第70話 エピローグ
薄らと赤い傷の残る胸からスッ、と大きな手を離すと、教授は眼鏡の奥で深緑色の目を細め、淡々と呟きました。
「痕は残ると思いますが、きちんと塞がっていますし健康上は何ら問題ないでしょう。痛みがあればまた来て下さい。お大事に」
「わあ……ありがとうございます教授! よかったですね、シオンさんっ」
「……………………。アリガトウゴザイマス……」
調停事務所の休所日を利用して二人で訪れた、王立学院附属王立病院の外科診察室にて。
後ろに控える私とアルフレッドに見守られながら、シオンさんは憮然として椅子に腰かけて、呪いが消えた胸の傷の経過を診てもらっていました。外科担当医のエドガー・ノワゼット先生に。
教授、本当にお医者様でもあったんですね。黒い外套のイメージが強かったですが、白衣姿も大変よく似合ってます。
「でもよかった、神獣さんの診察を引き受けてくれるお医者様なんて街の病院にはいなくて……取り次いで貰ってありがとね、アルフレッド」
「教授は医学と獣医学のスペシャリストだし、獣人生態学にも知識があるからね。僕も姉さんと
「…………俺はあんまりうれしくないんですけど……」
じとーっ、と気まずそうな半目で教授を見るシオンさんに、対する彼は表情一つ変えずに首を傾げます。
うーん、ディナーの件の誤解はちゃんと解けてるようなのですが、どうにもシオンさん、エドガー教授には引け目を感じるところがあるらしくて……。
曰く、「クール系超ハイスペック年上男性(弟とも懇意)なんて明らかに天敵じゃないですか!やだ!戦う前から負けてる!」だとか。
教授が尊敬すべき素晴らしい人なのには同意ですけど、私が好きな人は他でもないシオンさんだけなので、全く心配する必要はないと思うのですが。教授にとっても、私は愛弟子の保護者みたいなものですしね。
「……ああそうだ、婚約おめでとう。籍はいつ? 未成年の学生の保護責任者の姓が変わるなら、一応控えておかないといけないので」
「ありがとうございます。一年後までは婚約状態の予定なんです。彼は十九歳なので、人間の成人の年齢までは恋人のままゆっくり待とうかということになりまして」
「そうか。……でも良かった、僕としてもほっとした」
「?」
ああ、自分のせいで要らぬ誤解を生んだとか気に病まれてましたもんね、その節はご迷惑を……
そう思っていたら教授は珍しくふっと微笑んで、私とシオンさんをちらりと見てから言いました。
「安心したよ。いっそ婚約でもしてくれないと、諦めが付かなくて困っていたところだから」
「…………??」
「はああ!!??」
ガタガタガタッ、と椅子を倒しながら立ち上がったシオンさんの叫びに、教授はなんとなんと声を出して笑いながら口元に指を立て、「病院内ではお静かに」と一層楽しげに笑われました。
「あ、アルフレッド君っ、あれ冗談だよね!? ね!?」
「わ、分かんない……僕も教授が冗談言うの聞いたことないから……ていうか爆笑してるのも初めて見たし……生物学的大発見だぁ……」
賑やかな男性陣の阿鼻叫喚からぽつんと取り残されて、私は仲間はずれ感に眉をひそめるのでした。何でしょうこれ。
結局、騒ぎを聞いて駆け付けた看護師さんが笑いの引っ込まなくなった教授を見てナースコールのベルを鳴らすという珍事まで起きてもはや収集がつかず、私はシオンさんを連れてそそくさと病院を後にしたのでした。
* * *
「シオンさんー……なんで怒ってるんですか? 機嫌直して下さい、せっかく久しぶりに二人の休日が重なったのにこんなんじゃ寂しいです。それ以上離れると角だって出ちゃいますよ?」
「…………怒ってないです」
むすっ、と眉根を寄せたまま、シオンさんは私の半径99cmぐらいの位置をキープして顔をそらしつつ歩道をずんずんと突き進んでいました。怒ってないとは一体……。
霊峰から王都に帰ってきて、嵐のように一週間が過ぎました。
あれから私たちは互いに調停事務所と神獣会議の面々にきっちり叱られて、穴埋めに奔走し、吸血鬼の居住区入居という歴史的転換を機にいろいろと業務も増え……とてもとても祝う暇なんてなかったのでした。
そう、シオンさんの誕生日をです!
「別にいいのに、おめでとうって言ってくれただけで……」
「だーめーでーすー! お付き合いして最初の誕生日ですよ!? 手帳にだって書いたでしょう、何もしないなんて私の気が済みません! 神獣さんたちの生誕祭より先にお祝いしないと婚約者として立つ瀬がないですし!」
「いやあの人たちは騒ぐ理由が欲しいだけだから……うーん、でもまあ、俺のことではりきってるトールさん可愛いからいっかぁ……」
燃える私の隣でシオンさんはでれでれと顎を掻き、それから、通りに並ぶお店の一つを見上げて顔をほころばせると、静かに歩みを止めました。
「トールさん、本当にいいんですか? プレゼントなんて……」
「もちろんです。さあどうぞ、お好きなものを選んでくださいね」
訪れたのは、街で一番大きな本屋さん。
足を踏み入れた瞬間、図書館とはまた違う、壁一面を覆う新しい紙の匂いに包まれて、シオンさんは初めて調停をした日みたいにキラキラと目を輝かせました。
会計を済ませた本を大事そうに胸に抱えて、シオンさんは緩む口元をむずむずさせながら足早に正門までの道を急いでいました。
可愛いですが、この状態で1メートル以上離れるとあの本は彼の胃の中におさまってしまうので、私も必死で後を追います。それはさすがに悲劇すぎる……。
しかし本当にうれしそうで何よりです、目の中に星が散りばめられてるみたいですね。
「それ、シオンさんの好きな作家さんの本ですか?」
「はい! 昨日出たばかりの最新作です、図書館に入るまでは一年はかかると思ってたから……あー、早く読みたいなぁ、トールさんありがとう!」
ぱあっと花が咲くみたいに笑うシオンさんに、私も胸がいっぱいで笑います。
ああそうです、私はきっと本のことを想って見せる、この笑顔を最初に好きになったんですね。
正門の番兵さんは私の顔をちらりと見ると、特に身分や用を聞き取ることもなく、にこやかに敬礼してまた門の外へと視線を戻しました。
私たちが霊峰登山を頑張っていた頃、居住区では神獣さんたちが一生懸命に制度改革を進めていたそうです。
──居住区入門特例認可制度。
王政と獣人と人間の承認を受けて施行されたそれは、『獣人と家族関係にある人間は、自由に居住区を出入りしてもよい』ということを認めるものでした。婚約関係も含め。
私たちだけのための制度なら恐れ多いところでしたが、今はユージンさんとエミリア先輩もその制度の恩恵を受けていますので、ありがたく利用させてもらっている次第です。
これをきっかけに獣人と人間の距離がもっと身近になればいいって、区長さんは穏やかに笑っていました。
青白い居住区の街並みを通り、シオンさんの家に着くと、庭の花たちは風にそよそよと揺れてかすかな香りを届けてくれました。
んー、番の印があっても、やっぱり霊峰を離れてしまうと私には植物の声は聞こえませんね。シオンさんの育てた大事なお庭の声ですから、私もおしゃべりができたらうれしいなって思うのですが。
「トールちゃんおかえりなさい、だそうです」
じっと花たちを見て耳を澄ませていたシオンさんがくすくすと肩を揺らしてそう通訳してくれたので、私は目を瞬き、一生懸命に語りかけてくれていただろう花たちを見つめて頷きます。
「ええ。ただいま、最近ますます風が冷たいけどがんばりましょうね」
揺れる花びらは気のせいでしょうか、どこかうれしそうに見えて、私はひらひらと手を振りながらシオンさんに連れられ家の中へと入るのでした。
「……さて、記念すべき一冊目、ですね?」
「は、はい、緊張してきました……死ぬかも……」
「やだ。これから何百冊と増えるかもしれないのに、そのたび死んじゃったら私が困りますよ」
笑う私を恨みがましく横目で見つつ、シオンさんはそっと戸を開けました。
……かつて、何も無かった広い壁。
そこを埋め尽くすように設置された、大きな大きな本棚の戸を。
「区長さんも粋なことをしますね。戸付きの特注本棚なんて!」
「ええ、これならトールさんがそばにいない時は本を目に入れて食べてしまうなんてこともありませんしね。破天荒な人ですけど、まあ、ありがたいです。本当に」
霊峰から帰って用意されていたこの家具にシオンさんは驚いてましたが、次の瞬間には私を高い高いして大喜びされてました。そのままぐるぐる回されて盛大に酔ったのを思い出します。
……無理だって分かってる、と言っていた、シオンさんのひそかな夢。
本棚に自分の好きな本を並べて、好きなときに読むという夢は、調停師である私がそばにいる限りは叶えることができました。
買ったばかりの本を、本棚の一番上の端にそっと置くと、シオンさんはじっとその一点を見つめて小さく笑いました。
「いつかこの本棚、いっぱいになるかな……」
「なりますよ、きっとすぐに。次は何を入れるか考えておいて下さいね」
隣で手を繋ぎながら私がそう言うと、シオンさんはじっと私を見下ろして、「ありがとう」と額にキスを落としました。む、最近ますますこなれた感じになってきましたね、やはり年上の威厳が……
「でもこれで終わりじゃないですからね。誕生日祝いはまだまだ始まったばかりです、覚悟してください!」
「ええ、楽しみにしてます。……青いドレスも、まだ見せてもらってないですしね?」
そう言ってシオンさんがすいっ、とその綺麗な青空色の瞳を寄せたので、私はドキッとして目をそらしました。
そ、そういえばニグレドさんとのわだかまりも無くなったからか、ちゃんとこの部屋に鏡を置くようになったんですよね……いやあ自分の目の色もよく分かってなかったなんてさすがはシオンさん、重たい事情も解決しましたしこれからはもうちょっと余裕を持っていろいろなことに……
「でも皺にならないようにしないといけませんね。上手くできるかな……」
「ななななんて破廉恥な真っ昼間からっ!!」
バターン、と本棚の戸をしめて壁際までシュバッと離れると、シオンさんはあははと笑って、にょきにょき生えてきた山羊の耳を揺らして楽しげに目を細めました。こ、こなれすぎじゃないですか!?
私がむくれていると、シオンさんは困ったように眉を下げて「ごめんなさい。冗談ですよ」と手をさしのべました。……あ、冗談なんですか…………それはそれで……。
咳払いしつつ距離を戻して手を取ると、シオンさんは気恥ずかしげに微笑んで懇願するように言いました。
「ねえトールさん、少し目を瞑ってくれませんか?」
「え? はい、いいですよ。…………」
言われた通りに目を閉じると、意外にもすぐに「もういいですよ」と声がかかります。
そして開けた目の先で、シオンさんはじっと私の指を見下ろしていました。
その視線を追って私も自分の指先を見て──そして、目を瞬きました。
「これ……」
「婚約指輪、本代に回した方がうれしいからいらないですって言ってくれたけど……やっぱり何か贈りたくて。これなら受け取ってくれますか?」
右手の薬指に嵌められた、小さな指輪。
それは金属製でも宝石が輝くでもない、おそらく神山羊さんの力でそこに編まれた、白詰草クローバーの指輪でした。
かわいらしい白い花を見つめて、私は呟きます。
「これ、枯れちゃうんですか?」
「う……はい、俺の力で生み出したとしても普通の草花と同じなので。すみません、やっぱりこんな子供じみたもの貰っても……」
そう言って茶化して笑いかけたシオンさんを首を振って制し、私は驚く空色の瞳をすっと見つめました。
「いえ。うれしいです、とっても。結婚式までずっと付けていたいぐらい。だから、もし良かったら毎日新しいものを嵌めてくれませんか?」
きょとんとしていたシオンさんでしたが、少し頬を赤くして、「……はい!もちろん!」と力いっぱい頷いてくれました。
「枯れる前に押し花にでもすれば取っておけますかね。でもそうしたら私、きっと世界で一番多く婚約指輪を贈られた女性になっちゃいますね?」
「なんかそれだと不穏な響きなんですけど……」
二人でしばらく肩を揺らして笑ってから、じっと見つめ合い。
私は背伸びをしてシオンさんの髪、角の生えていたあたりにそっと自分のそれをすり寄せて甘えます。
「ねえシオンさん、今日はまだいっぱい時間がありますよね? だから、これから……」
「……トールさん……」
「エミリア先輩のおうちに遊びに行ってもいいですか?」
「言うと思ったー……」
がっくりうなだれるシオンさんの肩をぽんぽん叩きながら、私は必死にお願いします。
「だって昼間にゆっくり居住区に来られるなんてめったにないですもん! 先輩といっぱいお話したいです、ねえダメ? ダメですか? おねがい……」
「だーーーーもう、俺があなたのお願い断れないの知ってるくせに!! エミリア先輩とは職場でいつでも会えるでしょっ! 最近やったら会議が多くて俺もなかなか時間取れないのにずるいです、今日は俺の日にして!!」
「え、エミリア先輩は私と違って売れっ子調停師だから忙しくて顔合わせる暇なんかちっともないんですよ! 初の獣人調停師ってことで人気もますます上がってるみたいだし……せっかく再会できたのに寂しいんです」
「そ、そんな獣人だったら耳垂れてそうな可愛い顔して……! エミリア先輩だってどうせ今日はユージンさんといちゃいちゃしてるでしょ、邪魔しちゃダメですよ!」
「…………わかりました、シオンさんがそう言うなら我慢します……」
「あーーーちゃんと泣けるようになったからってそうやってうるうるさせて武器に使うようになって……! 分かりましたよ、行けばいいんでしょ、ただし俺も一緒に行きますからね! 恋人で番で婚約者なので!」
「あ、それはもちろんそうしてもらえたら嬉しいなって思ってました。私はエミリア先輩のことも大好きですけど、シオンさんが何より一番大好きなので。一秒だって離れたくないですから」
「………………これが神殺しの神子の本気……?」
なんだか完敗したようにうなだれるシオンさんの手を取って、私は「ありがとうございます」と声を弾ませます。
うーん、アルに「今までの人生で出し惜しみしてた分のわがままをじゃんじゃんシオンさんに出しなさい」って言われたんですけど、こんな感じでいいんでしょうか。なんだか贅沢で恐縮しちゃいますね。
私はそっと握るシオンさんの手、自分の指に嵌められた白い指輪を見つめて目を細めました。
婚約破棄で始まって、しあわせな婚約で終わる物語なんて、まるでおとぎ話みたいだなって不思議な気持ちになります。
だけど本当はここからがはじまりで、人生という長い私たちの物語は、本にも綴り切れないぐらいの小さな喜びや悲しみを刻みながら、どこまでも続いていくのでしょう。
微笑んで私を見る空色の瞳をまっすぐに見つめ返すと、それ以上には何もいらないように思えて、私もまた笑います。
やがて私はいつものように愛しい獣人さんの手を取って、大好きな街の中を二人、きっとあたたかな未来に向かって歩き始めるのでした。
神獣さんのお散歩係 奏中カナ @canna7
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます