第26話 違う生き物の対話
朝の訪れを知らせたのは残念ながら朝の光でも鳥の声でもなく、けたたましいベルの音と叫び声でした。耳に優しくない。
あくびまじりに床から身を起こすと、騒音の出所は私のベッドの上。
そこにジリリリと元気よく職務を遂行する目覚まし時計を手に、わたわたと泣きそうな顔で慌てている男性──シオンさんを見つけると、私はほっと胸を撫で下ろして目を細めました。よかった、傷の方はもう大丈夫そうです。
「おはようございます、シオンさん」
「え?おはようございます……いや、なんで目が覚めたらトールさんが!? ていうかこれどうやって止めるんですか? うるさくて耳塞ごうとしたら上じゃなくて横にあるしびっくりして……いやそもそもここどこですか!?」
「ええと……私の部屋の私のベッドの上ですね」
「なんでっ!?」
寝起きで説明するのも億劫で、とりあえず涙目で叫ぶ彼から時計を奪いスイッチをオフにすると、部屋は一気にしんと静かになりました。早朝を示す時計の針を見下ろし、まあ私も彼もぐっすり寝たものですね、と我ながら感心してしまいます。実に安眠でした。
そういえば上とか横とか言っていましたが、シオンさんて居住区では耳と角を隠せないから、寝起きはいつも山羊の耳なんしょうね。
寝ぼけて触っただろうから、一瞬取れちゃったとかも考えたんでしょうか……ちょっと可哀想です。
「あの、どうして俺ここに……? 事務所でワインボトルに口を付けたところまではぼんやり覚えてるんですけど、どうにも記憶が……」
ようやく落ち着いてきたらしいシオンさんがおずおずとそんなことを尋ねるので、私は少し不機嫌に眉根を寄せてしまいました。
……思い起こすのはもちろん昨夜のことです。
頬に添えられた手の感触も熱も、髪を撫でる優しい手つきも恥ずかしいぐらい鮮明に思い出せるのに、当の本人に忘れられているというのはちょっと釈然としません。というか寂しいです、ちょっとだけ。
「……昨日の夜、この部屋で私に何をしたか、覚えてないんですか?」
期待をこめて一応聞いてみましたが、しかし床から見上げた先の彼は目を見開いてサーッと顔面蒼白になり絶句されていました。
こりゃだめだとしょんぼり肩を落とします。まあ酔ってた上に寝ぼけてましたしね、私も忘れましょう。
そこでぶるりと肩が震えて、小さくくしゃみをするとシオンさんは面白いくらいビクッと肩を跳ね上げました。窓の外を見ると曇り空、朝方の空気と相まって随分と冷えます。朝食は温かいメニューにしましょう。
「……あの、俺、一体、昨日の夜あなたに何を……」
「いえ私の口から言うのはちょっと……。とりあえず汗ひどかったですし、シャワー浴びませんか? お先にどうぞ。あ、もう意識はっきりしてますか? 寝ぼけて獣化されてしまうと所長と同居人に怒られちゃうので、心配ならバスルームのドアの外までついて行きますが」
「いやいやいや、いいです! 一人で大丈夫です、お先します!!」
言うが早いか真っ赤な顔でベッドを軋ませて飛び降りると、そのままシオンさんは角をあちこちにぶつけながらバスルームへと走って行ってしまいました。あら、やっぱりまだ酔いが覚めてないのでは……溺れたりしないといいですが。
私はシャワーの順番を待つ間ミーナちゃんに電話をかけ、「そのままモーニングコーヒーでも入れてあげなさい」という楽しげな指令に従い、ありがたくゆっくりと朝食の準備を進めることにしました。
* * *
「ご迷惑をおかけしました」
「ど、土下座はやめてください、昨日のことを思い出して冷や汗が……」
「土下座がトラウマになってる……」
交代でバスルームを使い、濡れた髪を乾かしてリビングに戻ると、床に額を擦りつけて深々と謝られてしまいました。フラッシュバックエリーゼサン、土下座はしばらく見たくはありませんね。
「とりあえず積もる話は朝ごはんを食べながらにしませんか? ささっと作っちゃうのでそこに座って待っててください」
びしっとダイニングのテーブルを指差すと、シオンさんは素直に頷いて椅子を引き、姿勢良く座りました。
ダイニングキッチンですのでそんなに距離は離れてませんが、私が離れるとたちまちぴょこんと飛び出す山羊の耳が、何だか可愛くて笑ってしまいます。
……うっかり巨大化しないことを願いますが。
シャワー待ちの間にサラダは用意しておきましたので、エプロンを着けてキッチンに立ち、火を使うメニューに取りかかります。
熱したフライパンに厚切りのベーコンを並べると、じゅわーと良い音と匂いを上げて脂が溶け出しました。
至福のカリカリを狙いつつ、でも決して焦げ過ぎないように。
揺れる火と焼けるお肉と真剣勝負の対話をしつつ、ちょうどいい焼き加減を待っていると──ふいに背中に穴が開きそうなほどの視線を感じて、渋々振り返ります。
「あの……何ですか? そんなにじっと見て……あ、もしかして山羊さんて菜食主義なのでは? すみませんノリノリでベーコンなんて焼いて! 私の分のサラダも食べて下さい?」
「ああいえ、獣人は人化形態の時は基本的に人間と同じ雑食なので大丈夫ですよ。お肉もまだ食べ慣れませんが美味しいので好きです。ただ、その……俺、『料理』って直接見るの初めてで、興味があって」
少し恥ずかしそうにそう言ったシオンさんに、私は目を瞬きます。料理を見たことがない??
「獣人は本能的に火が怖い人が多いので、居住区ではみんなほとんど料理をしないんです。西区から生で食べられる新鮮な野菜や果物、朝焼いてくれたパンなんかを届けてもらえるので、基本的に温かいものは口にしません」
ああ、なるほど……だから食事を楽しみに居住区の外に出る獣人さんが多いんですね。
しかしシオンさん、そんな味気ない食生活を送られていたとは。調停時間は図書館に全て注いでますし、外食もしたことなかったんでしょうか。ふむ。
「簡単な調理ですけど、よければ近くで見てみませんか? 焼き加減も好みがあるでしょうし」
「え! いいんですか?」
「ええ。油が跳ねますのでお気を付けて」
シオンさんは耳をぴょこっと立てて目を輝かせると、たったかとキッチンにやってきて、私の隣で興味深そうにフライパンの中を覗き込みました。
だけど見る見る焼けていく香ばしいベーコンをそわそわと見つめる様子に、ついつい吹き出しそうになりつつ卵を割り入れようとした瞬間、「????」みたいな顔で困惑されてしまったので思わず手を止めます。
……あ、鳥の卵を割るところも見たことないんですね。なるほど。
そういえば私も小さい頃、キッチンに立つ母の隣でじーっと調理を見学していたことがありました。
そうして同じように卵を片手に、母は笑いながら言ったものです。
『トールもやってみる?』
「……シオンさんもやってみますか?」
ほろりと勝手に出た言葉に、あ、と口を押さえた頃には、シオンさんはぱあっとうれしそうに笑って
「! みます!」
と大きく頷いていました。
私は苦笑しつつ、「フライパンの縁でコンコンとひびを入れて、パカッと開くんです。簡単ですよ」と軽く説明をして、緊張した面持ちのシオンさんに卵を手渡します。
神獣会議の時だってそこまでじゃなかったのでは?という真剣な表情で、シオンさんがおそるおそる言われた手順をなぞると……ベーコンの横に器用にポトン、と卵が落とされて、透明な白身が油の上でじゅうじゅうと色を変えていくのでした。
「すごい!」
「上手上手~」
「雛になるはずだったものが出てきました!」
「やめてください食べられなくなるから!!!」
などと言い合いながら、賑やかに調理は進み。
二人で焼きたてのベーコンエッグと温めたパン、サラダの皿とコーヒーのカップを並べ終えると、私たちは向かい合ってテーブルに座り、手を合わせて頭を下げました。
「いただきますっ」
「いただきます」
「おいしい!」
「はい、おいしいですね」
生まれて初めて料理した卵を幸せそうに頬張るシオンさんに目を細めながら、私は呟きました。
「昨日は、ありがとうございました。庇ってくれて」
情けなくて苦笑すると、シオンさんはすぐに首を横に振ります。
「思ったことを言っただけです。部外者が口を挟んですみませんでした」
そう言って、何てこともないようにパンをちぎるシオンさんに倣い、私もベーコンを切り分けながらぽつぽつと続けます。
「お見苦しいところをお見せしましたが、あれが私が逃げてきたものです。調停師にだってなりたくてなったわけじゃない、彼女の言う通りただ運が良かっただけで、志も未来の計画も何もなかったんです。ただあの村にはもういたくなかった」
シオンさんには私が、立派な調停師に見えたでしょうか。
最初に図書館に彼を連れて行った時だって、まず嬉しかったのはアルフレッドに仕送りができるということだった。シオンさんの純粋さを見るにつれ、自分の潔白じゃない過去もここに来た目的も息苦しく思えてなりませんでした。
だけどシオンさんは少し首をすくめて、
「でも、今は違うんでしょう。見ていれば分かりますよ」
そう言ってまた朝食に集中し始めたので、私は小さく「ありがとう」とこぼして、切り分けたベーコンを口に入れました。美味しい。
少し沈黙が続いた後、私は気になっていたことを聞くべく、そっと話を切り出します。
「……胸の傷痕のこと、聞いてもいいですか?」
カチャン、と音を立ててフォークとナイフを皿に落とし、シオンさんは唖然とした顔で胸元を押さえて青ざめてしまいました。
「……え、どうしてこれ……どうやって見たんですか……? やっぱり俺昨日の夜あなたに何か……」
「あ、してない!してないです嫌なことは何も! むしろ悪いのは私で……その、苦しそうだったからつい見てしまいました」
事情を説明するとシオンさんは「本当ですか……?」と訝しげに眉根を寄せて、ふうと息を吐いてから、少し言いづらそうに答えました。
「霊峰を下りる時に、同胞の猛反対を押し切ったって言いましたよね。その結果です」
私が眉を下げたのを見て、シオンさんは自嘲気味に苦笑し、ちょっとだけ悲しそうな声で言いました。
「トールさん。仮にも神様が、『本を読んでみたい』なんて私的な理由でその役割を放棄して、本当に許されると思いますか?」
答えられないでいると、彼は遠く窓の向こうに視線をやりながら、か細く続けます。
「俺にもね、弟がいたんです」
……それが、私とアルフレッドと同じような関係ではないことは、シオンさんの顔と、胸に添えられた指を見れば分かりました。
何も言えない私の代わりに部屋の沈黙を埋めるように、シオンさんの声は静かに響きました。まるで本を読み聞かせるみたいに。
「俺ね、俺とトールさんは似てるのかなって思ってたんです。後ろめたい思いをしながら故郷を離れて、同じような時期に王都に来て、知ってる人もいない中で出会って」
思い返すのは出会ったばかりの頃、図書館で過ごした日々でした。穏やかで静かで、でも少しずつ距離が縮まる気がしたのがうれしかったのをよく覚えています。
シオンさんはふと、寂しそうに目を細めて笑いました。
「でもそうじゃなかった。トールさんは俺よりずっと強いし、家族とも仲が良いし、捨てた過去にもちゃんと向き合おうとしてる。角だって生えてないし紙を食べたりもしない。俺とあなたは全然違う生き物でした」
そう言ったきり、シオンさんはうつむいて黙ります。
私はコーヒーを一口飲んで、少し考えてから──そっと口を開き言いました。
「……おんなじ生き物なんていませんよ。人間だって全然違う、全然生態が違うんです。私と同期の男の子なんてお互いにお互いの能力がうらやましくて派手に喧嘩しちゃったし、ルームメイトの女の子ですら、寝る時間も食べるものも全然違うし、彼女は暑がりで私は寒がりだし、一緒に生活するのも結構大変なんです。でも、それでも一緒にいたいと思うし、何だかんだでその違いが楽しいんです」
笑ってそう返すと、シオンさんは腑に落ちなさそうに首を傾げていたので、私は「たとえば」と続けます。
「シオンさんは、朝と夜ならどっちが好きですか?」
「え?朝……?」
「私もですよ。コーヒーの砂糖は何杯が好き?」
「……2杯半、です」
「私も同じです。ほら、おんなじことだって意外とある。気づいてないだけで多分、もっとたくさんありますよ。きっと人間も獣人も、それを見つけながら仲良くなっていくんだと思います。違いや相容れないところも含めて、お互いを理解し合うために」
だからそんなに悲観しなくてもいいんじゃないですか、と軽く笑うと、シオンさんは目を瞬いて、それから、小さな声で尋ねました。
「トールさんは、トールさんのことがどれぐらい好きですか?」
「え? んー……村を出てしばらくはだいぶ自己嫌悪してましたけど、今はそこから少し持ち直して……まあ普通、ぐらいですかね?」
咄嗟に答えると、シオンさんはくっくと可笑しそうに肩を揺らして。
「ほら、やっぱり全然違う生き物だ」
そう言って、まっすぐ私を見てうれしそうに笑うのでした。
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