第88.5話

 起きた事が理解できるまで、数秒を要した。






 コールリッジの自室の扉を突き破った、巨大な腕がパトリックを掴んでいる事。今の雷鳴の様な音は、木製の扉を一息に突き破った際の音だと言う事。


 木製の扉を突き破ってパトリックの頭を掴んでいる腕が、自律駆動兵の物だと理解した時にはもう遅かった。


 聞いた事の無い悲鳴を上げながら機械仕掛けの太い腕にパトリックが振り回され、少しして蒸気を充填する様な音が聞こえ、鈍い音と共にパトリックの首から下が棒の様に伸び、空魚の様に痙攣した後に動かなくなった。


 パトリックの頭が握り潰された、と理解した後も塗り固めた様に身体が動かない。捌いたハトの様にパトリックの死体が投げ捨てられる。


 息が出来ない。目の前の扉を粉々に粉砕し、現れた自律駆動兵が堂々と此方に歩いて来ようとしているのに。



「“グレゴリー”だ!!!!!」



 急に詰まっていた喉に空気が通る。塗り固められていた手足が動き出す。


 咆哮の様なユーリの声に、止まっていた時間が流れ始める。


 切り出す前の大木の様な、自律駆動兵の腕が振るわれるも、辛うじての所でスヴャトラフが転ぶ様にグレゴリーの腕をかわした。


 あの腕に掴まれたら、かなりまずい。いや、死ぬと思った方が良いか。


 張り付いていた時間が戻ってくる。思考が回り始める。


 思考力を取り戻し、真正面から自律駆兵を見据えた。


 散々資料で見た12フィートの鉄の巨人は、実際に目の前で実物と対峙してみると笑ってしまう程に絶望的な相手だった。


 あの工業機構を切り出した様な腕に掴まれたら、先程のパトリックの様に死ぬ。腕は俺達と変わらない、気軽にさえ思える速さで振るわれる。


 加えて、正しく“生きているかの様に”歩く二本の脚。目に見えて分厚い装甲。覗き窓の様な物が幾つも備えられた奇妙な頭部。


 そして建物の柱をそのままもぎ取ったかの様な、巨大な斧。


 こんな化け物相手に、時間稼ぎしろってか。


 自律駆動兵の柱の様な斧が、何気ない動きで振り上げられる。


 状況判断。優先順位。任務の役割。対処法。任務の進展。目標。


 脳内に様々な事象が破裂したかの様に吹き出し、捻れ合う。


 部屋の中に、グレゴリーが居た。グレゴリーが守るもの。目標。コールリッジを守っている筈。


 こいつの後ろに、目標となるコールリッジが居る。いや、居るのか確かめなければ。


 鋭く、息を吸った。


 自律駆動兵の巨大な斧が、大工が釘でも打つような気軽さで振り下ろされる。


 人など平気で両断しそうな巨大な斧に心拍数が更に跳ね上がり、時間が何倍にも引き延ばされていく。


 引き延ばされた時間の中、左手に“何か”を絡め取り、迷う事なくそれを手繰り寄せた。


 全身を打ち出される様な感覚と共に、流れて収束していく景色の中でグレゴリーの両脚、凶悪にさえ思える剣呑な機構の間を、狭い穴に足から飛び込む様な感覚で辛うじてすり抜ける。


 既に暗く淀んでいた俺の中に、更に冷たい物が流れ込んでいく。


 俺の何かが濁る様に染められ、蝕まれていく。




 これ以上は、駄目だ。



 これ以上踏み込み、“これ”に染まれば、お前は死ぬよりおぞましい事になっていくぞ。



 頭の片隅から聞こえてきたそんな声は、間違いなく自分の声だった。




 “手繰り寄せた”勢いで足を蹴り払う様な体勢のまま床を滑り、グレゴリーの背面から距離を取った辺りで直ぐ様身体を跳ね起こす。


 数秒前に俺が居た場所に、扉をそのまま取り付けた様な刃の斧を振り下ろしたのが自律駆動兵の背後から見えた。


 焼き焦がす様な左手の熱を無視して、素早く室内を見回す。


「コールリッジは!!?」


 スヴャトラフの声が、自律駆動兵の向こうから聞こえてきた。


 随分と広い部屋だったが、見渡しても人を見失う程では無かった。また、隠れられる様な場所は見当たらない。


 結論は一つ。


 コールリッジは居ない。この部屋に、標的ことコールリッジは存在しない。


 そして、自律駆動兵こと“グレゴリー”は今目の前に存在し、俺達と対峙している。


 想定の一つ。よりにもよって、最悪な想定状況を引いてしまった。


「部屋に標的は居ない!!!部屋に、標的は居ない!!!」


 目標を見付ける前に、自律駆動兵に探知されてしまっている。逃走が難しい事はユーリからの報告でも分かっている。


 只でさえ過熱した状況を加速させる様に、何処からか警報が鳴り響く。


 グレゴリーが扉を粉砕した事、そして床を粉砕するかの如く巨大な斧を叩き付けた事。


 それに加えて、夜半という時間帯。


 階下の連中からすれば、警報を鳴らすには充分過ぎる理由だろう。


 そこまで考えて一つの結論が出た。


 俺達は、誘い込まれたのだ。


 考えられない事だが、恐らくは余りに人気の無いこの三階と廊下、そして自室。


 自室に、単独で居座っているグレゴリー。


 この無人の状況こそが罠だったのだ。


 きっとこれは最初の罠では無い。気付いて回避した物や気付かず回避した物、様々な罠の先に、“最後の用心”で仕掛けられた罠に俺達は誘い込まれてしまったのだ。


 火花が出そうな勢いで思考が回転する。


 相手の確認をする前にこのグレゴリーはパトリックの頭を潰した。腕だけを突き出して扉越しに、だ。


 つまり、この近辺に味方の憲兵が絶対に居ないという環境が前提になっている行動。


 余程の人払いがしてあると見た方が良い。


 三階の一部、下手すれば三階層全体から人払いがされていると見るべきだ。


 自律駆動兵が、斧を握り締めたままゆっくりと振り返った。


 今にこの場所に憲兵達が集まってくるだろう。この自律駆動兵の相手をしながら更に憲兵の相手もするとなれば、確実にレイヴン三人の手に余る。


 つまり。


「こいつを仕留めるぞ!!!」


 自律駆動兵“グレゴリー”を見据えつつ、他二人のレイヴンに大声で呼び掛ける。


 今、ここでこのグレゴリーを行動不能にするしかない。


 想定していなかった訳では無いが、言うまでもなく最悪の状況だ。ここでグレゴリーを行動不能にまで追い込めなければ、確実に俺達は敗北する。


 この場合の敗北と言うのは敗走では無い。俺達三人がここで死体となる全滅を指す。


 鳴り響くけたたましい警報に共鳴する様に、グレゴリーが錆び付いた汽笛の様な音を発しながら斧を再び振り上げた。


 まるで荒れ狂ったハネワシと対峙しているかの様な、赤熱しそうな程の動悸と緊迫感の中、振り上げられた斧の軌道を全ての力を振り絞って予想する。


 横凪ぎ。いや幾分か下方にも振っている。言うまでも無く当たれば死ぬ。もしくは、行動不能に近い負傷を負う。





 接近。リーチの内側に入る形で真っ直ぐ接近。より対象に接近する為に危険な距離に入る事になる。


 前屈。横凪ぎの始点側に移動しつつ前屈。安定するが切り返しの可能性も充分にある。


 跳躍。横凪ぎの終点側に移動しつつ跳躍。タイミングを読み間違えれば空中で抵抗出来ないまま両断される。振り終わった斧を捉えられるかも知れないが特殊な対処が必要。


 後退。リーチの外に出る形で真っ直ぐ後退。他より余裕のある選択肢だがコールリッジの自室内では、壁に追い詰められるリスクを取る事になる。





 汗すら凍り、息すら詰まる刹那の中で、選択肢を選び取る。


 リーチは今、自分が丁度斧頭の辺りに居る計算。




 後退。




 今から前進するかの様な姿勢を見せ、即座に後ろに跳ぶ。


 最高速の列車の様な勢いで、自分の目の前を巨大な斧頭が横凪ぎに通り過ぎる。


 振り抜かれる斧は想定以上に速い。余裕のある“後退”という選択肢でなければ、避けきれなかった可能性は充分にあった。直ぐ様条件と情報を修正。


「引き付けろ!!!!!」


 自律駆動兵からは死角になっている背後、その背後に居るレイヴン二人に叫ぶ。


 最早只の穴となったドア枠、そして壁に遮られて二人の姿は見えなかったが俺の言葉は届いた筈だ。


 再びグレゴリーが斧を振りかぶる。クソ、取り敢えず俺を潰してから他の二人を潰すつもりか。


 奴の斧をまともに受ける訳には行かない、回避するしかない。しかし選択肢を謝れば俺は今この場で即死するだろう。


 そうでなくとも、任務続行不可能な負傷を負うかも知れない。そうなれば、コールリッジはのうのうと朝日を迎える事になる。


 全意識を、目の前のグレゴリーに再び集中させる。


 次、後退すれば壁際に追い詰められる可能性が高まる、次は危険を取ってでも左右か前にかわさなければ。


 グレゴリーの次の攻撃はおそらく垂直な縦振り。単純だが、単純な分高速の可能性が高い。


 一瞬でも引き付けるべきか。いや、引き付けようとしてかわしきれなければ意味が無い。


 息を吐く間も無く斧が垂直に地面に振り下ろされるも、危うい所で横にかわす。


 自分のすぐ隣に、扉の様な斧頭が地面に食い込んでいる。


 唐突に、獣の様な太い咆哮が聞こえた。


 鈍い金属音。


 グレゴリーの頭部が急に硬い音を立てて回転した。


 一瞬の間を置いて、自律駆動兵の構造上“後ろを向いている”事に気付く。


 そこまで考えて漸く金属音の正体に気付いた。レイヴンの二人、ユーリとスヴャトラフがグレゴリーにリッパーなりランバージャックなりを叩き付けたのだ。


 先程は距離を取っていたせいか、ドア枠と壁に遮られて見えなかったが、今ではユーリがグレゴリーの膝裏に向かって全力でランバージャックを叩き付けているのが見える。


 いや違う、叩き付けているのではない。


 ランバージャックの斧頭を自律駆動兵の脚部、もっと言えば関節部の機構と装甲の合間に無理矢理に押し込み、梃子の様に体重を掛けているのだ。


 唐突にグレゴリーの頭部の辺りから、スヴャトラフのレイヴンマスクとフードが飛び出す。

 ユーリの身体と、グレゴリーの背面を駆け上がって頭上にまで現れたと理解する頃には、スヴャトラフがディロジウム手榴弾の安全ピンを抜き、手榴弾自体を首元の機構の隙間に捩じ込んでいた。


 直ぐ様スヴャトラフを捕らえようと、グレゴリーの腕が巨体に似合わぬ素早さで頭上に伸びるが、グレゴリーの頭部を蹴って曲芸師の様に大きく飛び上がりスヴャトラフが離れる。


 大きく飛んで後方に下がったスヴャトラフが床を転がり、ユーリが共通語以外の言葉で雄々しく叫んだ。


 想像以上の爆発音と共に、グレゴリーが頭部に置いていた腕が叩かれた様に身体から離れる。


 それと同時に、グレゴリーの胴体の下で爆風から逃れていたユーリが太い咆哮と共に、装甲と機構の間を捩じ込んでいたランバージャックで梃子の様に抉じ開けた。


 錆びた警笛の様な低く伸びた音を出しながら、自律駆動兵が幾ばくかよろめく。


 考えるよりに先に、脚が地面を蹴った。


 鋭く息を吸いながら右腕に通していたゴーレムバンカーのグリップを握り締める。


 反射的に横凪ぎに振るわれる巨大な斧に対し、全力で跳躍して両足を上に引き上げた。


 胴体を両断する筈だった斧頭が引き上げた両足の爪先を掠め、壁に亀裂と共に深々と食い込む。


 斧の柄から手を離したグレゴリーの手が、巨大な鎚の様に上から振り下ろされるも、寸前で身体を一歩横に移動させてかわした。


 壁に食い込んでいた斧が壁の崩壊と共に抜け落ちて床に転がり、足元で蹴り払われそうになったユーリが、素早く転がってグレゴリーの足元から離れる。


 胴体には届かない。だが、脚ならば。


 脚ならば、届く。


 すかさず別の足の関節に、ユーリがランバージャックを全力で叩き付けた。


 硬い音がして再び頭部が回転し、ユーリの方に向いた後に、素早く此方に向き直る。


 だが、もう遅い。


 ゴーレムバンカーのグリップ近くのレバーを、渾身の想いと共に引き絞る。





 轟音。





 ユーリがランバージャックで抉じ開けた脚部の関節機構に、真正面からゴーレムバンカーの杭が命中し、壮絶な音と共に機構が粉砕される。


 砂煙が上がりそうな重厚な音、そして金属が歪む様な音と共に、グレゴリーが片膝を付いた。


 炸裂したばかりで蒼白い煙を上げているゴーレムバンカーを横合いに放り投げる。どのみち、もう再使用など出来る訳も無い。


 頭部か胴体を深く穿たなければ、グレゴリーを行動不能に追い込むのは難しい。


 そう思いながら新しく取り出したゴーレムバンカーに腕を通そうとして、顔に風を感じ、直ぐ様左を向いた。




 腕。目の前。かわしきれない、防御。




 思考が飛ぶ程の衝撃が突き出した右腕と胴体を突き抜けていき、壁に叩き付けられる。


 衝撃で肺の空気が絞り出され、声にもならない咳が出た。


 レイヴンマスク越しに見える視界が霞む。


 急に、目の前の出来事が他人事の様に思えた。




 いや、だめだ。


 動け。  集中しろ。


  立ち上がれ。


 死ぬんだぞ、立て。


 立て。


    殺されるんだぞ。




 身体が錆び付いた様に重い。力が入らない。



  入らないじゃない、入れるんだろ、クソッタレが。



 グレゴリーが、片膝を着いたまま床に転がっている斧を拾おうとしているのが見える。


 まずい、今斧を振るわれたら確実に俺に届く。しかも、確実に避けられない。


 しかしそんな中、斧の柄が引き摺られる様にグレゴリーの手や指が届かない場所へと離れていく。


 ユーリだ。岩から掘り出した様な7フィートのあの巨漢が、信じられない程の怪力で斧をグレゴリーから遠ざけるべく引き摺っている。其処らのオオニワトリが気圧される程の咆哮を上げながら。


 グレゴリーが、片膝を引き摺る様に移動しつつ何とかユーリを掴もうとする。幾度も空振ってはいるが、徐々に距離は詰められつつある。


 ユーリは斧を引き摺りながら逃れられる訳が無い。斧を置いて逃げれば、再びグレゴリーはあの巨大な斧を振り回す様になる。


 鳴り響いている警報ともユーリの雄々しい咆哮とも違う、新たな咆哮が飛び込んできた。


 グレゴリーの頭部に、黒い何かが被さる様にして飛び付く。


 スヴャトラフが膝を付いたグレゴリーの足と背面を駆け上がり、頭部に再び飛び付いたのだ。


 手にしたアイゼンビークを、鈍い金属音と共にグレゴリーの頭部に何度も叩き付けている。


 自律駆動兵の腕が頭部を払い、工業機構の様な太い腕をまともに喰らったスヴャトラフがグレゴリーの後ろに吹っ飛んでいった。


 落ちる姿は見えなかったが、砂袋が床に叩き付けられた様な鈍い音が聞こえる。


 咳き込みながら、立ち上がった。


 意識から遠く離れていたが、相変わらず警報は鳴り響いている。今すぐに、憲兵どもが大量に押し掛けてきても何ら不思議ではない。そうなれば、殆ど俺達は終わりだ。


 けたたましい警報の中で、微かに地面から駆け足の様な振動が伝わってきた。


 早鐘の様に鳴っている心臓の鼓動が、輪を掛けて速くなる。


 あの時腕を通せなかったゴーレムバンカーが遠くに転がっているのを視界の片隅で捉えながら、更に咳き込んでいると左手の痣が俺に呼び掛ける様に、俺を誘う様に熱を発し始めた。


 痣が何らかの意思を持って語り掛けて来ているのが分かった。いや、痣ではなく“痣の先に居る何か”か。


 あの力を使えと。力に染まれと。暗く淀んだあの力を使って、濁った“何か”に溺れてしまえと。


 咳で荒れた呼吸を無理に吐き出す事で整え、深く腹に届かせる様に呼吸する。


 あぁ分かった、乗ってやるさ。どのみち、何時かは使わなければならないと思っていたんだからな。


 苦く重い覚悟と共に、左手に“何か”を絡めとった。左手の痣が、呼応する様に疼く。


 目の前に左手を翳し、革手袋越しに蒼白く発光している痣を見つめながら、全てを受け入れる覚悟と共に絡め取った何かを全力で“抉じ開ける”。


 人の悲鳴と鳥の咆哮を重ねた様な奇怪な音で痣が哭きながら、そのまま穴が開くかと思う程に激痛と共に発熱し、レイヴンマスクの下で歯を喰い縛った。


 黒い霧の様な物が、痣から噴出し始める。いや、痣からだけでは無い。


 よく見れば左腕全体から革の防護服をすり抜ける様にして、湯気の様に黒い霧が発せられている。


 黒い霧が収束し、練り上げられる様に形を成していき、気分が悪くなる様な不気味な声で甲高く鳴き始めた。


 グレゴリーの動きが、止まる。頭部の動きと挙動で分かる。グレゴリーの意識の全てが、此方に向いている。


 あの鉄の化け物の全てが、俺に向けられている。


 黒い霧の中から、眼窩から丸ごと目玉を抉り取られた不気味なカラスが十数羽、いやそれ以上の数が産み出されていく。


 痣をなぞられる様な気味の悪い感覚と共に、この不気味なカラスどもが俺の意思と連動している事が、無根拠な確信と共に伝わってくる。


 ユーリが斧から手を離し、呆然としているのが視界と意識の片隅に見えた。


 何かの一線を踏み越え、とてつもない過ちを犯した様な感覚と共に、今までの“手繰り寄せ”の黒魔術とは比にならない程の“黒い何か”が俺の中に流れ込んでいく。


 取り返しの付かない程に自分が歪み、淀んで、濁っていくのが分かる。


 自分が暗く、“死より恐ろしいもの”に向けて堕ちていくのが、分かる。


 左手の熱と疲労、緊張以外の理由で、首の後ろに汗が浮かび上がった。


 黒煙が上がるのではないか、と思う程に痛む左手でグレゴリーを指し示す。誰に説明されるまでもなく、どうすれば良いかは分かっていた。


 気味が悪い程に即応したカラス達が、新鮮な獲物でも仕留めたかの様にグレゴリーに集まり始める。


 錆び付いた警笛の様な、獣染みた咆哮が自律駆動兵“グレゴリー”から部屋中に響き渡った。


 斧やユーリの事など意識からまるで抜け落ちたかの様な、動揺した動きで膝を付いたグレゴリーが両腕を振り回す。


 子供が虫を怖がる様な、そんな動きだ。


 万が一斧を振り回す様な事にならない様、思い出した様にユーリが渾身の力で斧を遠くへと引き摺り始めた。


 新たに背中からゴーレムバンカーを取り出し、右腕を通してグリップを握り締める。


 焼け付く左手を堪える様に握り締め、一気にグレゴリーに向かって駆け出した。


 カラスに集られて取り乱しているグレゴリーに向かって、急激に距離を詰めていく。


 カラスに集られて気を取られているグレゴリーは気付かない。


 目の前のレイヴンが、よりにもよって真正面から迫ってくる事に気付かない。


 流れる様な、前もって計画していた様な動きで膝を付いているグレゴリーの脚部、膝を踏みつけて高く跳ぶ。


 カラスが頭部に集まって視界を阻害し、他方向から腕に攻撃されていたグレゴリーは、遂に最後の瞬間、判断を誤った。


 高く跳んだ空中から、遂に胴体の目の前、自律駆動兵の懐に飛び込む。


 グレゴリーの頭部が回転する際の硬い音が、頭上から聞こえた。





 轟音。





 自律駆動兵の胴体装甲に、真正面から打ち込まれた杭は想像以上に深く食い込んだらしく、直ぐ様突出した杭が抜けなくなっている事に気付いた。


 杭ではなく右腕を抜き取る様な形でゴーレムバンカーを手放し、直ぐ様後方に転がりつつ離れて距離を取る。


 カラスに集られていたグレゴリーが、圧力の抜けた機械の様に遅く、緩やかに腕を振った。


 硬い音と共に頭部が動いた後、グレゴリーの頭部から空気漏れの様な音が鳴ったかと思えば、遂に動かなくなった。


 少し揺れたかと思えば、支えが欠けたかの様に緩やかに後ろに傾いていき、重厚な音を立てながら自律駆動兵の全身が床に叩き付けられる様に、仰向けに倒れる。


 左手の熱が収まっていく様な感覚を覚えながら、息を吐いた。


 レガリスの最新技術の結晶、重装型自律駆動兵“グレゴリー”を倒したという事実が少しずつ染み渡っていく。


 この事実を前にして尚、俺の中にはとてつもない代償を支払った感覚が消えなかった。


 後悔にも似た、“この力を使わずに倒す事は本当に出来なかったのか”という疑念が深く胸に食い込んでいる。


 忘れてしまうべきだと言う想いと、忘れてしまえば戻れないという想いが脳裏で混ざりあっていた。


 そんな嵐の様な気分で居ると、最早持ち主が居なくなった巨大な斧から手を離したユーリが、直ぐ様駆け寄ってくる。


 随分強い力で、ユーリの両手が俺の肩を掴んだ。


 言葉こそ無かったが、何が言いたいかなど聞くまでも分かる。


 やったな、お前はあの化け物を倒したんだ。


 言葉に出すまでもなく、それこそ手信号で伝えるまでもなくユーリの意思が伝わってきた。


 そんな中、遠巻きに聞こえていた警報が急に思い出した様にはっきり聞こえ始める。


 肩を掴んだまま、ユーリを幾分か顔を上げる。


 どうやら、こいつも同じ感覚を覚えたらしい。


 待てよ。


「スヴャトラフはどうした?」


 考えると同時にそんな声が口から出る。


 確か、グレゴリーの頭部に組み付いた後に思い切り腕に弾き跳ばされた筈だ。


 そんな考えと同時に、爆発音が響き渡る。


 スパンデュールを構えながら、音の方に直ぐ様振り向く。


 同じくユーリもランバージャックを握り締めながら向き直るが、音の聞こえてきた方向は今や殆ど意味を為していないドア枠からだった。


 崩壊し、扉以上に広がったドア枠から素早く滑り込む様にしてスヴャトラフが飛び込んでくる。


 眼窩を抉り取られた不気味なカラスの群れが、横たわったグレゴリーの胴体に留まっている光景にはかなり驚いた様だったが、それでも色んな言葉を飲み込んだ素振りの後に中々の声量でスヴャトラフが叫ぶ。


「憲兵どもが集まってきてる、手持ちの手榴弾全部を使って狭い階段を一ヶ所登れなくしたが、時間の問題だ」


 クソ、とうとう時間切れか。グレゴリーと同時に相手にせずに済んだだけ僥倖だと思うしかない。過ぎてしまえば数分も掛からなかったが、どれだけ豪邸でも数分もあれば憲兵が集まるのは当たり前だ。


 むしろ、夜半に唐突に警報が鳴って数分で集まる事が出来る憲兵の練度に感心すべきか。


 直ぐに、此処から離れなければ。


「コールリッジは居たか?」


 ユーリが直ぐ様呟くが、スヴャトラフが首を振った。


 当然と言えば当然だが、コールリッジの立場の人間が警報の鳴り響く中でわざわざ鉄火場に飛び込んでくる訳がない。


 自室が罠に使われていたとなると、情報不足も相まって益々コールリッジが何処に居るのか予測が付かない。


 まさかこの状況で、片っ端から部屋を探す訳にも行かないだろう。


「恐らくだが、コールリッジは地下に居ると思う」


 不意に、スヴャトラフが呟く。


「どういう事だ?地下室?」


 思わずそんな声が出ると、それに続く様にユーリも声を上げる。


「確かに地下室は地図にもあったが、そこまで断言出来るのか?」


 憲兵が迫ってきていないか辺りを見回した後、俺達に説明する様にスヴャトラフが呟く。


「遠巻きにだが、“地下室にも何人か向かわせろ”と誰かが叫んでいたのが聞こえた。恐らくだが、この緊急時に地下室に向かう理由は一つだと思う」


 少しの間があった。地下室の設備や規模を考えても、確かに地下室にコールリッジと憲兵を詰め込むぐらいは出来るだろう。


 自室のある三階層を完全に罠にして、自身は地下室に籠っていた、など考えもしなかったが辻褄は合うし理論的ではある。


 そこまでやるか、とは思わなくも無いが。まぁ、今回の件で自律駆動兵によって黒羽の団に大打撃を与えられるかどうか、という所でどこか献身的な想いがあったのかも知れない。あるいは、レイヴン達に対する憎悪や敵意か。


 何にせよ、時間が無い事、この危機的状況から考えても地下室に向かうべきだろう。


「地下室に向かおう、どのみち他に手は無い。二人とも場所は分かるよな?」


 念の為にそんな確認の言葉が出るが、二人とも返事は無い。当たり前と言えば当たり前か。


 雑踏の様な足音が次第に耳に届く様になってきた、いよいよ時間も無い。


「ディロジウム手榴弾は後幾つある?」


 そんな問いに、スヴャトラフが首を振る。


「俺は階段を潰す時に全部使っちまった。ユーリ、手榴弾は?」


 スヴャトラフが話を投げるも、ユーリも同じく首を振った。


「いいや。フォグベアーが3つあるだけだ」


 フォグベアーか、すっかり存在を忘れていた。撤退や撹乱用の装備だったが、殺傷能力で言えば手榴弾には遥かに劣る。


 いよいよ雑踏の様な足音が間近に聞こえ、憲兵達の声も聞こえ始めた。


 もう、時間も無い。


「俺がカラス達で撹乱する、全速力で地下室に向かうぞ」


 幾分か収まってきたものの相変わらず火傷した様に熱を持っている左手を握り締めると、意志が伝わったかの様に眼の無いカラスが不気味に鳴く。


 驚いた様にスヴャトラフがカラスに振り返ったが、もう間近に迫っている憲兵達の声に覚悟を決めたらしい。


「頼むぞ」


 そんなスヴャトラフの言葉を聞きながら、右手でアイゼンビークを握り締める。


 同じく、ユーリがランバージャックを構えた。


 深く息を吸い、アイゼンビークを回転させて、握り直す。



「行け!!!!!」



 崩れ掛かったドア枠から一気に飛び出した瞬間、憲兵達は殆ど目の前と言って差し支え無い程に近かった。


 胸元に構えていたクランクライフルが、直ぐ様此方に向けるべく持ち直される。


 左手を勢いよく前に翳しながら駆け出すと、不気味なカラス達がまるで悪夢の様に憲兵達に直ぐ様襲い掛かった。


 悲鳴。銃声。羽音。


 見当違いな方向に飛んだ弾丸が、見当違いな場所の壁を削り取る。


 悪夢の様なカラス達という視覚的な不意打ちも上手く作用し、一瞬にして憲兵達は大混乱に陥った。


 真正面に居た憲兵が声を上げながら、カラスを追い払うべく無様にライフルを振り回す。


 そんな憲兵に真っ直ぐに駆け寄り、上から下へと振り下ろしたアイゼンビークで頭を叩き割った。


 鈍い音と共に頭を打ち下ろされた憲兵が躓いた様に前に倒れていき、倒れている途中の憲兵を脇に押し退けて、兎に角ひた走る。


 サーベルを抜いた憲兵が視界と意識の端から現れ、此方に向かってくる辺りでサーベルごと腕を切り落とされたのが見えた。


 意識を正面に戻す。


 確認するまでもなく、ユーリの仕業だと分かっていた。彼のランバージャックの威力、そして戦斧の練度と“骨割り”の事を考えれば、何も不思議な事ではない。


 スヴャトラフが同じく憲兵を切り捨て、蹴り飛ばすのを確認しながら再び蒼白く発光しつつ、焼け落ちそうにすら感じる左手に意識を集中させ、カラス達の動向を操作する。


 牽制、威嚇、阻害、攻撃。


 紐で繋いでいるかの様に行動と動向、そして結果が伝わってくる事に気味悪い物を感じながらも、目の前の兵士を倒す事、そして周りの兵士を妨害する事に意識を集中させる。


 横合いに振るわれるサーベルをアイゼンビークでいなし、スパンデュールを胸に撃ち込む。咳の様な声と共に胸を押さえる兵士の側頭部をアイゼンビークで殴りつけ、脇を抜けていく。


 横や後方で聞こえる悲鳴や鳴き声、肉の裂ける音に構わず廊下を駆け抜けていき、脳内の地図に描いた大窓へと急ぐ。


「大窓に抜けるぞ!!!!」


 両隣のレイヴンに向けて、走りながらも大声で叫ぶ。


 焦げ付きそうな左手の熱と今から地下室に向かう事を考えれば、階層ごとに切り抜けている場合ではない。


 一分一秒が惜しいこの状況で、三階層の部屋から地下室まで一直線に降りるには、わざわざ邸宅内を駆け回るよりレイヴンの移動術を使うのが最適解だろう。


 またも左右で憲兵が切り捨てられていくのを視界の端で捉えながら廊下を突き抜けていき、扉を蹴破る様にして邸宅正面の大窓がある部屋へと飛び込んでいく。


 当然ながら、邸宅の真正面から大窓を割って出入りする等どれだけの状況でも普通は選択しない方法だ。現にこの邸宅に忍び込む時も、死角となる場所と方向から壁面を登っていたのだから。


 しかし言うまでもなく、この状況では死角だの人目に付かないだの言っていられる状況ではない。


 幸い、大窓は最初の計画で避ける程には大きく、レイヴンが勢い任せに飛び込むには充分過ぎる幅があった。


 部屋の中を駆けながら、スパンデュールを大窓に打ち込む。


 中心から大きく亀裂の入った高級そうな一枚硝子の窓に、渾身の意思を込めた左手を痛みを堪えつつ翳した。


 黒く太い矢の様に、眼の無いカラス達が次々に目の前の大窓に衝突し、ただでさえ亀裂の入っていた大窓が外に硝子片をばら蒔く様にして突き破られる。


 突き破ったばかりの大窓に渾身の勢いで飛び込み、カラス達が不気味に鳴き声を上げる中勢いのまま邸宅の外に飛び出しつつも空中に投げされぬ様、壁面の段差に辛うじて手を掛けてすがりつく様にぶら下がった。


 直ぐ様、後を追うように大窓を飛び抜けて来るユーリとスヴャトラフを意識の端に捉えつつ、滑り落ちる様に邸宅正面の壁面を下っていく。


 銃声により自身から少し離れた壁面の装飾が砕け散るが、少し左手から意思を伝えると不気味な眼の無いカラス達が質の悪い悪夢の様に、邸宅正面の辺りに集まっている憲兵達に襲い掛かっていくのが、眼を向けるまでもなく伝わってきた。


 殺すまでは行かずとも、時間稼ぎか撹乱にはなるはずだ。


 逃げ惑う悲鳴を遠くに聞きながら、ぶら下がる様な体制から身体を振って勢いと共に飛び降り、落下の途中で壁を蹴って速度を軽減させつつ方向を変え、段差の一つに降り立つ。


 少しの助走の後、下方の手懸かりに向かって飛び出しては一瞬手懸かりに掴まる様な形でブレーキを掛け、勢いをつけて再び身体を宙に投げ出し壁面と壁面の合間、縦に伸びる細い通路の様な場所に足から飛び込んだ。


 腕と脚を壁面に押し付ける様にして滑り落ちていく速度を調整しつつ、ダストシュートの様に地面まで滑り降りていく。


 そして一階層の正面、玄関が近付いてきた辺りで壁を蹴って壁面から大きく離れ、地面に叩き付けられる様な衝撃を転がって吸収しつつ、立ち上がった。


 隣と後方で衝撃音、似たようなルートを通ってきたらしいユーリとスヴャトラフが、転がった体勢から直ぐ様立ち上がる。


 大雨の中、それなりに集まっていた邸宅周辺の兵士達は、大混乱に陥っていた。


 剣を握り締めたまま近付かない者や一目散に駆け出す者、カラスの群れにライフルを向けている者、怯えきって足すら動かない者。


 考えて見れば、グレゴリーを破壊した事やその後の事を知らないにしても、こいつらからすれば“あの悪名高いレイヴンが操る、不気味なカラスの群れが大窓を突き破って襲い掛かってきた”のだから、散々悪評を聞かされてきた憲兵達が逃げ惑うのも分からなくはない。


 周りが俺達に本格的に意識と狙いを定めるより先に、直ぐ様ユーリが煙幕を噴出する特殊装備、フォグベアーを取り出して安全ピンを引き抜いて投げる。


 転がった金属筒の中で薬包が破れて薬液が混じりあった結果、息も出来ない程の濃密な煙が辺りに破裂した様な勢いで噴出していく。


「直ぐに地下室に向かおう」


 濃密な煙幕の中スパンデュールにボルトを装填していると、ユーリがそんな言葉と共にランバージャックの斧頭を飛び出させる様にして、柄を素早く展開する。


 柄を展開したランバージャックは先程までの大型ハチェットとはまた違う、恐ろしい両手斧の風貌となっていた。


 接近戦において、両手斧がどれだけ恐ろしい武器なのかは言うまでもない。


 歴史を紐解けば両手で振るわれる斧がどれだけの命を戦場で奪ってきたかは、火を見るより明らかだ。


 そして、何より恐ろしいのはその両手斧を握っているのが、“骨割り”に精通した7フィートの熟練の戦士だと言う事。


 手元のアイゼンビークを、回転させて握り直した。


 悪夢の様なカラスの件は完全に計画外だが、こいつらが動揺しているなら利用しない手は無い。


 一瞬思案した後、陽動としてカラス達を邸宅周辺の憲兵達に襲い掛からせつつ、レイヴン二人と一緒に正面玄関から邸宅内に堂々と飛び込んでいく。


 奴等の目が此方に向くまでが勝負だ。統制を取り戻した連中に一斉射撃でもされようものなら、此方は随分とまずい事になるのだから。


 何時の時代も奇襲がどれだけ効果的なのかは言うまでもない。ついでに、奇襲は相手が驚いている内が勝負だと言う事も。


 レイヴン三人が正面玄関から飛び込んでいき、思い思いの方法で障害物を飛び越え窓を潜り、邸宅の中を駆けていく。


 使用人らしき人々も大勢逃げ出していたが、勿論わざわざ意識を向ける様な事は無い。俺達の任務に無関係なら、わざわざ手に掛ける様な事は無い。


 廊下で鉢合わせした兵士が直ぐ様クランクライフルを構えるが、引き金を引くより先にスパンデュールのボルトを肩の辺りに撃ち込む。


 衝撃により、無関係な壁に向かって火を吹いたクランクライフルの先端を駆け寄って掴み取り、アイゼンビークで脇腹に叩きつけて肋骨を砕き、鼻骨を陥没させる様に顔へと叩き付けた。


 視界の端でスヴャトラフが、全速力の勢いのまま憲兵の顔の高さまで飛び上がって膝蹴りを入れ、倒れ込んだ憲兵の頭を踏み砕いてそのまま走り出すのには感心してしまった。


 やるじゃないか。


 しかし俺のアイゼンビーク、スヴャトラフのリッパーもそうだが、ユーリが握っている両手斧、展開したランバージャックはこの乱戦に近い戦いの中で、予想以上の威力を誇っていた。


 相手がこの騒動で動揺している事を踏まえても、ニワトリでも締める様に憲兵の肘から先を切り落とし、首から上を切り飛ばす光景は圧巻と言う他無かった。


 サーベルで幾らか抵抗する兵士も居たには居た。顔に石突きがめり込んだ後に、脳天から喉まで二つに割り裂かれる事になったが。


 そんな中、カラスを呼び出した時には焼け落ちそうにすらなっていた左手の熱は、今や随分と収まっている。


 その代わり罪悪感にも似たとてつもなく黒く暗い何かが、嵐の様に俺の胸の内で今も渦巻いていた。


 お前は途方も無い過ちを犯したんだ。そんな意思と言葉が、胸の内から伝わってくる。


 この黒い何かと向き合うべきだ。無視してはいけない。いや、向き合ってはいけない。飲み込まれる。


 相反する想いが濁り、混ざり合う。


 そんなどうしようもない想いを振り切る様に、駆けている足を益々加速させる。


 悩むのも苦しむのも、責めるのも後にしろ。この任務から生きて帰らなければ、それすら出来ないんだぞ。


 意志が繋がっているカラス達が、今や見えもしない正面玄関の傍で憲兵共を陽動しつつも、徐々にほどけて黒い霧として霧散しつつある事が左手の痣から伝わってくる。


 時間切れか。奴等がどこまで俺達の目的を把握しているかは分からないが、地下室にコールリッジが居ると仮定すれば安否を確認すべく、まず地下室に向かってくる可能性は充分にある。


 急がなければ。


 血と悲鳴が辺りに撒き散らされる中、遂に地下室への扉まで辿り着くも、木造とはいえそれなりに重厚な作りの地下室への扉をユーリが文字通り蹴破る。


 俺もやろうとすれば出来なくはないが、幾ら体重と筋力があるとは言えあんな勢いのまま殆ど減速する事もなく扉を蹴破って先に進むのは、流石と言う他無い。


 地下室への階段を猛獣の様に突き進むユーリの隣を、スヴャトラフが壁や手摺を利用して滑り落ちる様に駆け抜けていく。


 そんな二人を追い掛けていくと階段と地下室を遮る扉が見えてきたが、先行する二人の勢いは止まらない。


 地図が正しければ、あの扉を越えればもう地下室の筈だ。そして、この地下室にその部屋以外の部屋は無い。


 突き進んでいるユーリの手に、フォグベアーを握られているのが見えた。


 ユーリの考えている事が、手に取る様に分かる。きっと俺も同じ立場なら同じ選択肢を取るだろうな。


 アイゼンビークを回転させて、握り直す。スパンデュールに装填されているボルトは残り三発、万が一撃ち合いになった場合は俺が先頭に立って撃ち合うべきだろうな。


 熱の引いた左手の痣が、呼び掛ける様に脈動する。


 “手繰り寄せ”にしろ“カラス”にしろ、胸の内に渦巻く黒い物を考えると“黒魔術”は使わないに越した事は無いのだろうが、いざとなれば再び使わなければならないだろう。


 レイヴンマスクの下で再び顔を歪めているとユーリがフォグベアーのピンを抜き、フォグベアー自体を手に握り締めたまま、駆け抜ける勢いのまま地下室の扉を体当たりの様に蹴り付け、鎚を叩き付けたかの如く扉に大穴を開ける。


 スヴャトラフが扉枠の横、地下室の壁に背中を張り付けるにして隠れる。


 そして直ぐ様、ユーリも横っ飛びに扉横の壁に隠れると銃声と共に扉に弾痕が付き、更に散弾の様な弾痕も浮き上がる。


 そこにもう一発弾痕が付いた辺りで、ゼンマイバネを巻き取る様な音が幾つも聞こえ始めた。


 クランクライフルの金属薬包排出機構、すなわちクランクを回している音だ。


 回している奴等は今、ライフルを撃てない。

 幾つもの弾痕が付いて廃材の様になりつつある扉の、最初に蹴破られた大穴からユーリがフォグベアーを投げ込む。


 そしてその行動を予測しユーリがフォグベアーを投げ込む前から、その扉に向かって幾分か距離を取り助走を付けていた俺が、半壊の扉を勢い良く蹴破って中に飛び込んだ。


 飛び込んだ目の前でフォグベアーが作動し、爆発染みた勢いで濃密な煙幕が噴出されていく。


 煙幕で確認が難しくなる前に、素早く辺りの兵士と人数を視認。


 目の前にクランクライフルの憲兵3人。奥に装甲兵が3人。直ぐに充満する煙幕。


 装甲兵達の奥に、怯えきった様子の太った男。


 憲兵達を始末し、豪邸の敷地に入り込み、レガリス最新鋭の自律駆動兵を命懸けで破壊してまで首を狙った男、レスター・コールリッジ。


 その男が、遂に目の前に居た。


 時間が何倍にも引き伸ばされ、考えるより前に身体が前へと駆け出す。


 直接スパンデュールで狙う事を考えると同時に、それが無理だと気付く。


 装甲兵が盾になろうとしている、煙幕で狙いを定めるのも難しい。


 左手のスパンデュールで目の前の兵士、クランクライフルのクランクを回そうとしている憲兵の肩にボルトを撃ち込む。


 撃ち込んだ憲兵の左方向、もう一人の兵士にも左腕を振る様にして、流れる様な動きで続けてボルトを撃ち込んだ。


 右方向の兵士には、スパンデュールを向けるまでもなくボルトが突き刺さるのが見える。


 想定通り、ユーリとスヴャトラフが後ろから俺の背中に重なる様にして部屋に突入してきていた。


 目の前の憲兵が俯く様にして咳き込み、クランクライフルの銃口が下がる。視線と意識が逸れたライフルの銃身を左手で掴み取り、そのままライフルを握っている憲兵の手に向けてアイゼンビークを振り下ろす。


 指と骨を砕いた感触と共にライフルを叩き落とし、苦悶の悲鳴が上がったその顔に振りかぶったアイゼンビークを叩き込んだ。


 顎の骨がへし折れ、真っ赤な歯が殴った勢いに乗って赤い線を引く様に宙を舞う。


 煙幕の中、左方の憲兵が胸を串刺しにされて蹴り飛ばされるのが煙の影として映り、右方の憲兵に至っては人形の様に奥へと投げ飛ばされるのが煙の影として見えた。


 右方の憲兵を、誰が相手したのかは言うまでもない。


 濃密な煙幕の中から突如飛び出してきた槍の穂先を、反射的にアイゼンビークでいなす。


 いなされた穂先が肩の辺りの防護服を浅く切り裂いて、バネ仕掛けの様に煙幕の中に引き戻される。


 防護服の革が切り裂かれただけだ、肉体に傷は無い。強いて言うなら、肝が冷えた事ぐらいか。今更ではあるが。


 装甲兵の一人が銃口の様にローズスパイク、赤熱する槍の穂先を突き付けながら濃密な煙の中から現れた。


 内心で愚痴を溢す。槍の相手には余り良い思い出が無い。


 この状況で時間稼ぎをされるかとも思ったが、どうやらこの装甲兵はそんなつもりは毛頭無いらしく、ゆっくりと油断ない足取りで此方に前進してくる。


 成る程な、分かりやすいのは此方も嫌いじゃない。


 左手のワイヤーグローブを操作して、ガントレットに内蔵されていたフルタングダガー、ラスティを逆手に掴み取る。


 右手にアイゼンビーク、左手にラスティを握ったまま、少し息を吸ってから一気に距離を詰めるべく踏み込む。


 直ぐ様突き出される槍の穂先、低い、下段。


 すかさずアイゼンビークで払って防ぐも、想像以上に突きが重い。


 素早く穂先が引き戻され、再び下段に突きが繰り出される。


 余りにも速く、重い。すかさずアイゼンビークで再び振り払う。


 いや。


 フェイント。下段を突く動きから急に上段、顔に穂先が矢の様に飛んでくる。


 刹那、逆手に握ったラスティの刀身と防護服の腕部を削る様に、穂先と柄が頭の左横へと突き抜けていく。


 左手にラスティを握っていなければ、左手を失うか左腕を抉られていたかも知れないな。


 直ぐ様ローズスパイクの柄から伝わってくる。この突きで深手を負わせるか、仕留める気だったのだろう。


 穂先が素早く引き戻される気配は無い。


 即座に判断し、穂先が戻るより先にその体勢のまま、柄を削る様にして前に踏み込む。


 更に踏み込もうとした瞬間、左肩に乗せられている槍が急に重くなった。槍に、そのまま乗られているかの様な重さに膝に力が入る。


 押し返せないのなら他に逃がす。そう判断し他方に槍が身体に押し付けられる力を逃がそうとするも、まるで鎖で巻き付いているかの様に槍が身体から離れない。


 意図が、直ぐに分かった。


 槍の柄に体重をそのまま乗せたかの如く益々肩に食い込んでくる槍に、右手のアイゼンビークも槍の柄に組み合わせる様にして対抗する。


 そのまま肩に装甲兵自身を背負わせられたかの様に、徐々に膝が曲がっていく。上級衛兵とは聞いていたが、ここまで槍に体重を乗せるのが上手い奴が居るとは。


 先程踏み込んだせいで、槍から身体を後ろに引き抜くのも難しい。左右は言わずもがなだ。


 遂に、平伏するかの様に片膝が地に着く。


 この状況は、非常にまずい。


 今の体勢のままでは咄嗟に身をかわす事が出来ない可能性が高い、このまま槍を素早く引き抜かれて先程の様な、矢の様な突きを繰り出されたらラスティではいなしきれず、まともに喰らう可能性がある。


 赤熱する槍に真正面から貫かれたりしようものなら、どうなるかは言うまでも無い。


 この装甲兵の技量からしても、致命傷じゃないにしろ肩か脇腹でも貫かれたら、一気に難しい戦いになるだろう。


 加えて、負傷によっては失血の問題もある。この邸宅から脱出する事に関しては言うまでもない。


 突かれないにしても、一瞬とはいえ動けない俺を逃す様な相手とは思えない。槍と身体を半回転させて、石突きで俺の膝や肋骨辺りを砕いてくる事も考えられる。


 肩にめり込む程に槍の柄が重くなっていく。


 前に更に出るべきか、いやそれも難しい。


 距離もある。憎い事に相手は槍のリーチをほぼ最大近くまで使って、その上で信じられない程の力で俺を下に押し付けているのだ。


 何か隙を作らないと抜け出す事も出来ない、恐らくはこうやって数多の敵を屠ってきたのだろう。


 今槍を引き抜かれ、再び突かれたら非常にまずいぞ。相手にもそれが充分に分かっている筈だ。


 槍が素早く肩から引き抜かれるのと、策を思い付くのは殆ど同時だった。


 咄嗟に動けない体勢のまま、引き戻される槍を追う様にスパンデュールのボルトを放つ。


 装甲兵の顔面、頭部正面装甲にボルトが真正面から命中し、甲高い音と共にボルトがはね飛ばされる。


 頭部への衝撃、動きの継ぎ目、ボルトが不意に飛び出すという不意打ちにより、装甲兵の身体と狙いが揺らぐ。


 その一瞬で地に着いた片膝や、固まりかけていた体勢を直ぐ様立て直す。


 それでも狙いが曲がったまま放たれる槍を、掠める様にかわして前に出た。


 槍を握り、一緒に伸ばされていた腕にアイゼンビークを振り下ろし、手を潰す様にして槍を叩き落とす。


 うめき声と共に穂先が赤熱している槍、ローズスパイクが地面に重い音と共に転がり、ラスティを仕舞った左手を添えて両手でアイゼンビークを振りかぶった。


 相手が咄嗟に腕で頭を庇う様に突きだす。


 勿論、そう動く事など分かっている。


 頭を狙う動きで頭を庇わせ、視界を阻害させた後に狙い澄ました一撃を装甲兵の膝に横向きに叩き込む。


 想定外の一撃に、バイザーの下りたヘルメットからくぐもった悲鳴が聞こえる。相手が踵に物がつまづいた様にふらついた瞬間、体重を乗せて胴元へと組み付き、地面へと一気に押し倒した。


 無事な方の腕を押さえる、のではなくその無事な腕へとアイゼンビークを叩き付け、肘の辺りを叩き潰す。


 胴に跨がる様にしたまま、手が潰れた方の腕も手で抑え、片手のまま装甲兵の顔面へとアイゼンビークのピック部を叩き付けた。


 ヘルメットの正面が陥没する。再び叩き付けて、更に陥没させる。


 身体からは既に力が抜けていたが、両手でもう一度大きく振りかぶってから、体重を乗せて叩き付けるとピック部分が深々と顔面部分に突き刺さり、頭蓋と脳幹を破壊した。


 よし、仕留めた。そんな感想と共に自立する程に深く突き刺さっていたアイゼンビークを装甲兵の顔面から引き抜く。


 その瞬間、濃密な煙の中、俺の目の前で装甲兵が後頭部から地面に叩き付けられるのが見えた。


 仰向けのまま要領の得ない動きをしている事からも、脳震盪を起こしているのが分かる。

 そして煙の中から、展開したランバージャックを握ったユーリが現れた。


 そのまま床すら叩き割らんばかりの勢いで、装甲兵の頭にランバージャックの斧頭が叩き付けられる。


 斧頭の刃部ではなくその対に備えられた鎚部分を使ったらしく、深く顔面が陥没した装甲兵は直ぐ様動かなくなった。絶命したのがありありと分かった。


 そんな中、煙の中から悠々とスヴャトラフが現れる。どうやら、向こうも片付いたらしい。

 煙幕の向こうには、うつ伏せのまま呻き声を上げている装甲兵が影として見えた。


 手に握ったリッパーから察するに、致命傷まではいかずとも行動不能までは追い込んだらしい。


 膝の裏か、脇の下でも切り裂いたか?何にせよ、上手くやったらしいな。流石はレイヴンと言うしかない。


 装甲兵は三人。そして、倒された装甲兵は三人。


 つまりは、もう目の前だ。


 煙幕を抜ける様にして俺とレイヴン二人が前に出ると、コールリッジは目の前に立っていた。


 武器のつもりであろう、ナイフを此方に突き付ける様に握っている。


「グレゴリー!!!!」


 すがり付く様な声でコールリッジが叫ぶ。


 そんな声に、眉を寄せた。今更呼ぶぐらいなら、もっと前から呼んでいそうなものだが。


 そこまで考えて、合点が行った。嗚呼、そういう事か。


「グレゴリー!!!!」


 コールリッジ本人も恐らく自律駆動兵が破壊、もしくは行動不能になった事は状況から考えても分かっている。


 だが、それでも呼ぶしかない。無駄だと分かっていても、無意味だと分かっていても呼ぶしかないのだ。


「グレゴリーーー!!!!!!!」


 半狂乱になっているコールリッジに対して、ユーリが前に出る。手には、展開したランバージャックを握ったまま。


 只でさえ大きいユーリの肩幅が、もう一回り膨らんだ様に見えた。


 前回の任務の事を考えれば、目の前の男にユーリがどれだけの想いを持っているかなど、言うまでもない。


 胴の辺りから、ユーリがランバージャックを大きく横に振りかぶる。


 俺もスヴャトラフも、手出ししなかった。今この瞬間だけは、この任務は全てユーリの物だ。


 静寂。コールリッジの顔が、真っ白になる。


 レイヴンマスクが弾けるのでは無いか、と思う程の咆哮を上げながら、ユーリが骨付き肉をへし折る様な音と共に両手斧を振り抜いた。


 血飛沫、というよりは塗料の缶を取り落とした様な重さを伴って壁面や床に赤黒い斑点が散り、床のそれらを拾い集める様に同じく赤黒い水溜まりが広がっていく。


 斧頭に付いていた内臓の欠片と腸の切れ端を、ユーリが適当に振り払う。


 胴から上下に大きく二分割されたコールリッジの顔が、起きた事が信じられない様に眼を瞬いた。


 胴から横凪ぎに、人体を上下に両断したのだ。それも、斧頭及び刃が大きいとは言え両手斧の一振りで。


 “骨割り”を体得している自分だからこそ分かる。それは、幾ら相手が無抵抗に近いコールリッジだからと言って、相手の胴を一振で両断するというのは“骨割り”で可能な範疇を大きく越えていた。


 脊柱に内臓、そして筋肉や肋骨。肋骨を辛うじて避けたとしても、俺でさえ胴を一振りで両断など出来ない。


 怪力だから、では片付けられない。勿論、ユーリ程の巨漢かつ戦士であってもだ。


 まるで蒸気駆動か、ディロジウム駆動の切断機械だ。最早“圧力”とさえ言っても良い。


 こいつは今、何をした?何の力を使った?


 真っ白になったコールリッジの上半身にユーリがランバージャックと共に歩み寄るが、少しして静かに此方に引き返してきた。


 絶命している以上、これ以上何かするつもりは無いらしい。


 急いで脱出しなければ。只でさえこの地下室は出入口が一つだ、もし塞がれでもしたら非常にまずい事になる。


 誰が言うでもなく三人で頷き合い、先程駆け降りてきた階段を急いで駆け上がり始める。


「さっきの、どうやったんだ?」


 先程の凄惨な処刑に、階段を駆け上がりながらもスヴャトラフからそんな声が漏れる。


「人を上下に両断するなんて、メニシコフ教官でさえ教えてくれなかったぞ」


 スヴャトラフの疑問は最もだった。剣や斧を握って戦った経験がある者なら、今の出来事がどれだけ夢物語か言うまでもないからだ。同じく階段を駆け上がっているユーリが、言葉を選ぶ様な間の後に呟いた。


「血を、燃やすんだ」


「燃やす?どういう事だ?」


「言っても分からないと思う」


 これ以上話す事は無いと言わんばかりに、ユーリが会話を切り上げる。まぁ状況から考えてユーリが正しくはあるのだが、ユーリがこんな切り上げ方をするのは随分と意外に思えた。


 何かあるのか?


 いや、気にしても仕方無いか。それよりも今は脱出を考えよう。スパンデュールにボルトを装填しながら、頭を巡らせる。


 先程邸宅の正面から突入し、憲兵どもを叩き潰して飛び越える様にしながら地下室入り口まで駆け抜けた事を考えると、地下室の入り口までは仕方無いにしろ、同じルートをそのまま駆け戻る事はやめておいた方が良さそうだ。


「ユーリ」


 徐々に終わりが見えてきた階段を駆け上がりながらもそう呼び掛けると、ユーリが素早く振り向く。


「脱出を先導しろ、前回の脱出からしても俺達よりも勝手が分かってるだろう」


 そんな俺の言葉に、直ぐ様ユーリが「分かった」と返す。


 記録と報告によれば、前回はこれより更に酷い状況からユーリは一人で脱出した筈だ。苦い記憶だろうが、今回ばかりは俺達が生きて帰る為にも活用してもらうしかない。


 レイヴン三人が、殆ど枠しか残っていない扉から飛び出す様にして次々に地下から地上に戻っていく。


 その瞬間、曲がり角から汗だくの憲兵が現れ、ユーリの目の前に飛び出す様な形で相対した。


 目の前の巨漢に対して、憲兵の頭が物事が追い付くまで僅かな時間がかかった。そして、真っ青な顔で腰のサーベルに手を伸ばす。


 その憲兵の膝から下が、枝でも手折る様に一息に切り飛ばされた。


 憲兵がまるで足でも踏み外した様に後ろに転び、仰向けに倒れる。


 結局、サーベルすら抜けなかった憲兵の頭をそのまま鈍い音と共に踏み潰し、ユーリが走り出す。


 スヴャトラフと同じく、俺もその後ろに続く。余りの出来事に顔を一瞬見合わせたが、直ぐに前に向き直る。


 気にした所で仕方無い。現にユーリは先程、「言っても分からないと思う」と答えたのだから。


 ユーリが展開していたランバージャックの柄を元の長さに収め、大型のハチェットとして片手に握り直した。


 駆けていく脚が、加速する。


 自分達が先程飛び込んできた邸宅の正面とは真逆、邸宅の裏方面へとユーリが駆けていく。


 正面に戻る事は論外にしても横合いの敷地に抜けるルートもあるのでは、と一瞬頭を過ったが、ルート選択を任せたユーリは一直線と言える程に脇目も振らず、邸宅裏へと駆けていた。


 ユーリは言うまでもなく、熟練のレイヴンだ。きっと同じ事を思い付いただろうし、それを思い付いた上でこのルートを選んでいるのはほぼ間違いない。


 ならば、彼の選択を信じるべきだろう。


 実際、地下室入り口から邸宅裏へと抜けるルートは逃げ遅れた数人の使用人を見掛ける程度で、意外にも憲兵や装甲兵は一人も見掛けなかった。


 兵士達は地下室に今更向かっているのか、もしくは他の場所へと向かっているのか。


 何にせよ、この状況を利用しない手は無い。ユーリが扉でも潜る様に窓を突き破り、邸宅から飛び出していく。まるで砲弾だ、体重を考えれば砲弾の様な物と言われても納得の行く話ではあるのだが。


 邸宅から飛び出し敷地内を駆け抜けている内に先導するユーリが何を計画しているか、また何処を目指しているのかも徐々に見えてきた。


 廃棄孔、つまり廃棄処理場へと向かっているのだ。


 侵入する際には罠を危惧して遠回りしてでも近付かなかった場所、結局確かめる暇など無かったが、仮に罠が張ってあったとしてもこの状況ではどうなっているかは分からない。


 それに経験上、こういう場合の罠は“侵入者”には絶大な効果を発揮するが、“脱出者”には脆弱な事が多い。


 幾分か弱まった様な気がする雨の中、段差を飛び越える訳でも壁を登る訳でもなく、ひたすらに走る。まるで体力鍛練の走り込みだ、と愚痴の様な言葉が頭の片隅を掠めていく。


 息がかなり上がってきた辺りで、漸く廃棄処理場が見えてきた。


 前回の侵入ルートでは、廃棄処理場に繋がっている敷地内下層の廃棄孔から入り込み、逆に廃棄孔を這い上がって廃棄処理場に顔を出す形で侵入している。


 侵入の証拠は残しておらず、前回の任務の際は脱出に別ルートを使った事からも廃棄処理場のルートは露見していない筈だが、それでも前述の理由で侵入に再び使う事は避けていた。


 只の杞憂だとしても、俺はどうしてもあの状況から、前回と同じルートで侵入する気になれなかったのだ。


 そして廃棄処理場に辿り着いた時、今回の俺の判断が正しかった事が証明された。


 隣のスヴャトラフが、雨音で掻き消されそうな小声で悪態を吐く。


 廃棄処理場は、報告されている前回の任務や資料で読んだ光景とは大きく変わっていた。


 顔を出す予定だった廃棄処理場の廃棄孔、その大型廃棄孔には頑丈な鉄格子が掛けられている。


 開閉式の鉄格子を開けようにも、内側からは何れ程手を伸ばしても届かない場所に錠前が掛けられていた。


 その上、今では皆が飛び出した様に無人になっているが、応急的な屋根や椅子が幾つも設営されており湯を沸かせるディロジウム駆動式のストーブまで設置されている。


 規模から見ても、もし此処に顔を出していたら十人近くの憲兵に出くわす事になっていたのは間違いない。


 鉄格子が掛けられている上に、廃棄孔の内部は詰まらない様にそれなりに広く、滑り落ちていく様に殆ど一直線だ。


 鉄格子内部に外から銃砲、散弾でも撃てば圧倒的な優位のまま皆殺しに出来る。そして此方に、内側から鉄格子を開ける手段は無い。勿論、近くには圧力式の警報装置。


 幾ら回避出来た事態とは言え、その状況を想像すると雨で冷えた身体が更に冷えた気がした。


 ランバージャックの石突きで削ぎ落とす様にしてユーリが錠前を叩き壊し、鉄格子を錆び付いた音と共に開く。


「行こう」


「ここが完全に塞がっていたらどうするつもりだったんだ?」


 余りにも平然と廃棄孔を通ろうとするユーリに、思わずそんな声が出る。


 そんな俺の言葉に、ユーリは振り返りもせずに答えた。


「このまま突き進んで塀を越える。侵入時ならまだしも、この状況なら目立った所で大した違いは無い」


 鼻を鳴らす。まぁ今更言った所で、か。


 そんな俺の事は気にもかけずユーリが迷い無く廃棄孔に飛び込み、微かな反響音と共に音が下方へと落ち込んでいく。


 廃棄孔を顎で指し、頷いたスヴャトラフが廃棄孔に飛び込む間、一応スパンデュールを意識しつつ周りを見渡してから本当に誰も居ない事を確かめつつ、自分も雨で濡れた廃棄孔に脚から飛び込んだ。








 どうやら敷地内、及び邸宅内で警報が鳴り響くのは当然ながら随分な事態らしく、廃棄孔の先の敷地下層にその先の市街地に出る道、そしてその周辺は殆ど憲兵等は見当たらなかった。


 気が逸って足を踏み外したりしない様に自制しながらも、何とか複数階建ての屋根によじ登り、警報が遠くに聞きながらひたすらに距離を取る。


 スチームパイプを足掛かりに跳び、壁に張り付いては直ぐ様身体を引き上げ、かと思えば勢いを付けた跳躍で下方の離れた屋根へと飛び込んで、着地と共に回転する事で衝撃を吸収した。


 雨は未だに止まず、勢いも衰えなかったがそれでも俺達は生きていた。


 上級衛兵と同意義の装甲兵を何人も殺し、最新鋭の自律駆動兵を破壊し、コールリッジを上下に引きちぎって、コールリッジの邸宅のみならず、敷地内から脱出した。


 それでも、生きている。


 パトリックの亡骸をそのまま邸宅内に置いてきた事を忘れた訳では無かったが、こういった場合については予め明言されていた。


 余裕のある場合を除いて、任務中に戦死したレイヴンの遺体は回収せず、任務を優先する事。後に回収可能と判断された場合のみ、レイヴンの遺体は団員によって秘密裏に回収される。言うまでもないが、回収される事は殆ど稀と言って良い。


 任務は遂行したが、犠牲は大きかった。


「おい、何の音だ?」


 少し前を走っていたスヴャトラフが、走りながら不意にそんな声を溢した。


 先導していたユーリが、この雨だと言うのに何の迷いも無く屋根から壁へと跳躍し、壁に張り付いた後もスチームパイプを蹴る様にして、壁を這い上がっていくのが見える。


「何がだ?」


 同じく走りながら、そんな言葉を返す。もう安全だとは思うが、距離を取るに越した事は無い。本格的に休むのは我々の拠点となる崩落地区に辿り着いてからだ。


「鹿車……じゃないか。何か、駆動している様な音がしないか?」


 そんなスヴャトラフの言葉に、走りながらも少し耳を澄ませる。


 雨音と自分の足音が大半の様に思えたが、確かによく耳を澄ませると長い音が聞こえる。何やら長く、伸びた様になっている音が。


 何の音だ?


 俺達が走っている先で、壁を這い登り終えたユーリが屋根の上へと消えるのが見える。


 ユーリには聞こえているだろうか?この妙な長い音が。


 前に向き直ったスヴャトラフの脚が急に速くなり、先程ユーリが跳躍した屋根へとかなりの勢いで走っていく。


 ユーリに追い付いて、この音の事を訊ねるつもりか。確かにユーリにも聞いた方が良いだろうな。


 長い音の認識が、僅かに変わった。


 よく聞くとこの音は長くなっているのではない。何か、音が幾つも連続して鳴っているのだ。


 延々と叩き続けている様な、そんな音だ。


 よく聞くと、では無かった。


 先程より音は近付いてきている。よく聞いたのではない。“よく聞こえる”のだ。


 走りながら、音の正体を考えた。雨音。雨垂れによる連続音。こんな音だろうか。


 足音の様にも聞こえる。足音ではないか、俺達の足音と余りにも違い過ぎる。


 スヴャトラフの言う通り、まるで何かの駆動音みたいだ。


 かなりの勢いを付けていたスヴャトラフが、前方にある屋根から壁に張り付くべく、大きく跳躍した。




 そのスヴャトラフが、空中で赤く弾けた。




 理解が追い付かず駆けていた速度が緩まっていく。


 いや、弾けたのではない。空中で幾つもに引き裂かれたのだ。


 赤い飛沫がスヴャトラフが登ろうとしていた壁に散る。


 少し離れた民家の屋上に佇む、背の高い影から湯気が上がっている事に気付いた。


 息を呑む。


 駆動機構を切り出した様な、奇妙な造形。研いだ刀身の様な細身の体躯と脚部。


 加えて肩から突き出した鋏の様な四本の腕は、雨に濡れて先端から赤いものが滴っていた。


 太い筒が複数飛び出している鳥類を模した様な頭部が、音を立てて此方に向き直る。


 あの時、望遠レンズで見た“もう一人の怪物”。


 説明されるまでもなく、誇示されるまでもなく、湯気を上げている“それ”が何なのかは明白だった。


 機動型の自律駆動兵、通称“アナベル”だ。


 駆動機関の熱で降り頻る雨が蒸発し、脅威が滲み出るかの如く胴体から水蒸気が上がっている。


 先程の、連続して叩き続ける様な音。あれを最初は足音と感じ、その後に駆動音と言う認識に改めたが、今思えばあの音は“足音”で合っていたのだ。


 自律駆動兵が全速力で俺達を追跡している足音。機動型の特徴、鹿車さえ追い抜く敏捷性。そして、30フィート以上跳び上がる跳躍力。


 それが、屋根へと跳んだスヴャトラフを空中で跳び上がり様に八つ裂きにして、切り捨てたのだ。


 心臓の鼓動が、四肢にまで伝わっていく様な気がした。冷たい雨に打たれているにも関わらず、極度の緊張によって身体が熱されていく。


 身軽そうな、子供が柵でも飛び越える様な動きで“アナベル”が民家の屋上から、俺と同じ屋根へと跳び移ってきた。


 アイゼンビークを展開し、右手に握り締める。


 雨が蒸発している音が微かに聞こえてきた。

 “ゴーレムバンカー”は残り一発。こいつで仕留め切れるか?少なくとも機動力を削ぎ落とす所までは行かないと、間違いなくレイヴンの移動術程度では逃げきれない。


 何処まで戦える?スヴャトラフは空中で抵抗出来なかった事を差し引いても、殆ど一撃で幾つもの塊に引き裂かれた。


 刹那。


 音も無く、眼前にアナベルが迫る。


 辛うじて“突き”だと理解した途端、反射的に身体がアイゼンビークで突きをいなした。熟練者の本腰を入れた突きの如く、その刃は重い。


 現に、突きをいなした側の自分がむしろ身体を押し退けられる形でよろめく。


 火花が出そうな程の突きが直ぐ様引かれ、別の腕がまたもや矢の様に突きを放ってくる。


 息つく暇も無く、辛うじてかわすもそのまま別の腕が放った突きが、脇腹の防護服を切り裂く。


 顔を歪める暇も無く、更に横凪ぎに振るわれた腕を後ろにステップを踏む様にして後退してかわす。


 神経が極限まで研ぎ澄まされ、吸い込んだ酸素が体内で業火の如く燃えていく。


 数秒も無い時間の内に、直ぐ様理解する。


 こいつには呼吸も緩急も無い。ただ、木材を加工する工業機械の様に、突きや振りが重く速い。


 アイゼンビークが削れるのでは無いか、と思う程の突きを殆ど押し退けられる様にして防ぐ。


 だが、別の腕の振り込みが大腿の防護を刃先で切り裂く。浅いが、感じる熱からして革を平然と貫通して肉まで裂いたのは間違いない。


 相手は腕が四本もあるのだ、こうやってひたすら振り回しているだけでも俺がシチューの具になってしまうのは時間の問題と言える。


 呼吸も緩急も、加えて体力も酸素も限りがあり、腕も二本しか無い俺が、このまま受け続けられる訳が無いのは明白だ。


 酸素が尽きそうなのは分かっているが、深く息を吸う暇が無い。


 腕の一本を辛うじて防いでも、もう一本が殆ど同時に振るわれ、まるで隙が無い。


 しかもその一本一本が防護服など紙の様に裂いてしまう、まともに喰らえば手足の一本ぐらい簡単に切り飛ばされるだろう。


 酸素が足りない。


 そう思った瞬間、真横に振るわれた相手の刀身を、殆ど真正面から受けようとしていた事に気付いた。


 あの威力をまともに受けられる訳が無い。そう気付いた瞬間、右手からもぎ取られる様にアイゼンビークが弾け飛んで行き、胸に熱い線が引かれる。


 武器を失い、反射的に身体を屈めて後方に転がって距離を取った。


 レイヴンフードを刃先が掠めたのが、今更になって伝わってくる。


 離れた所に金属が転がる音が聞こえた。おそらくはアイゼンビークだろう。


 只でさえずぶ濡れなのに雨ざらしの屋根を転がったせいで、雨が傷口に染み込んでいく様な気がする。いや、気のせいだ。気にしている場合では無い。


 アナベルの頭部から音がする。アナベルの中に組み込まれている有機性階差機関とやらは、この状況を何れ程理解しているだろう。


 目の前の獲物が傷だらけで後退し、武器すら取り落としたこの状況を。


 アナベルが威嚇する様に肩を張り、四本の腕を槍や銃口の様に構える。聞き間違いではなく、錆びた警笛の様な低い音も鳴っていた。


 左手のグローブワイヤーを操作して飛び出したラスティを、逆手に掴み取る。


 背負っていたゴーレムバンカーも右手に通す。防御には向かないが、どの道只の右手では切り落とされるだけだ。


 アナベルの頭部から、硬い音がする。


 俺が容易く仕留められる事を、理解しているのか。それとも今理解したのか。


 脇腹、大腿に加え、胸元に裂かれた一線の様な傷が脈動する。




 雨の音がしていた。


 金属音。


 素早く息を吸う。受け止められない。


 いなせるか。無理だ。


 違う。アナベルの音では無い。



 手榴弾?




 目の前に飛び込んできた金属筒が屋根で金属音と共に跳ね上がり、“それ”がフォグベアーだと気付いた瞬間、混ざりあった薬液から煙幕が噴出した。


 金属を削る様な甲高い音と共にアナベルがよろめく。


 四本もの刀身が無意味に振られる。動揺している。アナベルが、この煙に動揺している。


 濃くなっていく煙幕の中、アナベルの胴体に黒い何かが素早く飛び付き、絡み付いた。


 肩の根本を抑える様にして、腕を阻害している。機構に金属の斧を噛ませている。


 ユーリ。あれは、あれはユーリだ。


「やれ!!!!!」


 ユーリがきつい訛りと共に大声で吼える。


 思うより先に脚が駆け出す。大腿の傷が熱くなった後、痛みが遠くなる。


 アナベルが上半身と肩を大きく振る様にして、ユーリを後方に振り飛ばしたのが見えた。


 遠く、高く放り投げられたユーリが鈍い音と共に屋根に叩き付けられ、転がっていく。


 硬く、素早い音を立ててアナベルの頭部が真後ろに向き直った。


 大腿の傷から脚が弾ける、下らない想像が頭をよぎる中、それでも全速力でアナベルへ間合いを詰めていく。


 またも、硬く素早い音。アナベルが真正面に再び向き直る。


 真正面からの、一直線に心臓を狙う突き。ゴーレムバンカーの筒を滑らせる様にしてかわしつつ、前に出る。


 ほぼ同時に放たれたもう一本の突きが、左手のラスティを押し退けんばかりの勢いで突き抜けていく。左手のラスティで突きをいなせたのは完全な、偶然だった。


 二本の刀身、鋏の間に挟まる様にして、胴体にまで一気に踏み込む。


 右肩からの一本をゴーレムバンカーを滑らせる様にして防ぎ、左肩からの一本を偶然にもラスティで防ぐ。


 ゴーレムバンカーの、筒先がアナベルの胴体に触れた。グリップに備え付けられたレバーを、殆ど無意識に引き絞った。


 アナベルの肩から、更なる二本が肉食昆虫の様に振り下ろされる。





 轟音。





 俺の首を突き刺す、もしくは跳ね飛ばす筈だったアナベルの刀身は、肩の防護服に食い込んだ辺りで空気が抜けたかの様に圧力を失った。


 繊維が引っ掛かっていたらしく、糸の切れる様な音と共に鋸を引いた様な痕を黒革の表面に残し、ゆっくりとアナベルが後ずさる。


 突出した杭を引き抜くと少しして、縄が絡まった様なもたついた動きで他所へと歩きだし、重そうに腕を振った後にアナベルは転んだ。


 転んだ勢いで少し滑り、そのまま屋根の端から縄がほどける様に屋根の下へと消えていった。姿こそ見えないが、工業機械が粉砕された様な音が路面の方から聞こえてくる。


 膝を着いた。


 肺に、酸素が足りなかった。濡れて重くなった縄を身体に巻き付けたかの様に身体が動かない。


 幾ら息を吸っても酸素が足りない様な気がする。


 雨の音を聞きながら、どれほどそうしていただろう。


「立てるか?」


 いつの間にか傍に来ていたユーリが、そんな言葉を投げてくる。


 差し出された手を掴む。思い出した様に身体の節々、そして傷が疼き始め顔をしかめた。


 引き上げられる様にして立ち上がり、もう一度深く息を吸う。先程よりは、肺に深く酸素が入る様になっていた。


「“あれ”がどうなったかだけ、確認してくれ」


 子供の様な言い方だったがユーリには充分伝わったらしく、ランバージャックを握ったままユーリが屋根の端へと小走りに移動する。


 もう一度息を肺から吐き尽くし、再び音を立てる様にして肺の底まで空気を引き入れる。


 小さく息を吐く。良し。


「死んでる」


 意図的だろうか、随分と訛りの抑えた声でユーリが此方に伝えてくる。


「動けるか?」


 覗き込む様にユーリが少し屈んでそう問い掛けてくるが、何とか心肺と呼吸は回復していた。


 少し四肢を動かしてみる。屋根を踏み締める。よし。


「あぁ、行こう」


 レイヴンマスクで表情こそ分からなかったが、それでも心配そうな素振りを見せた後に、ユーリが再び屋根へと走り出したのを見届けてもう一度息を吸い、吐いた。


 これで、“自律駆動兵さえあればレイヴンなど相手にならない”と豪語していた連中は、大きく認識を改める事になるだろう。


 加えてこの様な結果になってしまっては、今から自律駆動兵の開発に投資してもらうのは相当難しい筈だ。


 結果、自律駆動兵の改良及び普及は、大きく遅延する事になる。本当は完全に頓挫させるのが理想だが、そこまで上手く行くとは思わない方が良いだろうな。


 何にせよ、目標は達成だ。だが、言うまでもなく犠牲は大きかった。パトリックとスヴャトラフは優秀なレイヴンだったにも関わらず、文字通り自律駆動兵の前に倒れる事となった。


 遺体はきっと回収されないだろう。葬儀がどうなるにしろ、やるとしても空の棺で葬儀をするのは間違いない。


 帝国軍の時から、仲間の葬儀と言うのは当然ながら気分の良いものではない。棺さえ空なら尚更だ。


 レイヴンマスクの下で沈んだ顔をしているとこんな雨の中にも関わらず、カラスの鳴き声が聞こえ顔を上げる。


 こんな雨でも、どうやらカラスにはお構い無しらしい。


 考えてみれば正に俺達も、雨の中邸宅に飛び込んで散々掻き回して飛び出してきたのだから、同類か。


 少しずつ走り始めながら、カラスから左手の痣へと意識が移る。


 グレゴリー相手に、再び不気味な眼の無いカラスを呼び出したあの時。


 あの時、俺は恐らく足を踏み外しただけでなく、更に深い淀みの中へと足を踏み入れてしまったのだ。


 暗い深みに向かって、ゆっくりと沈んでいく様な感覚はまだ覚えている。


 自身の何かが黒く染まり、濁った水が戻らない様に殊更深く暗く、淀んでいくあの感覚。


 おぞましい、触れてはならない力に腕を浸して沈めている様な、訳も分からない過失。


 無理に頭を振った。考えても仕方無い、生きて帰ってから、また悩むとしよう。


 そう思いながら、一層冷たく感じる雨の中勢いを付けて屋根から跳ぶ。







 そんな黒い“何か”に賛同する様にも、警告する様にも聞こえる声で、カラスが鳴いていた。

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