10
持田さんは電車通学なので、徒歩で通える地元民の我々とは帰りの方角は違う。
「ただいま」と玄関を開けて帰りの挨拶をするも、家の中から返事はなかった。母はまだ仕事から帰っていないようだ。
最もドアには鍵がかかっていたので留守なのは分かっていたが。
「では夕餉の支度をするかの」
玲惟羅は制服から普段着に着替えるため二階の自分の部屋に入る。俺もその隣の自分の部屋に入り、着替えた。
今日の授業はなかったも同然だったので宿題も出ていない。
授業の予習でもやっておこうと思って鞄をあさると、中から弁当箱入りの巾着袋がでてきた。
そういえば母が働いているので、家事の大部分を玲惟羅にやってもらっている。
昼食の弁当も朝早く起きて、自分の分も含めて三人分作っている。
弁当を作ってもらって感激する永一郎の姿を思い浮かべた。
俺は一階に降り、キッチンのテーブルの上にお弁当の空箱を置いた。
「お弁当ごちそうさま、箱はここに置いておくよ」
「うむ」
部屋着の上にエプロンをして、シンクで作業する玲惟羅の後ろ姿に向かって言うと、こちらを向かずに彼女は返事をした。
「何か手伝うことはないか」
「特にない。部屋に戻って予習でもしておれ」
何もないって事はないだろ。俺はバスルームに向かった。
風呂桶の栓を抜き、夕べの残り湯を捨てる。
残り湯が抜けきったら、シャワーで軽く風呂桶の表面を水でさっと流す。
その次は風呂桶の表面にまんべんなくスプレー式のボトルで泡状の洗剤を噴射、スポンジで表面を軽くこする。
「どういう風の吹き回しじゃ」
「うおっ!」
いきなり声をかけられたので驚いて足をすべらした。
危うく泡だらけの風呂桶の中に、体を突っ込ませるところだった。
「驚かすなよ玲惟羅」
振り返ると玲惟羅がバスルームの入り口に立ち、腕を組んで俺を見下ろしていた。
「驚いたのはこちらの方ぞ。なんぞ珍しいことをしていると思ってな」
「珍しいことってなんだ」
「お主が風呂の掃除をするところなど初めて見た」
「いや、いつも家事を玲惟羅にやらせて申し訳ないと思ったから、ちょっと手伝おうと思っただけだ」
「ふむ、殊勝な心がけじゃ。だがお小遣いなら貸さぬぞ」
「今のところは間に合っている」
「何ぞひとに言えぬ事をしでかしたのか、おとなしく白状せい。正直に言えば責めるのは少しだけにしておいてやる」
「なんにもしてないよ」
そんなに俺が家事をするのが珍しいか。
「まぁ、よい。こちらとしても助かる。礼に後でお主の部屋を掃除しておいてやろう」
「それだけはやめて、お願い」
彼女が掃除をすると、どんなに巧妙に隠した年頃の男子のお宝も見つけられ、勝手にゴミに出されてしまう。あの嗅覚はなんなのだろうか。
しかし、俺の懇願を無視して玲惟羅はバスルームから出て行った。
どうやら、何か後ろ暗いことをしでかしたと強く疑っているご様子。その贖罪に家事をしていると思ったようだ。
気を取り直して、風呂の掃除を再開する。風呂桶の表面をスポンジでこすった後は、シャワーできれいに泡を洗い落とす。
泡を洗い落としたら、風呂桶の栓をしてお湯の蛇口を開け、自動給水のスイッチを入れておく。これで設定どうりのお湯の温度で水量がたまれば自動的にとまり、それを知らせる音楽が鳴る。
「誰かと思ったら旭じゃない」
「おおう」
いきなり声をかけられて驚いたが、今度は風呂桶に落ちそうにはならなかった。
「珍しいこともあるものね」
今度はいつの間にか帰っていた母が、風呂場の入り口にいた。
「いや、少しは家事を手伝おうかなと思ってさ」
「お小遣いの前借りなら駄目よ」
「今のところは間に合ってる」
玲惟羅と同じ事を言われた。
「お礼に、あとで部屋の掃除をしてあげるわね」
「自分の部屋位自分で掃除するから勘弁してくれよ」
なぜに我が家の女どもは、思春期の男子の部屋を掃除したがるのか。
「お小遣いで思い出したんだけど、家庭教師のアルバイトの話を知り合いから紹介されたのだけどやってみる気はある? なぜかあんたご指名なの」
「アルバイトか、そりゃお金は欲しいけど。だれの家庭教師をやるんだ?」
「今年小学校に上がったばかりの一年生の女の子。週一回一時間くらいでいいみたい」
高校に進学して何かと物入りになるだろう。お小遣いだけでやりくりするのは心許ない。幸い嵐川高校はアルバイトを禁止していない。
「とりあえず会ってみたらいいんじゃ無い? それから断っても良いし。先方には連絡しておくから」
「まぁ、いいか。うん、分かった」
働いたこともないが、小学一年生なら家庭教師とはいえ何とかなるだろう。
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