123.闇夜に消えたレーデリア


「レーデリアッ、……くっ!?」


 手を伸ばした俺の前に、黒い気体が滑り込む。まるで行く手を遮るように。焦りの感情のままに振り払った。気体は重く、腕にまとわりつくような不快感があった。


 ――これが、レーデリアの身体から吹き出したもの。

 レーデリア。お前は、一体……。


「イスト様!」


 必死の叫びに我に返る。

 ルマがスノークを庇いながら近づいてきた。


「イスト様、ここは危険です。早く脱出しましょう」

「ああ。そうだな。おいでスノーク」


 小さな男の子を抱き上げ、俺は出口へと足を向ける。

 そのとき、部屋の隅から悶絶する男の声がした。


「があああっ!? なぜ、なぜ力が湧いてこない!?」


 壁を削る音。俺はちらりと振り返る。気体の向こうで、研究者の男が黒い炎に弄ばれている様を見た。

 男の手には、あの角状の道具がまだ握られている。


「なぜ、なぜなぜ!? これは、この至高の品はっ! 魔王にも匹敵する力を得られるハズでは――ああああっ!?」



『アガゴには巨大な力を持ったが憑いている、と』



 唐突に、思い出した。


 魔王にも、匹敵。

 俺の脳裏に、あの凶悪な力を持った魔王クドスの姿が浮かぶ。

 魔王――その単語が頭に絡みついて離れない。

 そうだ。今のこの空気は、感触は、奴と対峙したときと――。


「イスト様!? どうされたのですか!?」

「いや……すまん。脱出しよう」


 俺は内心の不安と懸念を一度脇に置き、ルマとともに部屋を飛び出した。

 黒い気体は、すでに地下研究施設の至る所にまで広がっているらしい。廊下の端から端まで、気体が漂っていた。


 そして施設内は、深夜にもかかわらず大パニックになっていた。

 ガラスが割れる音、誰かの悲鳴と怒号、無数の足音。

 何が起こっているのかはわからない。だが、黒い気体が原因なのは間違いなかった。

 モンスターの襲撃と勘違いした冒険者が、気体に向かって虚しく武器を振るっている姿も見た。


 誰も冷静に周りが見えていない。

 このチャンスを逃すわけにはいかない。


 俺たちは慌てふためく地下研究施設のメンバーたちの間を縫い、出口へと向かう。すでに研究者たちが我先にと地上への階段を駆け上がっていた。彼らの波にうまく紛れることで見咎められずに庭に出られた。


「ギフテッド・スキル【全方位超覚】」


 走りながらルマが感覚を研ぎ澄ませる。


「イスト様。街の北口方向にレーデリア様とみられる人物を感知しました」

「でかした」


 軽く頭をくしゃりとする。こんな状況でもルマは得意げであった。


 運動能力の高い彼女が先頭で気配を探りつつ、敷地を駆ける。植え込みの影を上手く利用しながらたどり着いた先は、正門。

 門は半開きになっていた。

 研究者たちが門から出て行くのを、ルマがしっかりと捉えていたのだ。【全方位超覚】の力はやはりすごい。


 スノークがいた部屋を出て十分あまり。予定のルートとは違ったが、俺たちは無事に敷地外へ脱出する。

 だが息をつく暇はない。

 引き続きルマの【全方位超覚】を頼りに、夜の路地を走る。彼女の研ぎ澄まされた感覚はレーデリアをしっかり把握しているはずだ。


 ところが。急に、ルマが立ち止まった。膝に手を当て、息がひどく荒い。


「大丈夫か」


 背中をさする。急な体調変化に俺は戸惑った。

 しばらくして呼吸が落ち着いたのか、ルマが身体を起こす。

 暗闇の中でも表情が想像できるほど、すまなそうな声音で彼女は言った。


「大変申し訳ございません……。レーデリア様を見失ってしまいました」

「見失った?」


 まさか、ルマの【全方位超覚】を振り切ったのか? あんなすごいスキルを?


「レーデリア様のお姿を捉えていたところ、不意に力が抜けるような感覚がしたのです。気がついたときにはもうギフテッド・スキルの効果は消えており、今までにないほど消耗しておりました……まるで、スキルの力を吸い取られたかのようですわ……」

「スキルの力を」


 吸い取る。

 その能力に、俺は思い当たりがあった。

 だが、それはあり得ない。あってはならない。単なる思い込みであって欲しい。疑念で終わって欲しい。

 俺は強く思った。


「イスト様。行きましょう。わたくしはもう大丈夫ですわ」


 気丈に言うルマ。だが、足取りは一気に重くなっていた。

 俺は瞑目した。そして決める。


「ルマ。スノークを連れて、先にグリフォー邸に戻っていてくれ」

「しかし、イスト様は?」

「俺はこのままレーデリアを追う。行き先に心当たりがあるんだ」


 でしたら私も、と言いかける彼女に、俺はゆっくりと言い含めた。


「スノークはまだ小さい。夜道を歩くのはただでさえ危険だ。ルマ、疲れているとは思うが、やってくれ。お前だけが頼りだ。スノークを無事、兄のところまで届けてくれ」

「そのような言い方はズルイですわ」


 ルマが頬を膨らませたのがわかった。

 地面にスノークを下ろし、代わりにルマが少年の手を握った。


「委細、承知致しました。後はお任せ下さいませイスト様」

「ああ。頼んだ。スノーク、もう少しの辛抱だ。お姉さんの手、離すんじゃないよ?」


 こくりとうなずくスノークの頭を撫でてから、俺は踵を返した。


 路地は暗い。人通りもない。

 しんと静まり返った道を、俺の足音と息づかいだけが騒がしく彩る。

 疲労だけではない、胸を締め付けるような苦しさを感じていた。

 静かだから、自分の足音と息づかいだけだから、思考が不安に支配される。


 レーデリア。

 お前、まさか……。


 

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