第231話 分水嶺的 ナ 瞬間
あちこちから上がる悲鳴。
メロイアンはもう無茶苦茶で、なにがなんだかわからない。突然、宙に魔方陣が現れたかと思うと、
仁友会やランダー・ファミリーが対応しているけど、とても間に合っているようには見えない。折角、手に入れた私の居場所が土足で踏みにじられているのに、私は……。
なにも出来ない。
「地下に! 地下に逃げて!」
本当にそうだろうか。本当にこのままでいいのだろうか。
――おい、ろくでなし!
私の胸を指で突くヒト。
――アカギレがどうした! それくらいで休みが欲しいだと?
指の痛みなんてどうでもよかった。ただ、パックリと割れたアカギレが、自分の惨めさの象徴のように思えてしょうがなかった。
ヒトは、私の頬を打った。雨の降る、寒い夜に、肌着だけで外に出された。誰もお前を救いになど来ないのだと、言われた。
本当に、なにも出来ないのだろうか。
「歌姫のキャロル? なにをしているのですっ! 早く! 早く地下に!」
運命というものが、もしもあるとするならば。
生まれた場所を失い、惨めさに涙を流し、誰にも迷惑をかけないように歌っていた、あの時も。私には必要なことだったのかもしれない。
――キャロルさんが幸せでいることが、間接的に僕の幸せになっている、そういうわけですね。
そして狂鳥に救われたこと、それにも、なにか意味があるのかもしれない。
ある瞬間、世界がスローモーションになることがある。
売られた日、私の主人の冷たく醜悪な顔を見た時もそうだった。シャム・ドゥマルトに避難した日、混乱して、私の存在などすっかり忘れてしまっている主人の姿が目に映った時もそうだった。狂鳥が現れたも日も、そうだった。
たぶん、私にはそれがわかる。
いまこの時、この一瞬から先は、なにかが変わってしまう。良くなるか悪くなるかはわからない。でもなにかが、変わる。
「早く、避難をっ!」
ネズミの獣人の声は徐々に小さくなり、悲鳴も、獣の咆哮も、すべてがなくなった。
私が見えていたのは、敵が侵入してくる魔法の門。
これは、分水嶺的な瞬間なのだ。
すぐにわかった。
誘拐されたあの日、衝動的に逃げたあの日、狂鳥の手を取ったあの日。それと似たようなことが、また起こっている。
私は小さい。弱い。逃げてばっかりだ。
本当に? 本当にそうなの?
パンっ!
自分のなかで、なにかが弾けたような気がした。
足が、勝手に動く。魔法の門に向かって。
「違う! そっちじゃない!」
いや、こっちでいい。
「早く戻って!」
戻らない。戻りたくない。
この瞬間、神様が与えてくれた、この一瞬だけは逃がさない。
大きな獣が私に向かって腕を振り上げる。
――いくら体が小さくても、心まで小さくなってはダメだ。
狂鳥が、ネズミの獣人に送った言葉だ。本人がどういう意図で言ったのかはわからない。でも、その言葉は、大きすぎる世界で生きる、小さな私の胸にも響いた。
後悔したくない。また奴隷になったっていい。でも惨めな気持ちにだけはなりたくない。あの頃の私は懸命に闘ったのだと胸を張りたい。
私は、魔法の門に向かって走った。
獣の爪は、私のすぐそばで空を切る。
いくら体が小さくても、私の心は小さくならない。
歌うんだ。
いまの気持ちを。もう惨めな思いはしたくないと叫ぶんだ。私の大切なものを、守るんだ。
「おい! 貴様! なにをしている!」
仁友会の腕章をした男たちが、合成獣から守ってくれた。彼らもまた、自分の大切なものを守るために戦っているのだ。
「歌うの!」
「歌う? バカを言うな! 早く避難するんだ」
「嫌!」
「おい! まて!」
みんな戦ってる。みんな傷ついて、立ち上がって、悩んで、後悔して。
私だけじゃない。
「戻れ!」
なにも考えず、ただ魔法の門に、飛び込んだ。
ヒトから逃げたあの日のように。
魔法の門の先には、陰鬱な空気と、鼻を突く
数えきれないほどの合成獣と、それに鞭を打つテイマー。
そのうち、私の存在に気がついた獣人のテイマーが声をかけてきた。
「小人? なんだ、お前は」
「キャロル」
「そうか、キャロル。メロイアンの市民だな?」
「えぇ」
「間違って迷い込んだのだろうが、ここにはいない方がいいぞ。これだけの合成獣がいるんだ。メロイアンに勝ち目はない。一頭始末してもすぐに次が来る。悪いことは言わん。ここから離れろ。そしてメロイアンにも戻るな」
「嫌」
「はぁ?」
「メロイアンしかないの。私の場所は」
「メロイアンに攻撃したことは謝る。だが俺にも生活があるんだ、理解してくれ。そしてここは俺の言うことを聞くんだ。そうだな、少しそこで待ってろ。どうにかしてやる。この森には毒虫がウヨウヨいるから、妙な動きはするなよ?」
「歌うのもダメ?」
「歌? いや、それくらないなら構わん。だがキメラ共を興奮させない程度で頼む。ただでさえ、気が立ってるんだ」
「わかった。興奮させないように歌う」
「よし。すぐ戻る」
私は大きく息を吸い、全力で歌った。
どれくらいの時間、歌っていたかはわからない。お気に入りの曲、私を支え続けてくれた曲、ちょっと悲しい曲、不条理を書いた曲。頭に浮かんだ曲を次々に歌っていった。気が済むまで。
満足するまで歌い終わる頃には、合成獣はほとんど倒れていた。痙攣して泡を吹いてるのもいる。
狂鳥の授けてくれた力を、初めて本気で使ったかもしれない。
とても心地いい気分だ。
ズズズ
疲れ果てて座り込んだ地面が震えた。
現れたのは、メロイアンの街を丸呑みしそうなくらい巨大な、ヒュドラだ。
「すごいね、この小さいの」
「そうだね、キメラを全部、倒しちゃった」
「デスターにあげたら喜ぶかな?」
「上手に殺せたらいいんだけど」
分水嶺的な瞬間。
これは悪い選択だったかもしれない。
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