131.戻ったら


 レーデリアの足許には、あの黒い箱が壊れた状態で転がっていた。杯の姿はどこにもない。


『わかります……。我はマスターのおかげで、生まれ変わったのだと。本当に、ありがとうございます、マスター』


 魔王――いや、この気配は聖魔王と呼ぶべきか。新生レーデリアは胸の前で手を組んで祈るように礼を言ってきた。

 俺はゆっくりとうなずいた。よかった。リブートは無事成功したのだ。


 そして微笑みもそこそこに、ふい……と視線を外す。


『マスター?』

「いや、何でもない」


 正確には大ありである。

 何せ、ミテラ以上のスタイルを持つ女性が一糸まとわぬ姿で立っているのだから。


 ……レーデリアの瞳に大粒の涙が浮かんだ。


『ああ……! そうですよね。そうでした! 生まれ変わったと言っても所詮はゴミ箱……しかもこれだけの不祥事を起こしたゴミ箱の残骸など視界に収めるのも不愉快だと思うのは世界の絶対的真理……!』


 すまん今すごくホッとしたその台詞――と言いかけてぐっと抑える。


「不愉快になんて思ってないから安心しな、レーデリア」

『ふえええ……すみませんんん!』


 はは。いつか想像していた、人間だったらこんな風に半泣きになるだろうなという姿そのままだ。

 微笑ましさで気が緩んでいた俺を、突然の震動が襲った。


「な、なんだ⁉」

『うーん、もう保たないなあ』


 腕組みしたノディーテが天井を見上げている。

 彼女の言葉通り、大聖堂が崩壊を始めた。天井が、模様ガラスが、壁が、積み上がった瓦礫がボロボロと崩れて消えていく。


『だーいじょうぶ。レーちゃんの結界が解除されてるだけだから。出られるよ、外に』


 大聖堂の崩壊――結界の解除とともに、周囲の景色が真っ白に変わっていく。

 互いの姿が白の背景に霞み始めたとき、ふとノディーテが俺の肩に手を置いてきた。振り返ると、ガントレットの魔王少女は白い歯を見せて笑っていた。


『戻ったら、ウチにも『それ』、やってね』


 一気に光が弾ける。

 足裏の感触が消え、肌に風を感じた。

 結界が解除され、光が収まる。


「……へ?」


 ――俺の目の前に、水面があった。

 派手な水飛沫を上げて、水中に顔面から飛び込む。水泡が顔にまとわりつく。

 視界がクリアになると、今度は薄暗い水底が見えた。どうやら水深はそこまで深くなさそうだ。

 とりあえず岸に上がろうと身体を動かす。ところが。


 ……嘘だろ。


 水面に向かって姿勢を変えるだけで、俺の身体はほとんど言うことを聞かなくなった。まるで鉛でも飲み込んだみたいに腹の底がひどく重い。

 あがくどころか、水底まで仰向けに一直線だった。


 まさか。リブートの後遺症がまだ残ってた……? こんなにもダメージを受けてたのか……?

 いけない。こんなところで溺死するわけにはいかない。せっかくレーデリアを救えたんだ。グリフォー邸に、皆のところまで戻らなければ。それに、世話になったノディーテにも礼を言わないと――。


 這ってでも上へ。

 そう思って伸ばした手に、別の手が重なった。


 水中で柔らかく広がる黒髪。水面からのわずかな光を受けて、美しく、密やかに、神秘的に輝く肢体。俺をまっすぐに見つめる微笑み。

 レーデリア。


 一糸まとわない彼女に抱き起こされ、そのまま水面へと運ばれる。水辺から何とか這い上がり、荒い咳を繰り返す俺を、レーデリアは何度も背中を撫でて気遣った。


『マスター。マスター。大丈夫ですか』

「げほっ……ああ。もう平気だ。ありがとうレーデリア。お前のおかげで助かった」

『よかったです』


 表情を緩める。

 髪先、顎先、胸元。それらに滴る水滴が非常に目の毒だった。

 視線のやり場に困っていた俺の前で、レーデリアは居住まいを正した。


『マスター。この度はご迷惑をおかけし、大変申し訳ありませんでした』


 深々と頭を下げる。

 俺は小さく息を吐く。レーデリアの裸体に狼狽えている場合ではないなと思った。

 濡れた髪を撫でてやる。手のひらに伝わる感触で、改めて、彼女は生まれ変わったのだと実感した。


 するとレーデリアはがばりと顔を上げた。どことなく頬が紅潮している。


『あのとき。マスターに生まれ変わらせていただいたとき、声が聞こえました。マスターの声が。今の我は、ただの鉄馬車でも、ただの魔王でもありません』


 拳を握る。


。これからは聖魔王レーデリアとして、ずっとマスターの側にいます!』

「聞こえてたのか、俺のつぶやき」

『はい! マスターの御心はすべて我の中に――』


 満面の笑みがいきなり固まる。俺が首を傾げると、レーデリアは握った拳で顔を隠した。


『おおお……⁉ わ、我はまた何て大それたことを! 我ごときゴミ箱がマスターの心をわかった風に』

「大丈夫大丈夫。本心だから、むしろちゃんと受け取ってくれて嬉しいよ。それに」


 俺は指先でレーデリアの額を小突いた。まさか彼女相手にこんな仕草ができる日が来るとは思わなかった。


「お前はもう以前のお前とは違う。これからは、心に溜め込んだことがあったらちゃんと話すんだぞ? 俺たちは家族なんだから」

『……はい!』


 よし、いい笑顔だ。

 満足感でうなずいた俺の頭に、天のメッセージが降りてきた。



《リブート完了。生まれ変わりにより生じた余剰分の力を経験値に変換します。

 レベルアップしました。レベル58→59

 レベルアップしました。レベル59→60 ……

 レベルアップしました。レベル64→65》


《『聖魔王レーデリア』の解放によりサンプルLv5にレベルアップしました。

 ギフテッド・スキルひとつにつき一日最高五回まで使用可能です。なお、永続スキルは使用回数に含まれません》



『……? どうかされましたか、マスター。微妙な顔を……ハッ⁉ まさか我が』

「いや、何でもない……気にしないでくれ」


 右手を見る。

 レベル65。ギフテッド・スキル使用制限のさらなる緩和。

 ここまで規格外にならなくてもと思う。レーデリアが、家族が救えればそれでよかったんだが。


 いや、そうじゃないな。

 俺が考えなきゃいけないのは、必要なときにこの力を家族のために振るう覚悟だ。俺は自分で見たじゃないか。レーデリアだって、魔王としての力は分かちがたく彼女と結びついていたと。

 この力は、もう俺の一部なのだから。なかったことにはできない。


 ――そういえば、規格外で思い出した。


「レーデリアの件ではありがとう、ノディーテ。君の規格外の魔法がなければ、きっと解決できなかった。本当にありがとう」


 ――返事がなかった。


 レーデリアと二人、辺りを見回す。結界に飛び込む前と同じ、リマニの滝壺だった。

 枯れた木々、静かに流れる川、水霧を上げ続けている滝。

 傾き始めた月の明かりと、物陰に溜まる闇。


 それだけだった。


「ノディーテ……?」


 魔王少女の姿は、どこにもなかったのである。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る