれば、僕はともかくセッテのほうは何とか撒くことができるかもしれない。希望的観測かもしれないが、その僅かな可能性に縋るほかに残された道はなかった。

 間もなく指定した角に差し掛かる。セッテは右側に方向転換し、その刹那、僕を肩から下ろす。僕は地面を転がってすぐに立ち上がり、手近なところに落ちていた小石を拾い上げてドローン目がけて投げつける。


「こっちだっ!」


 僕は叫んで踵を返す。声は震えた。正直なところ半端じゃなくビビっている。だがこれが最善の選択なのだと言い聞かせた。

 ドローンは狙い通り、見失ったセッテではなく僕を追跡。ドール捜査官も二手に分かれ、うち一機が僕を追ってくる。本当はドール捜査官も二機引きつけられれば御の字だったが十分だろう。今は一秒でも長く、奴らを引きつけることだけを考えるべきだ。

 放たれた電磁パルスが僕の肩甲骨のあたりに命中する。全身を雷に打たれたような衝撃が駆け抜け、身体の制御を喪失。僕は派手に転んで、顔で地面を掃除する。


「……畜生っ! ……畜生っ畜生っ畜生っ!」


 僕は満足に動かなくなった身体で地面を這う。足は辛うじて動き、肩で上半身を押し上げて立ち上がる。よろめくように再び足を前へと進める。

 全身が痺れて眩暈がした。平衡感覚はなく、歪んで霞んだ視界では、ちゃんと前に進めているのかも分からない。だがそれでも、必死になって脚を動かす。

 僕はどうしてこんなに必死になっているのだろう。

 こんなに苦しい―――死にそうなくらい苦しい思いをしてまで、何をしているのだろう。

 命を懸けるほどのことなのだろうか。

 彼女は―――セッテは上手く、逃げただろうか。

 力の入らない手で、固く拳を握った。

 僕は身体を引き摺るように振り返る。ドール捜査官はもう数十メートルとない距離にまで迫っていた。もはや走って追う必要すらないと軽んじているのか、あるいは窮鼠に噛まれぬようにという用心なのかは分からなかったが、ゆっくりと一歩一歩、電磁パルス銃の銃口を油断なく向け、僕との間を詰めてくる。

 僕は捕まったあとどうなるのだろう。投獄はまず免れない。今は地下資源採掘センターでの仕事にありつけていたが、きっと今度はもっと劣悪な環境のドームへと送られ、ドールとともに奴隷のように酷使されるのだろうか。


「嫌だな……」


 この期に及んで、そんな想像が脳裏を過ぎり、情けのない言葉が口を突く。大事なのはいつだって我が身だった。取るに足らないプライドを、後生大事に抱えて震えている。僕は、そんな自分がずっと嫌いだった。

 僕は少し、変われただろうか。セッテを強引に連れ出し、市中を逃げ回り、その果てに何一つといて目的を―――彼女に地球を見せられなかったとしても、変われただろうか。

 今の僕を、カレンは一体どう思うのだろう。

 ドール捜査官との距離は一〇メートルを切る。向けられる銃口が随分と大きく、そして近く感じられた。僕は両手を挙げて、無抵抗と諦め―――衝動的で軽はずみな冒険の終わりを表明する。

 引き金が引かれる。真っ黒だった銃口の奥が瞬き、青い雷球が放たれる。

 僕は、セッテが無事に逃げ切れるようにと都合のいい無責任な願いだけを押し付けて目を閉じた。


「―――腑抜けたことやってんじゃないわよ」


 それはあまりに唐突に。耳朶を打つ声に目を開けば、目の前に放られた銀色の物体。その回転がやけにゆっくりに見えた。

 僕を穿つはずだった電磁パルスは突如として現れたその物体と衝突。僕の目の前で燐光を弾けさせて激しい煙を上げた。


「は……」


 間抜けな声が出た。状況が理解できなかった。

 次の瞬間、僕は何か強い力に足を取られ、胃が引っくり返るような加速感とともに落下。固い衝撃が全身を打ち据える。

 視界は暗かった。僕は忘れていた呼吸を思い出し、激しく咽返った。間を置かず突き刺すようなライトが僕へと向けられた。眇めた視界のなか、浮かび上がるのは一人の女性だった。


「私はキャトル。……で、誘拐犯。ワケをきっちり説明してもらうから、覚悟しておきなよ」

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