130.【天眼】が示したすべきこと
くらり……と視界が歪む。
リブートを発動した途端、俺の意識がレーデリアの黒箱の中に引き込まれた。
すでに馴染みとなった温かみのある漆黒が一面を覆う。
【天眼】を使ったときと違うのは、自分自身の感覚がしっかり残っている点か。
歩く。肌に感じる複雑な感情の温度――不安、憧憬、喜び、安堵、恐怖、興奮――清いも汚いもないあらゆる感情が交じり合って漂う黒の空間を、歩く。
やがて歩みの先に見えてきたものがあった。
あれは……杯?
うっすらと白と薄緑に輝くそれは、古風な美術品で見るような杯そのものの形をしている。台座はなく、宙に浮かんでゆっくりと音もなく回転していた。
歩み寄る。
杯の中を覗き込む。
金属の底が見えただけで、何も入っていなかった。
直後――。
『ああぁぁぁあッ‼』『凄いです、我にはあんなことはできない……』『やった、褒められました』『これでいいんだ。いいんだ。よかった、よかった。迷惑、かけなかったかな』『ああ……ああ……これは……』『もう、何もかもどうだっていい‼』
俺は顔をしかめてこめかみを押さえた。
杯から――いや、違う。この漆黒の空間の全方向から、無数のレーデリアの声が降り注いできたのだ。
まさにすべてを混ぜ込んだ黒らしく、喜怒哀楽あらゆる感情が無秩序に暴れ回り、互いにぶつかり合い、消えては浮かぶ。現れては弾ける。
落ち着け、イスト・リロス。気をしっかり保て、俺。そして見極めろ、自分の目で。直感で。
俺は胸に手を当て、意識して呼吸を整えた。いったん目を閉じ、自分の鼓動だけに集中する。
それからゆっくりと目を開ける。
漆黒の空間に、今度は七色の光点がいくつも漂うようになっていた。
ひとつが近づいてくる。
『うわあああん、我なんてゴミ箱ぉー!』
思わず笑った。いつものネガティブレーデリアの悲鳴。
俺は光の行く先を目で追った。まるで両親にじーっと見つめられた小さな子どものように、ネガティブレーデリアの光点は杯の中にそそくさと収まっていった。
別の光点が近づく。
『わわわ! あは、ははは。皆さん元気です』
目を細める。これは、エルピーダ孤児院の中を走り回る子どもたちを見守っているときのレーデリアだ。きっと俺が孤児院の皆を見てあげられなかったときも、こうして一緒に楽しそうにしていたのだろう。彼女のことだから、遊び終わったら『しまった、我のようなゴミ箱が何てことを』みたいなことを考えて塞ぎ込むこともあっただろう。
朗らかなレーデリア光点が杯に注がれる。
別の光点が近づいてきた。
俺の側を通った瞬間、紫色の炎となって燃え上がった。
『欲しい。欲しい! 力を我の元に!』
猛々しい渇望の声。
俺はこんな台詞を吐くレーデリアを知らない。
杯に近づく未知のレーデリア光点。一瞬、杯の白と薄緑の輝きが揺れた。
――勝手に俺の身体は動いていた。直感だった。
俺は紫色に燃え上がる光点を手で包み込み、そのまま自分の胸に押し当てた。
この光は、レーデリアの魔王としての本能そのものだ。
彼女の一番根っこの部分が拒否している獰猛な心。この光が近づいたとき杯の輝きが揺れたのも、きっと同じ理由だ。
俺はこの獰猛な光を、他の光と一緒にするわけにはいかないと思った。たとえその光がレーデリアの一部、新しい一面であったとしても。
何て傲慢なことかと自分でも思う。
光を消すこと、退けることはレーデリアを否定することになるかもしれない。だから俺は自分の中に受け入れることにしたのだ。
獰猛な光は俺の中に入るなりさらに燃え盛って暴れた。
脳の一部が破裂するかと思った。シンプルに、死ぬのではないかと思った。
――ようやく体内で落ち着いてくれたので、大きく息を吐く。
顔を上げる。
様々な色の、形の、輝き方の光点が、杯に群がっていく。杯の中でひとつになっていく。光はまだまだたくさん漂っている。
俺は自分のやろうとしていることの困難さを悟り、唾を飲み込んだ。
魔王の本能として過剰な光を俺の身体で引き受け、それ以外を杯に満たす。
それが【天眼】の示す俺のすべきこと――。
天のメッセージが言っていた、『失敗すれば魂もろとも消滅する』という意味。ようやく実感できた。
俺は、他人から見れば狂っているとしか思えない作業に没頭した。
レーデリアとて、すべての記憶が平穏平和というわけではない。時には障害を打ち破る力を振るう姿も、彼女だ。苦痛と不安に怯えることもまた、彼女が手にした貴重な経験だ。
時折、苦痛のあまり膝から崩れ落ちながら、光を導き、光を取り込んでいく。その中で気付いた。
もはや、レーデリアと魔王の力は不可分だ。魔王であることをすべて否定することはできない。
だが――。
いまや杯は、白でも薄緑でもない、七色に深く深く輝いていた。
ポジティブでありながら、ネガティブ。自己否定の中に、大切な人たちの温かで平穏な記憶が息づいている。今、レーデリアの中心を形作っているのはエルピーダの記憶なのだ。
杯の輝きが強さを増し、漆黒の空間を払っていく。
輝きの向こうに美しい女性のシルエットを見た俺は、思わずつぶやいていた。
生まれ変わったんだな、レーデリア。
魔王としての強さと、子どもたちを温かく見守る優しさの、両方を兼ね備えた存在。
『聖魔王』に――。
漆黒空間がサラサラと消えていき、世界が大聖堂の姿を取り戻していく。
光が収まった後、俺の前に立っていたのは『人型』になったレーデリアだった。漆黒の前髪が顔の半分ほどを覆っている。だが俺は、その隙間から覗く瞳を目にして彼女がどんな表情を浮かべているかすぐにわかった。
全身から温かなオーラを放ちながら、レーデリアは笑っていた。そして泣いていた。
『マスター……ただいま、戻りました……!』
「ああ、おかえり。よく頑張ったな」
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