第56話

 アームに跳ね上げられる回数も随分と減ってきた。





 話の種にやってみたウィスパー操縦訓練だったが、今や最早其処らの操縦主志望の訓練生と変わらない程に操縦訓練を受けている。


 操縦失敗、要するに墜落する様な操作をしてしまった時の、内臓ごと絞り出されそうな勢いでベルトに吊り上げられる感覚は未だに肝が冷えるのが本音だが。


 大体の科目は修業し、後は離着陸の課題が殆どになる。俺はウィスパーの操縦士になりに来たんじゃないんだがな。


 こう、あんな風に飛べたら爽快だろうな、とは確かに思った。操縦訓練をさせてもらえると聞いた時に内心上機嫌になったのも認める。


 しかし、幾らなんでも操縦どころか上昇下降にギアチェンジ、とうとう離着陸の正式手順までやるのは明らかにやり過ぎだろう。


 クルーガーも何故だかやたらと熱が入っているのもまた断りづらい、こんな状況でも友人として温かく接してくれるのなら尚更だ。


 しかし考えてみれば、浄化戦争中の報告に依れば黒羽の団の戦闘員はこのウィスパーに乗りながら撹乱を行ったり、偵察等を行っていたと聞く。


 対抗策が撃墜しか無い為に鹵獲出来ず、帝国軍でさえウィスパーの構造や理論は解析出来なかった。何せ、空の中に鳥や空魚の様に現れるのだ。


 撃墜した所で機体は空の中へ落ちていく、網でもかけない限り機体を確保するなんて不可能だ。


 こんな難解なウィスパー操縦主と一流の戦闘工作員レイヴンを両立させようなんて、流石に無茶苦茶なんじゃないか?いや、勿論実際にウィスパー操縦士になろうなんて気は無いが。


 ウィスパー操縦訓練を何とか切り上げ、漸く心休まる茶会になった時にそんな疑問をクルーガーにぶつけてみた。


 しかし、そんな俺の質問にクルーガーはむしろ楽しそうに笑う。


 「無茶苦茶なのは確かに認めますが、前例が無い訳ではありませんよ。そうですね、こう言っては何ですが………整備員が敵の首を切り落とす様に、騎士が航空機を整備する、とでも言えば良いですかね。いえ、余り上手い例えではありませんね………」


 クルーガーが言う通り余り上手い言い方じゃないが、言いたい事は分かる。確かに整備員が戦地に赴いては行けない理由が無い様に、戦士が整備員になっても良い訳か。


 だがそれにしたって、レイヴンとウィスパー操縦主は随分と極端な例だと思うが。


 「待て、前例が無いって事は居るのか?レイヴンのウィスパー操縦主が」


 「えぇ、はい。戦時の工作活動も経験している歴戦のウィスパー乗りに負けず劣らずの、アメジカの様にウィスパーを乗りこなすレイヴンがいらっしゃいますよ」


 顔が苦くなる。何というか、そりゃあ居るのかも知れないが、本当に居るのか。


 「何というか、世界は広いな」


 そう呟く俺にクルーガーが尚更笑う。


 「よりによって貴方が言いますか?浄化戦争で英雄になり、その後は黒羽の団に入りレイヴンになり、更にはレガリスで前代未聞の黒魔術事件を起こした貴方が。今更ウィスパー操縦なんて可愛いものでしょう」


 「この野郎」


 二人して笑い合う。何気ないこんな会話に、どれだけ救われる事か。


 紅茶を飲みながら、気の置けない冗談を言い合う仲間が居るだけで、随分と気の休まる思いだ。


 「クルーガーさん、例の携帯注射器、今の所問題無さそうです」


 不意にそんな声が聞こえ、振り向くとクリップボードに書類を持った男性が此方に歩み寄ってくる。


 技術開発班の班員の様だ。意気揚々と呼び掛けては来たが、どうやら俺とクルーガーが茶会の最中だった事に気付いたらしく、小声で謝って足早に身を引いてしまった。


 大して気にしていない様子で笑いながら、クルーガーが紅茶に手を付ける。


 「注射器?」


 俺が溢したそんな言葉に、口角を上げたクルーガーが紅茶を置いた。


 ああ、この顔は知っている。自分の開発した装備について語る時のゼレーニナと同じ顔だ。


 「テリアカの皮下注射器を、レイヴンの携帯装備に組み込めないかと思いまして」


 「テリアカを?」


 テリアカというと解毒剤か。値段を除けば確かにあって困らない薬だ、毒物を摂取してしまったり中毒症状が出たりすれば取り敢えずテリアカを服用・接種すれば何とかなるとまで言われる程の薬なのだから。


 馬鹿の一つ覚えみたいに使える上に、現に一つ覚えで本当に多くの急性中毒を治療出来る。しかし「テリアカを発明する前の人類は、もっと真摯に薬学に向き合っていた」とある学者は語ったそうだ。


 それに、現に馬鹿の一つ覚えで何とかなる万能薬テリアカにも未だ難点はある。


 “毒物の何もかも”に対応した結果、無視できない程の負荷が肉体にかかるので子供や身体の弱い成人には、体力的に難しい事があるからだ。


 その際は、患者に対応した“本来の療法”を施すそうだが、その辺りが軽視される様になったのは非常時でも無いのに万能薬に頼る様になった弊害だと、個人的には思う。


 確かに戦場で中毒症状を起こしたり、予断を許さない状況にはこれ以上無い程の強い味方ではあるだろうが。


 だが外科的医療品ならまだしも、レイヴンの任務中に解毒剤が必要になる事はそうそう無いのではないか?


 「………レイヴンの任務に解毒剤って必要なのか?」


 そんな俺の問いにも、クルーガーはにこやかな顔のまま答える。


 「確かに毎回使う事はまず無いでしょう。恐らく、殆どのレイヴンが存在を忘れかける程には使わない筈です」


 そこまで分かっていて、それでも組み込むつもりなのか。どうやら俺の顔でそれを察したらしく、クルーガーが続ける。


 「医療品というのは医者でも無い限り、毎日扱う事はまず無いでしょう。ですが、非常時にこそ、普段から備えているかどうかが重要になってくるのです」


 ああ、成る程。


 「“予防は治療に勝る”か」


 「その通りです」


 クルーガーが口角を上げたまま、上機嫌そうに続ける。あぁ、この勢いと笑顔は覚えがある。


 「勿論、普段から邪魔になる様な物を作るつもりはありません。非常時の装備として、小型軽量を心掛けた装備にしますとも」


 「頼むぞ。レイヴンに取って重量物は命取りだからな」


 任せろ、と言わんばかりにクルーガーが笑みを見せながら、満足そうに紅茶に手を付ける。


 テリアカ、か。携帯装備として組み込んでおけば、確かに非常時には役に立つかも知れない。


 ………………最も、俺には“アレ”がある。今後、テリアカの世話になる事は生涯通して絶対に無いのだが。







 クルーガーは上手く抑えている様だが、とても興奮しているのは間違いなかった。


 少なくとも、あんなにも眼が輝いていてはどれだけ隠していても台無しだ。


 新聞記者の様にクリップボードを手にしたクルーガーが、最早待ちきれない様に手の中のペンを握り締めている。


 「………あー、じゃあ、行くぞ」


 「はい!!」


 技術開発班から少し離れた広場。人払いをかけた人気も疎らな広場で、俺達二人は黒魔術の実験をする事になった。


 まさか、あんなに熱烈に黒魔術の実演を求められるとは思わなかったが、クルーガー曰く「ミスターブロウズも、自身の能力に対する認識を深めるに越した事は無いでしょう?」との事だった。

まぁ、明らかに目的と手段が入れ替わってるのは言うまでも無いが。


 あの地下牢で“次にこの不可解な痣の力を使った時には、俺は訳も分からず八つ裂きになるかも知れない”と思った事もあったが………考えてみれば、どのみち力を使わなければならない時は必ず来る。


 俺が今生かされているのはこの痣の力のお陰でもあるのだから、目に見える様な重い代償も未だ無いとなれば今後の作戦に組み込まれる事を考えても、使う練習ぐらいはしておいて損は無いだろう。


 この瞬間に痣の力で八つ裂きになったとすれば、最早それまでだ。それならそれで、どうせ近い内に死ぬのは間違いない。


 いきなり俺が死んだ処で、本格的に困るのはこの世界で俺だけだ。


 左手の痣を見つめながら、深く息を吐いた。眼を強く閉じながら、左手を握り締める。


 左手の痣が熱を持ち始めるにつれ、神霊ウルグスと呼ばれていたあの不気味な梟が脳裏にちらつく。


 ………あの時、俺はこの痣を得る代わりに何を失ったのだろうか。そんな事を考えながら眼を見開く。


 眼を見開いた先には、あの濃淡で塗り分けられた蒼い世界が広がっていた。不鮮明ならまだしも、普段に勝るとも劣らない鮮明さなのがまた不気味だ。視えるのは良いが、今俺の眼には何が視えているんだ?


 それに加えて薄氷を踏む様な、棺の中を覗き込んでいる様な冷たい不安が、静かに纏わり付いてくる。


 ふと、我に返った。


 そうだ、実験だったな。クルーガーにも説明しなければ。


 「あぁ、今、俺が話していたあの青い濃淡だけで見える状態に」


 「ミスターブロウズ!!」


 クルーガーの方に振り返った途端に、説明の途中を遮る形でクルーガーが叫んだ。


 余りにも、感動した表情で。


 「どうした?」


 「眼が!!」


 「眼?」


 蒼の濃淡で塗り分けられたクルーガーが、感極まった様に叫んでいる。


 「眼が、真っ青に!真っ青になっています!!」


 駆け寄ってきたクルーガーが、俺の眼を覗き込む様にしながら、俺の眼とクリップボードを交互に見ながらペンを走らせている。


 「眼?」


 気圧されながらもそう返すと、クルーガーが我に返ったらしく咳払いをする。


 「あぁすいません………えっと、はい、蒼白いというか……兎に角眼が、瞳孔が、塗り潰した様なその、彩度の高い蒼色とでも言えば良いでしょうか、そんな色合いになってまして」


 蒼の濃淡で描かれたクルーガーが、俺の顔を掴まんばかりに覗き込みながら尚言う。


 そうか、当然ながらこの黒魔術を行使している時、自身の眼球がどうかなんて見た事は無かったな。鏡を見る様な状況でも無かったし。


 普段の俺の眼は黒目の筈だが、どうやら今はクルーガー曰く相当彩度の高い青色になっているらしい。


 周りに指摘されたのは今回が初めてだから、普段は黒目に戻っているのだろうが。


 「………ミスターブロウズ、その、手の方はどうです?代償の熱量は?」


 クルーガーが落ち着きながらも所々熱くなった口調で言う。


 “代償”という言葉を、クルーガーはかなり気に入っているらしい。何故かは分からないが。


 「今の所は、暖かいぐらいだな」


 左手の甲はまだ、暖炉に暖められている程度の熱しか感じない。


 そんな俺の言葉に、またもクルーガーがペンを走らせる。


 「眼と視覚による黒魔術は代償の排熱が軽度、という事ですね」


 「まだ統計的に、この“眼”の魔術を使った時に激しい熱を感じた事はない、というだけだがな」


 今の所、数える程にしかこの力を使った事は無い。解析、研究しようにも余りにも数が少なすぎる。


 使用した時には問題が無かったからこれからも問題ない、とは言いきれないのが現状だ。


 まぁクルーガーの言う通り、この左手の熱を“代償”と仮定して、温度の上昇の差異を代償の差異と同一と仮定するならば、まだこの“眼”の力は軽度な黒魔術という事になる。


 左手の熱も、あの庭園の時の様に、焼き焦がされる様な激しさは無い。


 ………問題は、次に行使する黒魔術か。


 あの庭園で俺を銃砲隊の銃弾から救った魔術。弾け飛ぶ様な、打ち出される様な高速移動。あの黒魔術を試すとしよう。


 静かに、深呼吸する。流石に今度は、左手の痣を暖められる程度では済まないだろう。


 クルーガーもどうやら俺が次に何をするつもりなのか察したらしく、再び距離を取りクリップボードを手にする。


 蒼白い世界で、大気の中を煙の様に揺蕩う“何か”を静かに手に捉え、ゆっくりと握り締めた。


 「あー、行くぞ」


 「はい」


 口調こそ何とか穏やかにしているものの、クルーガーが興奮しているのが口調から伝わってくる。眼の時の様に、駆け寄ったり叫んだりしない様に努めているのだろう。


 クルーガーが今か今かと見つめる中、少しの間の後に手に握った“それ”を、覚悟と共に手繰り寄せる。


 身体を打ち出されたとも、身体を打ち出したとも言える感覚。


 周囲の風景が後ろに流され、足から地面が消える。


 前回の経験から地面に触れ次第、勢いに逆らわずに転がるつもりだったが予想以上に身体はこの力に馴染んでいるらしく、転がるまでもなく容易に立ち止まった。


 前回の庭園の時に決死の思いで行使した時に比べると、半分程しかない20フィート程の距離を移動しただけらしい。


 やはり、意思の強弱に関係して移動距離が前後する様だ。息を吐きつつ、火で炙られた様に熱い左手を眺める。


 蒼の濃淡で塗り分けた世界で、俺の左手の痣は眩い程に光っていた。大気の様な“何か”を湯気の様に漂わせながら。


 あぁクソ、やはり熱いな。


 両目を強く閉じながら、熱い左手を握り締める。そして、強く念じた後に両目を見開く。


 目の前の世界は、蒼白い世界から色鮮やかな世界に戻っていた。


 長く、息を吐く。


 棺を覗き込むというよりは、故人の棺を抉じ開ける様な冷たい不安が背骨を締め付けていく。


 正直に言って、クルーガーのこの実験に付き合った事を少し後悔し始めていた。


 今日、任務中でも無い日常の中で黒魔術を行使して、実感する。


 これは、軽はずみに使う様なものでは無い。


 無根拠のまま、理屈も付けられないまま、それでも確信染みた想いが過る。


 …………幾らクルーガーと言えど、これ以上の実験は断らせてもらおう。


 「クルーガー」


 左手を振りながらクルーガーに呼び掛ける。振っても大して冷めないな、この熱は。俺が誤認しているだけで、物理的な熱では無いのかも知れない。


 「クルーガー?」


 返事が無いのでクルーガーの方面に振り返ると、20フィートと少し離れた先でクルーガーはクリップボード片手に、蒸気機関で駆動しているかの様にペンを走らせていた。


 「ミスターブロウズ、今のが庭園で見せた、件の、黒魔術の、高速移動ですか?」


 顔を上げた途端、出た言葉がこれだ。先程の眼の時を考えると、いきなり叫んで走って俺を揺さぶらないだけ、良しとしてやろう。


 「あぁ」


 そう返すと顔を再び下げ、クリップボードにペンを走らせながらも器用に歩いてくるクルーガー。


 転ばないと良いのだが。


 「ミスターブロウズ、今のは高速移動という呼称は些か不適切かも知れませんよ」


 「どういう事だ?」


 ペンを走らせる音の合間に放ったそんなクルーガーの言葉に、取り敢えず言葉を返す。


 「ミスターブロウズの話では、周りの風景が背後に流れる程の高速移動、との事でしたが」


 走らせていたペンが、一際大きく線を引いて締め括られた。結論が出たらしい。


 「今、黒魔術を行使した瞬間のミスターブロウズはそうですね………塗り潰された、と言えば良いでしょうか。少なくとも私からはそう見えました」


 「何、塗り潰された?俺が……居なくなったって事か?」


 どういう事だ?俺は高速移動じゃなく、消えたのか?居なくなったというのか?


 そんな俺の疑問を宥めるかの様に、クルーガーが教師の様な動きでペンを立てた。


 「順を追って説明しましょう。先程、ミスターブロウズが黒魔術を行使したのがあの辺り」


 そのまま、クルーガーが立てていたペンで俺の元々居た位置を指し示す。


 「あの辺りから、今のこの位置に、直線的に移動した。そうですね?」


 「……あぁ」


 俺の気の無い返事に、納得した様にクルーガーが頷く。どうやらクルーガーの中では仮説に筋が通っているらしい。


 「良いですかミスターブロウズ。貴方としては今、黒魔術によって高速で移動したという感覚だったのでしょう。ですが第三者の視点から見ると、貴方は黒魔術を行使した時点でそう、風景画でキャンバスを塗り潰す様に、貴方は“風景に塗り潰された様に”消えてしまったのです。ここまでは?」


 「………良くないが、まぁ続けてくれ」


 黒羽の団に入って学んだ事の一つは、喋りたがる奴は落ち着くまで喋らせる事だ。


 それに、第三者から見て黒魔術がどう見えているのかは俺自身も非常に興味がある。


 「結構。そして、塗り潰された瞬間、殆ど同時かとても早い間隔で貴方は今の場所に、同じく現れた。個人的に例えるなら“風景画を突き破る様に”と表現しますね」


 そこまで語り切った辺りで、クルーガーが此方に向き直った。俺の意見を聞きたいらしい。


 頭を必死に回転させていく。


 考えて行こう。まずクルーガーが見えた物は説明通りの風景だと考えて良いだろう。後は比喩表現だが、塗り潰した様に、という事は、落書きや傷をペンキで上塗りして消すという意味の筈だ。

風景に呑まれる様に俺が消えてしまった、という認識で良さそうだ。


 そして、クルーガー曰く、俺は“風景画を突き破る様に”現れたという。これも恐らく、風景画を裏から破ったら風景画のど真ん中に俺の手が出てくる様に、風景画に穴を開けた指や手の様に突拍子もなく俺は現れたという事になる。


 頭を掻く。


 つまりクルーガーの言う通りなら、俺は塗り潰された様に消えたかと思えば、20フィート程先にいきなり現れた事になる。


 「………成る程な。俺は高速移動だと思っていたが……どちらかというと、なんだ、消えては現れていた、という事になるのか?」


 「はい。仮説が通じている事が前提となるならば、ミスターブロウズの“それ”は高速移動というよりは、位置転移に近い物になるかと」


 また一気に分からなくなった。位置転移?移動じゃなくてか?転移というなら、俺は移動している間何処に居る事になるんだ?


 「………だが、転移なら俺の勢いが消えない事はどう説明するんだ?俺がただ消えて現れるだけなら、足で踏み留まったり、転がったりする程の勢いは生まれないと思うが」


 そんな俺の言葉に、クルーガーが首を捻った。


 「確かにそうですね………慣性の法則を考えても、転移だけならミスターブロウズに勢いや動力が生まれているのは説明が付きませんし………」


 仮説に不具合が起きたらしく、クルーガーがペンを再びクリップボードに走らせ、何かを呟きながら考え込んでいる。


 熱の引かない痣に、静かに触れた。ウルグスの奇妙な蒼白い目が脳裏を過っていく。


 やはり、言おう。


 「………なぁ、クルーガー」


 「はい?」


 不意に俺が呼び掛けると、意外そうにクルーガーが顔を上げる。


 「……悪いが、この後に予定していたカラスを呼び出す実験は中止にしてくれないか」


 少しの間の後に、クルーガーが真剣な顔で向き直る。クリップボードにペンを走らせる事も無く。


 「感じるんだ。痣の力を使う度に………何というか、夜中に遺体の入った棺を抉じ開けている様な、言い様の無い不安を」


 「不安、ですか」


 「余りにも心情的なのは分かってる。だがきっと、この力は………淀んだ、歪んだ力なんだ。蒸気機関みたいに、便利だからと軽々しく使い続けて良い様な力じゃない」


 クリップボードを脇に抱え、真剣な表情で顎に手をやったクルーガーが考え込む。


 そんなクルーガーの眼を見ながら、言葉を繋げていく。


 「分かってくれ。あの庭園で、恐らく俺は何かが歪んでしまった……感じるんだ、歪みも淀みも気にせずにこの力を使い続ければ、きっと俺は………自分が歪んでいる事すら分からなくなる」


 暫く、何も言えない重い沈黙が流れた。


 喉が張り付く様な静寂の後、何かを決心した様にクルーガーがクリップボードにラインを引いた。音と勢いからして、どうやら項目の一つに斜線を引いたらしい。


 何の項目かは言うまでも無い。


 「感謝するよ」


 「ミスターブロウズの厚意でさせてもらっている実験です。貴方の気が進まないなら、続けられる理由なんてありませんからね」


 そう言って気まずさを誤魔化す様にクルーガーが笑う。


 何というか、普段気遣って貰う事が少ない立場なだけに随分と暖かい気持ちになる。しかも、此方はついさっきクルーガーの実験を中止させたばかりだというのに。


 「知った事か、なんて言われたらどうしようかと」


 「簡単ですよ。貴方もそう言えば良いのです」


 そんな返しに笑みを漏らすとクルーガーも再び笑みを溢し、クリップボードに幾つか書き込んでいく。


 どうやら実験は中止したものの、俺が先程行使した黒魔術の結果を更に研究するらしい。まぁ、考えてみれば貴重な資料には違いないか。


 研究者の前で黒魔術を行った記録など、それこそあのゼレーニナでさえ持っていない筈だ。


 「数少ない実験結果が、少しは期待に沿えてると良いんだが」


 「勿論沿えていますとも。暫くはこの結果とミスターブロウズの所見を踏まえて、発生した物理現象や法則性を考察してみます」


 ゼレーニナが宗教や歴史からこの痣の力を考察していくのとは別に、クルーガーはどうやら物理科学や力学法則からこの力を考察していくらしい。


 まさかこの自分が、科学者二人から研究対象にされる事になるなんて夢にも思わなかった。


 いや、考えてみれば最近“夢にも思わなかった”事なんて数えきれない程起きているか。


 まず、帝国軍から命を狙われた事。黒羽の団に勧誘された事。レイヴンになった事。ウルグスに目を付けられた事。奇妙な痣を焼き付けられた事。黒魔術により、命を救われた事。黒魔術により、処刑されかけた事。レガリスでは俺は悪魔の遣いとされている事。科学者二人から、黒魔術について研究される事。







 「人気者は辛いな、全く」


 我ながら、随分な皮肉だった。

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