66.絶望を救う贈り物
――私たちは今、どこにいるのだろう。
日が暮れ、路地の底には深い闇が
頭上の窓から漏れ落ちてくる
その小さな窓からは他にも人の声。食べ物の匂いが降りてくる。
私たちが背中を預けるこの壁の向こうは、どうやら酒場のようだ。
――酒場。そう酒場だ。私はそれを知っている。
ここに来るまでに見た食べ物も、それが
言葉もわかる。話もできる。文字も読める。
隣で震える子が、私の大事な大事な妹であることもわかる。
なのに。
私たち自身のことが、わからない。
周りのことがわかるからこそ、自分の記憶だけがぽっかりと空いてしまっていることが、たまらなく怖ろしい。
まるで、底の見えない深い谷の上に宙づりにされたような。
いつ、命綱がぷつりと途切れるかわからない、恐怖。
気が……狂いそうだった。
私たち姉妹はその恐怖から逃れるようにあてもなく走り回り、結局なんの成果も得られないまま、ここに寄り添って座り込んでいる。
「姉様……」
「なあに?」
私は気力を総動員して、妹の呼びかけに応えた。
日中はまだ気の強さを見せていた彼女は、今、泣いていた。
「どうしてこんなことになったんだろう……。私たち、なにか悪いことしたのかな……?」
「そんなことないよ。きっと、そんなことないんだよ」
「怖い。怖いよ姉様……つらいよ。どうしたらいいのかわからないよ……!」
妹の心が、折れかけている。
私は妹を強く抱きしめた。
だけど、私も――。
手が震えて、力が入らないのだ。怖くて、ふわふわしていて。
ああ、そうか。
この感覚の先に待っているのが絶望なんだ。
意識した途端、指先だけでなく全身が重くなった。まぶたが下がる。なにもかもがどうでもよくなっていく。
目を閉じる寸前。
ふと、頭の中で誰かの声がした。
優しい、ゆったりと鼓動を合わせてくれるような、男の人の声。
昼間に出会った、あの人――。
一目見たときから目が離せなくなった、あの人の微笑み。
真っ黒に塗りつぶされそうだった私の心が、あっという間に熱を取り戻していく。
それは、私にとって救いの輝きだった。
ハッと気付く。
少しだけ眠ってしまったようだ。
もう身体の重さは感じない。
とても不思議な気分だった。さっきまで沈んでいたのに、胸に手を当てると、自分の鼓動がうるさいくらいに聞こえてくる。高鳴っている。
ああ、そうか。
私、あの人に――。
「姉様……?」
私に寄り添う妹には、心臓の高鳴りが聞こえてしまったようだ。
不安そうに私を見上げる。
妹の前髪を軽くなでた。
「ねえ。あの人がくれた名前……名乗ってみよう」
でも、と言いかける妹を
「私の名前は、ルマ」
――清流の水が全身を駆け
妹の頬に手を添える。
「あなたの名前は、パルテ」
「姉様の、名前。私の……名前」
妹は渋っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……パルテ」
途端、ブルブルと首を振る。
「ダメダメ! そんなの認められないんだから。まだ!」
強い、だけど含みのある否定。
私はふふっと笑った。
声と態度に力が戻っているよ。
私も活力が湧いてきた。再び妹を抱きしめる。今度は目一杯力強く。胸の中で、妹――パルテの不満そうな
私はつぶやく。
「また……会えないかな。あの人に」
うわごとのように熱を帯びた自分の声。恥ずかしかった。
気持ちが落ち着いてきたら、周りの景色も少し違って見えてくる。
壁の向こうの声も聞き取る余裕ができる。
今まで気がつかなかったが、私たちのいる場所から壁をはさんだ向かいに、かなり声の大きな人たちがいるようだ。
お酒に酔っているのか、ふたり組と思われる男性の声がする。
『おい、今度の
『そうだとも! まったくあのバカ娘、ようやく独り立ちする気になったんだ。しかし、周りの小娘どもとつるんでるのは相変わらずだ。まったく情けない。なあ、お前からもなにか言ってくれよ。ガツン、ガツーンと』
『飲んだくれ親父のてめえが言えた義理かよ。んで? そのじゃじゃ馬娘たちは、試験に合格したらどっか行きたいギルドとかあるのか?』
『知らね。自由にすりゃいいさ! 自由が一番! それこそエラ・アモ魂ってもんだ!』
『馬ッ鹿。ギルドに所属できりゃあ報酬も出る。サポートも受けられる。ギルドによっちゃあ、脱退後も金が出るって話じゃねえか。試験に受かれば
『いやあ知らん知らん! 自由だ、自由だ!』
『まったく、いくら娘とうまくいかないからってとんでもねえ親父だな、てめえは』
……なんだか、ちょっと嫌な会話を聞いてしまった。
親子って、そういうものなのだろうか。
胸の中がモヤモヤする。
顔を手で拭うと、無意識のうちに眉間に
「姉様。これだわ」
パルテに
「なに、どうしたの?」
「冒険者だよ、冒険者になればいいのよ私たち。そしてどこか立派なギルドに入
酒場の人たちには聞こえないように小声で、でも瞳をキラキラさせながら力説する。興奮で噛み噛みなのも気にならない様子だ。
「試験、一緒に受けようよ姉様! そしてふたりで、冒険者になろう!」
「冒険者……」
そのとき、脳裏に鮮やかに
『俺はイスト・リロス。冒険者ギルドのギルドマスターをしている』
……そうだ。あの人は確か、ギルドマスターと言っていた。
もし試験を突破して冒険者になれれば、もう一度あの人に逢えるかもしれない。
一緒にいられるかもしれない。
頬が
けどもう止められない。
「うん。なろう。冒険者に」
そのために、まずはなんとしてでも試験を突破しなければ――!
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