第52話 ごあいさつ②
今でこそ大人顔負けに弁の立つアルフレッドですが、幼い頃は人よりも言葉の遅い子供でした。
もともと大人しくてあまり泣かない子でしたが、2歳を間近に控えても喃語すら発さない姿に、村の大人たちには「町まで連れて行って医者に診せた方が良いんじゃないか」とか、「やっぱり子供に子供の世話をさせたからこんなことになるんだ」なんてひどく心配されていたものです。
だけど私はあまり気にせず、とにかく毎日たくさん話しかけて、特別なことはせずお世話を続けました。
アルはお返事こそしなかったけれど、じっと人の目を見てよおくお話を聞くお利口さんだと分かっていたからです。
そしてある日なんでもない瞬間に「おねーちゃん」と突然はっきり口にした時から、今までの沈黙が嘘のようにアルは爆発的に語彙を増やし盛んに話し始めました。
ああ、アルはずーっと準備をしていただけなんだなあと思って、私はほっとするでもなくただ弟とおしゃべりができることをうれしく感じたのです。
まあ、なぜか枕詞に「おねーちゃんおはよ」「おねーちゃんごはん」「おねーちゃんわんわんいたよ」「おねーちゃんしゅき」などなど必ずおねーちゃんを付けて喋っていたのが不思議でしたが……そんなアルが今や王立学院に招待されるようにまで大きく成長して、私としては本当に良かったねと思う次第なのです。
きっとアルフレッド以上に大切なものなんてこれから先に何もない。
そう思っていたのに、もしも弟か彼かの選択を迫られたとしたら────今の私には、胸を張って選ぶことなんてできそうにないのです。
* * *
「……今日はもう帰るね。シチューごちそうさま、今度来たときはおかわりも食べたいな」
そう言って足早に去って行ったアルの後ろ姿を、私は弱々しく手を振って見送るしかできませんでした。おかわりはミーナちゃんが全部食べました。
…………う、うーん……どう思われたんでしょう、私が調停師である以上、獣人さんなシオンさんとの出会いが仕事きっかけであることはアルだって察しが付くでしょうし……。
となれば、抑制しなければならない困った本能を有しているであろうということも、賢いアルのことですから既に予想できているでしょう。私はそれも含めてシオンさんの個性だなと受け入れてますが、残念ですが弟にとって不安材料にしかならないに違いありません。
私もそうでしたが、辺境の村で育った私たちにとって、獣人さんはおとぎ話の中の住人。住む世界の違う、関わることのない人たち、というのが無理の無い認識です。
いや、でも、シオンさんについて誤解されたままなのは私としても悲しいです! できれば弟にもシオンさんがどんなに素敵な人なのか、ちゃんと知って認めてもらいたいです。今となってはたった一人になってしまった、私の大切な家族ですから。
そんなことを悶々と考えつつ、事務所のソファで書類整理を黙々と手伝っていたら、ふいに所長の机上で電話のベルが鳴り、面倒くさそうな応答の声に続きぶっきらぼうに指令を下されました。
「おいホープスキン、仕事だぞ。行き先は図書館、以下略」
「! りょ、了解です……」
「いやあ、こんな人相最悪おじさんの取り次ぎでしかデート出来ないなんて白ヤギ君とトール嬢も悲恋の恋人ですね?」
怒る所長の鉄拳をポメ化して華麗に避けまくるグレイさんに目を細めつつ、私はふうと息を吐いて、家庭の事情にとりあえずのフタをして立ち上がります。
ちょうどいいタイミングですし、調停が終わったら、アルに紹介してもいいかシオンさんに相談させてもらいましょう。きっと少し驚いたり呆れたりしながら、いつものように優しく笑って聞いてくれるだろうから。
と思って訪れた正門前の詰所入り口で、しゃがみ込んでうつむく自分と同じ色をした少年の姿に、私は目を瞬く羽目になるのでした。
「…………あ、アルフレッド!?」
「やあ姉さん、おはよ。昨日はありがとう」
へへ、と笑った口から白い息が漏れるのを見て、私は慌てて駆け寄ります。秋の朝は随分と冷え込んで、まだ子供らしさの残るアルの耳や鼻先を赤く染めてしまっていました。
「寒かったでしょう、こんな所で……。いつからいたの?」
「獣人は必ずここから居住区を出るって聞いたから、ここで待っていれば確実だと思って。事務所に押しかけるのもさすがに連日は気が引けたしね」
「今日私が調停をするって確証も無かったのに? いつまで待っているつもりだったんですか、ああもう、手もこんなに冷えて……」
私よりほんの少しだけ大きくなった気がする手をきゅっと包んで必死で温めていると、アルは困ったようなうれしいような顔で微笑んで、小さく呟きます。
「本当は分かってはいるんだ。姉さんが今こんなに穏やかに過ごしているのは、きっと全部その獣人さんのおかげなんだろうなって。……だけどやっぱり一目見ないと安心できなくて……、だって姉さんが婚約を決めたのは、僕が後押ししたせいだから」
一瞬暗く陰ったアルの瞳に、私はああ、と今さらのように思い出します。
そういえば私がブラッドとの婚約について即答できないでいると、
「姉さんを支えてくれる人がいれば僕もうれしい、ブラッドなら子供の頃からよく知っているし、良い義兄さんになってくれると思うな」
なんて言ってアルが笑ったので、それもそうかなと思って承諾したのです。過去の自分の優柔不断さと人生に対するこだわりの無さにうんざりする話ですが。
「あの時言ったことはもちろん本当だけど……でも本音は、村で家業を継ぐブラッドと結婚すれば、姉さんは遠くにはいかないでいてくれるだろうって自分本位なわがままだったんだ。あの話を断れば、他に村に同年代の人もいないし、父さんは隣町で相手を探すつもりでいたからね。でも結果はあの通りで、そのせいで結局姉さんは一人で王都に出稼ぎに行くことになった。最高の自業自得だよ、姉さんは僕を天才だなんて褒めてくれるけど、実際は自分の願望で姉さんを悲しませたただの大馬鹿者だ」
自嘲気味に笑うアルに、私は慌てて強く首を横に振ります。そんなに気に病んでいたなんて……
「あのねアル、私はむしろ、王都に出るきっかけが出来たのだから全然オッケーって思ってるくらいなんですよ。そのおかげでシオンさんとも出会えたわけですし」
私の言葉にアルはちょっとだけ眉を下げましたが、シオンさんの名前を聞くとちょっとだけ目から失われる光にビクッとします。いや、私が選んだ前回のお相手が酷すぎたせいなのですが……。
「とにかく、仕事の邪魔はしないから、今日はそのシオンさんとやらがどんな相手なのか見させて欲しい。……場合によっては僕は姉さんの味方になれないかもしれないけど」
「いえ、心配させてしまった私の責任でもありますから。でも一応、同行はシオンさんのお許しが得られればですけれど」
「それはもちろん。……それで、『シオンさん』は突然押しかけて値踏みするような真似を申し出る子供を煙たがらないほど出来た人なの?」
不安げに尋ねるアルに、私はこの先の正門で待つはずの人を思い、うーんと目を細めます。
「ええ、きっと歓迎してくれると思います。……シオンさんを端的に表すとすれば、そうですね……」
やや緊張した様子のアルの前で、私はそっと目を閉じて、優しく微笑む空色の瞳を思い浮かべて頬を染めます。
「…………本のことを何よりも愛している、とてもかわいい人ですね」
「……なにそれ?」
そこは姉さんを愛してくれよ、と呆れ気味に呟くアルを置いて、私は大好きなその人を迎えに行くべく正門へと進むのでした。
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