第40話
一度で良いから酒に囲まれてみたいと言ったのは何時だったか。
クラウドラインや線路列車が発達した現代では、以前ほどの騎乗用のシカ、つまりアメジカの需要は無くなってきているのは事実だ。
だが、クラウドラインや線路列車と違い、アメジカは路面、即ち地面さえあれば走る事が出来る。
線路から外れる時や、クラウドラインが通っていない地区への運搬、単なる移動の際にも今でもアメジカは頻繁に活用されている。比べて安価なのもまた利点なのだろう。こういう文化は、根強く残るものだ。歯車のシカでも発明されない限りは。
そんなアメジカが複数で牽引する、ワインの樽が満載の貨物コンテナの中に、俺は居た。
ディロジウム駆動列車からこの長旅は始まり、代わり映えしない景色を眺めながら随分と長い事揺られ、一度、列車からクレーンでアメジカが牽引する鹿車(カシャ)に移載される際に一際大きく揺られたかと思えば、再び鹿車により路面を揺られている。
飲めもしない酒樽ばかりを眺めるのも、直ぐに飽きてしまった。任務で無ければ直ぐにでも外に出たいのが正直な感想だった。
堪え性が無いと言われたらそれまでだが、この状況でいつまでも酒樽だけの風景に飽きない奴は普段何を見ているのか聞いてみたいものだ。
今回の作戦は前回の作戦とは違い、任務の形式としては電撃作戦に近いものになる。
修道院の連中が代々受け継いできたワイン生産事業は近年益々勢いに乗り、貴族達にオークションにかけられる程の高級ワインさえ生産される様になった。
そして、ディオニシオ程の稀代の大富豪となれば、商業を通す事無く原産の修道院から樽で持ってこさせる事が出来ると言う訳だ。勿論、正式に販売すれば眼を疑う程の額が動くのは言うまでもない。そして、勿論今回の様に販売前のワイン樽を搬入するなど本来は許されない事も。
その修道院の後ろ暗い連中を利用し、今回はパーティ会場となる庭園の中心近くまで一気に侵入する。そのまま、資料によると中心に位置する主催者席まで接近し、討ち取る。
警備は勿論居るだろうが、外部からの侵入者に人員の多くを割いている筈だから、至近距離から目標事態の警護はそこまで厳重ではない。それでも、多人数を相手にはするだろうが。それに、向こうが侵入者に気付けば直ぐ様内部に人員も集中してくるだろう。
今回の作戦においては、むしろ暗殺自体より脱出の方が難問だ。ディオニシオを殺害した後にパーティ会場から脱出しなければならないが、正門はディオニシオの席からは大回りになる。その間、どれだけの敵と戦うかも分からない。また、今回の庭園は元々自然地区として土壌が敷設されている為に、地下水道等を使うルートも使えない。
よって、主催者席から比較的近い裏門から脱出する事になるが、それはそれで問題がある。
裏門自体が蒸気駆動で開閉する巨大な門として設計されている為、専用の操作で蒸気圧を送り込まねば開く事は無い。その上、滅多に開かず装飾品の意味合いを兼ねている為に実用性が低く、操作から開くまで無視できない時間がかかる。
その為今回はその裏門を、此方の息のかかった連中を使い予め開いておく手筈になっている。そこから脱出するのが最善だがそれでも勿論敵は少なくない、決して容易とは言えないだろう。
何度も繰り返したが、再び頭の中で地図を開き頭の中で風景を描く。勿論、細かい人数や事態までは分からないが、それでも考えられる事態を全て当て嵌めて考える。
装備、人数、考えたくない事態の発生、トラブル。
どうしても“裏門が開いていなかったら”という想定が頭から離れない。そうなった場合、正門から脱出する他無い。
貴族の例に漏れず、ディオニシオの庭園も人の背を遥かに越える垣根が門以外を囲んでしまっている。手掛かりは無く移動術も使えない、ある意味最高のレイヴン避けだ。
無理矢理突き抜ける事も出来るかも知れないが、余りに隙が大きすぎるし、抜けられる保証も無い。垣根に頭を突っ込んでいる所を撃たれる可能性も十分にある。
しかし、正門から脱出するには余りにも…………
そんな思考に鈍いノックの音が割り込んできた。いつの間にか下がっていた顔を上げる。
ディオニシオの庭園に入る合図だ。いよいよ作戦が始まる。今回は、その場の判断で任務の成功、失敗、生還も戦死も全てが決まる。刹那の判断に全てを掛ける事になる。
今一度、装備を確かめた。
腰からリッパーを抜き重心を確かめながら、回転させて握り直す。シンプルで使いやすい、前回の任務から考えてもリッパーに不安は無い。
前回と違い、今回の任務では隠密は大して必要では無い。よって隠密に重点を置いたヴァイパーより、今回の予備兵装は“アイゼンビーク”と呼ばれる携帯式の片手用のウォーピックを選んだ。
クルーガーが設計したそのウォーピックはヴァイパーと同じく展開式でありながらも強度は申し分無く、ウォーピック自体がそもそも、生身に対しても鎧に対しても有効打が見込める武器でもある。薄い鎧なら突き破れる上に、ピックの反対側に備えられた鎚頭も小型ながら十分に機能し、厚い鎧に対しても打撃を加えられる。
勿論、お世辞にも隠密には向かないが、その分乱戦になった時や真正面からの戦闘になった際には心強い。
展開したアイゼンビークを回転させ、握り直す。よし、任務の前にも確かめたが感触もやはり悪くない。敵の兵種によってはリッパーより役に立つ筈だ。
アイゼンビークを格納し、仕舞う。今回の任務で問題になるとすれば、全く新しいこの装備だろう…………
革手袋をはめた左手を、特定の操作で動かす。すると手袋に仕込まれたワイヤー操作により、ガントレット内側に取り付けられた装置から素早くダガーの柄が飛び出す。
ワイヤー操作から二秒とかかっていない。そのダガーを逆手に握る。
ラスティ。特注で作らせた、俺専用のフルタングダガーだ。軽量かつ頑強に作られているらしく、刃の煌めきも一般的なダガーとはまるで違う。恐らくは俺の知らない合金が使われているのだろう。
このダガーは俺以外は殆ど使わない、特殊な剣術の為に開発させたものだ。殆どのレイヴン、いや、帝国の戦士の殆どが、同じ装備を渡された所で首を傾げるのが精々だろう。
これからは接近戦が多くなる、それも一対一ではなく多人数を相手にする事が増えていくだろう。多方向から来る攻撃に柔軟に対応しなければならない時もいずれ来るだろう。俺に取っての答えが、この装備だった。
グリップも刃先も刀身も、注文通りだ。受け取った時にも確認したが、やはり手に馴染む。
そして、ワイヤー操作でガントレットにダガーを納める。取り出した時と同じく、二秒とかからずにダガー“ラスティ”はガントレットに収まった。
しかし、そのラスティもガントレット自体からすれば副次的、サブの装備に過ぎない。
ガントレットに取り付けられた、特殊なクロスボウを構える。
スパンデュール。ヘンリックの“グレムリン”が単発なのに対し、此方は再装填無しに四発ものボルトを発射する事が出来る。ゼレーニナの話じゃその上頑強さも精度も威力も此方が上らしいが、何とも言えない。
だが、弾倉に四発も装填出来る上に次弾のボルトを即座に発射出来るのは有り難い。刹那の判断が勝敗を分ける戦場では、手数は大いに越した事は無い。
貨物コンテナの中にも雑踏が聞こえ始めた。いよいよ、本番だ。
ノックの音がした。
一瞬、目的地に付いた音かと思ったが、リズムが違う。今のリズムは“問題発生”だった筈だ。
貨物の酒樽の山に、コンテナ開閉口から影になる様に隠れる。アイゼンビークを展開させ、静かに握り締めた。
「貨物はワインとあるが?」
「はい、注文通りのワインです。ガルバン様からの御注文でして。生憎私は只の運送係なので銘柄はさっぱりですが」
コンテナ越しに会話が聞こえる。
検問は予測出来なかった事態では無いが、普段は殆ど検問など形だけの筈だ。物品リストと運搬者を確認し、通す。それだけの筈だが……
少しして、重い金属音と共にコンテナのロックが外される音が響き、アイゼンビークを握り締めたまま身を強張らせる。
今、コンテナがどんな場所まで来ているのかさえ分からないが、少なくともディオニシオからはまだまだ遠い筈だ。
足音、気配。兵士は一人だ。俺が感じ取れる範囲では、だが。
開閉口が開かれ、コンテナの中に兵士が無遠慮に踏み込むのを感じる。不意を突き、兵士を撲殺する算段を素早く組み立て、息を潜めた。
こいつの頭を割るのは難しくないが、間違いなく騒ぎになる。そうなるとディオニシオまで接近する事自体が難しくなる。
張り詰めた緊張の中、期待外れの様な溜め息の後、コンテナの扉が閉まった。
思わず溜め息をつく。随分と肝が冷えた、此方は只でさえ不安事項が多いというのに、今見つかったりしたら本格的に任務が中止になる所だった。
アイゼンビークを格納し、頭を掻いた。
再び、鹿車が動き始める。次第に、楽しそうな喧騒が微かに耳に入ってくる様になった。今からパーティをぶち壊しにするのかと思うと多少は心苦しく思わない事も無いが、今更と言えばそれまでだ。
コンテナへの、合図を待つ。ただ、ひたすら待つ。
合図が来たら辺りを確認しながらディオニシオに接近する。警護兵が居れば可及的速やかに排除する。隠密より迅速を取る。ディオニシオを殺害したら直ぐに裏門へ移動する。そして、裏門から離脱する。
これ以上は何も無い。そしてこれ以上の最善は無い。
会場内の、ある程度は目立たない場所にコンテナは配置される筈だ。
深く息を吸い、時間をかけて吐く。今回の様な任務は咄嗟の判断が命運を分ける。咄嗟の判断は、精神に左右される。すなわち、精神の乱れが死に直結する。剣を振るだけでも、言ってしまえば足を一歩踏み出すだけでも、精神が澄んでいるか濁っているかが生死を分ける事も珍しくない。
落ち着け。作戦は分かっている。想定は十分にやった。装備の確認もした。これ以上準備出来る事は無い。
レイヴンマスクの下で目を閉じ、精神を統一する。金属コンテナの床に胡座で座り、深い呼吸を繰り返しながら精神を研ぎ澄ませ、任務に精神を集中させていく。
頭の中の靄が少しずつ晴れていく様に澄み渡り、些細な事や任務から関係ない事が頭から抜けていき、穏やかに物事が明瞭に冴えていく。
昔、任務の前によく瞑想した事を頭の片隅で思い出した。考えてみれば、瞑想も随分と久し振りだった。
頭が冴え渡り、心は波一つ無い湖畔の様に穏やかだ。今正に、生きるか死ぬかの作戦に挑もうとしているにも関わらず、だ。
静かに瞼を上げるのと、金属コンテナが“作戦開始”のリズムでノックされるのは殆ど同時だった。
さぁ、人殺しの時間だ。
少しして鹿車の揺れが収まり、重々しい音と共にコンテナ扉のロックが外れ、僅かにコンテナの扉が開く。恐らくは此方で開閉出来る様にとの計らいだろう。
鹿車から騎手が離れるのを気配と音で感じた。リッパーを握り締め、コンテナの扉の合間から辺りを伺う。
ここまで聞こえる豪勢な喧騒の最中、ディオニシオが居ると思われる特等席が雑踏の向こうに見えた。特等席はどうやら会場を見渡せる様に設計されているらしく、会場の中でも数段高く造られている様だ。段を重ねる様式らしく本格的な階段まで据えられている。
どうやら、ここは会場の貨物置場の様な場所らしい。
ディオニシオまでの距離は想像以上に遠い、その上に傍に控える護衛や、辺りを見回している警護兵も想定以上に多い。その上、敵にはならないとは言っても群衆も大勢溢れている。
会場の外に多数を割いていると言っても、やはりそう簡単には行かないか。
貨物コンテナ等や木箱等の物陰も幾つかはあるが、やはりディオニシオ付近は実用的な物陰は少なく、障害物も大して無い。
恐らく、あの中に飛び込むなら徹頭徹尾動き続けなければならないだろう。さも無ければ、剣に裂かれるか、クランクライフルに大穴を開けられる。他の招待客が助けになるか邪魔になるかは分からない。
リッパーを握ったまま息を吸い、近場の警護兵が余所を向いた瞬間を見計らってコンテナから身体を踏み出し、現在地から比較的近い物陰に身を潜める。
出来ればこの調子のまま距離を詰めて行きたいが、勿論そうは行かないだろう。このまま隠密のままディオニシオにまで接近するのは確実に無理だ。
いつか、隠密をかなぐり捨てなければ目標に辿り着く前に此方が殺られてしまう。
そんな中、周りに比べて他の警護兵より遠く警戒も薄い様子で単独で歩いている兵士を見つけた。注意も如何にも散漫で、其処らの道草で用でも足すのでは無いかという風貌だ。恐らくは貨物置場の確認を命じられたのか、それとも怠慢か。
そんな兵士が、偶然なのか不運なのか、のそのそと人気の無い物陰の方に歩いていった。
周りを見渡す。誰もあの不運な兵士を見ていない、奴が少しの間姿を消しても直ぐ様騒ぎ立てはしないだろう。最も、此方もそこまで長く息を潜めている訳では無いが。
物陰から物陰へと移る様にして、その兵士を追う。そして、物陰からスパンデュールの狙いを兵士の後頭部に定めた。
グローブとガントレットに内蔵されたワイヤー操作で、ボルトが打ち出される。想像以上の速度と直進性で、発射されたボルトは兵士の後頭部を風切り音と共に突き破った。後頭部を殴り飛ばされた様な体制で兵士の首が大きく前に折れ、膝を付き、直ぐ様地面に倒れ付す。
すかさずその死体を物陰に引き込み、他の兵の目に映らない様にした。そのまま、その物陰から辺りを探り直ぐに舌打ちした。
警護兵二人が、暇そうに此方に歩いてくるのが見えたからだ。このまま此方に来るのは間違いない、そして貨物コンテナのせいでこの道は一本道。この物陰に気付くのは間違いない、仮にここを離れていたとしても死体には恐らく気付く、死体を抱えたまま気付かれずに消えるのはまず無理だ。その上、奴等の片方は鎧を着込んでいる。
息を吐いた。奴等の片方は簡単に始末出来る、恐らくこのスパンデュールで十分だ。正確な狙いを定める時間は恐らく無い、念の為に胴体に二発ボルトを撃ち込んだ方が確実に殺せるだろう。折角の連発式なのだから、活用するべきだ。
問題はもう一人だ。帝国軍の装甲兵の鎧は、特殊な製法による軽量合金で成形されており防御力は決して侮れない。隙間を突くならまだしも、まともに斬り合うならまず刃は通らないと思って良い。
欠点として、防弾追加装甲が施された胸部や背面等の、重要部以外の部位へのディロジウム銃砲の直撃は流石に防ぎきれない事、軽量合金と言えど無視できない重量がある事、鎧一式につき一般人の年収に匹敵する費用がかかる事から、使用者は限られる事。クランクライフルを装備している者は少ない事、ぐらいか。
そしてそれだけの制限の中において尚、装甲兵として鎧を着ている者は剣術、武術に精通した上級衛兵に限られる。
手元のガントレットを見やる。幾らゼレーニナのスパンデュールと言えど、鎧は突き破れまい。
リッパーを腰に収め、アイゼンビークを片手で腰から取り出してそのまま展開し、握り締める。
あの二人を、この場で素早く仕留める。それ以外に方法は無い。仮にそれが成功したとしても、死体を片付ける程の時間はあまりあるとは思えない。隠密を捨てる頃合いだろう。
のんびり歩く二人の兵士が射程距離に入ったのを機に、直ぐ様物陰から躍り出た。全力全速で距離を詰めながら、スパンデュールからボルトを放つ。
驚愕に染まる二人の兵士の内、鎧を着ていない兵が訳も分からずクランクライフルをまともな構えも出来ずに、銃口を此方に向けた。
その胸に、金属ボルトが突き刺さった。何かを言おうとしていた兵の声はボルトで詰まり、音の混じった溜め息に消えた。
垂れ下がった腕をそれでも懸命に上げ、束の間、数秒間に満たない時間、俺に照準を定めようとした。
もう一本のボルトがそれを妨げる様に、腹を突き破った。クランクライフルを取り落とし、腹を押さえながら兵士が倒れる。
隣の兵士が胸と腹を突き破られ倒れるという事態は、兵士に緊急事態を自覚させるには十分だったらしく、既に装甲兵の方は支給されたであろう、サーベルとは別の、重厚な両刃の剣を抜いていた。
左手の操作により、弾ける様な勢いで手中に逆手になったラスティの柄が飛び出してくる。すかさずそれを逆手に握ると同時に、渾身の振り抜きであろう唸りを上げる剣の切っ先を、ラスティで削るかの如く弾き返し一歩下がる。蝶番で閉じられたフルフェイスの兜越しにも相手の動揺が見て取れた。
こんなダガーで、いや、一瞬の間に俺の手元にダガーが現れた事すら気付かなかっただろう。いきなり素手だと思っていた左手で剣を弾かれたら、まともな兵士なら困惑する筈だ。それも、革の防護服だけで鎧すら着ていないレイヴンがやったとなれば尚更だ。
普通のダガーなら、こうは行かなかっただろう。構造にも依るが、本来ダガーは余り頑丈な物は少ない。フルタングならまだしも、其処らのダガーでまともに此ほどの剣戟を受け止めたりしていたら、破損する事も決して少なくない。
だが、ラスティは戦闘用のフルタングダガーの中でも破格の頑強性を持って設計されている。特殊軽量合金から削り出しで製作されたこのダガーは、片手用のダガーでありながら梃子の様に蝶番を破砕したり、薄い金属板なら突き破る事さえ可能な程の強度を有している。
予想外の防御に相手が体勢を崩した所に、すかさず踏み込む。
餌だった。牽制の様に相手が体勢を建て直しきる前に、無理矢理に剣を振るう。体勢が崩れ狙いも雑な剣など、戦場を駆け回っている剣士にはそれこそ好機でしかない。
身体を振ってその剣をかわし、剣を振った後の隙に踏み込み、アイゼンビークに体重を乗せて比較的装甲の薄い脇腹に叩き付けピックを鎧にめり込ませる。
ピックの全部分とは行かずとも、先端が鎧の脇腹にめり込んで無事な訳が無く、咳の様な呻きが相手から漏れた。
すかさずアイゼンビークで兜の前面部分、つまり顔面部分を直に突き、相手を仰け反らせる。
アイゼンビークの先端部にはピックは付属していないが、例えピックが無いとしても金属製の棒に顔面を突かれて平気な者はそうそう居ないし、兜により殆ど負傷が無いにしろ、この攻撃は打撃よりも隙を作る事が目的だった。
頭部が揺さぶられる事に加えて顔面を打たれる衝撃、その二つから生じる隙に二秒と掛からずラスティをガントレットに戻し、両手でアイゼンビークを振りかぶる。
狙いは今庇ったばかりの頭、では無く、剣を握る腕。更に細かく言えば、剣を握る手。そして、指。
隙を突いた事、狙い済ました甲斐あって、アイゼンビークは真正面からまともに装甲兵の手に命中した。肉を打つ音に枝の折れる様な音が入り交じり、手甲付きの手が捩れ、指の数本が本来曲がらない方向にへし曲がった。
弾かれた剣が地を転がり、重い叫び声をフルフェイスの兜から響かせながら装甲兵が後ずさる。武器を失った相手は、咄嗟に殆どが後ずさる。武器を持った相手には尚更だ。
その後ずさりに合わせる様に踏み込み、再び両手で振りかぶったアイゼンビークを全力で振り下ろす。
製鉄所の様な重い金属音と共に装甲兵の頭が打ち下ろされ、倒れ付すかと思ったがアイゼンビークに妙な手応えがあった。
ピックが兜に突き刺さり、頭蓋骨に引っ掛ける様な形で装甲兵を支えている。角度を変えて果実を潰す様な音と共に引き抜くと、装甲兵は土埃を上げて倒れ付した。絶命は確実だろう。
もう一方の、ボルトに胸と腹を突き破られた兵士に向き直る。横たわった兵士の眼に光は既に見えなかったが、アイゼンビークで頭を叩き割った。
息を吐くと共に、戦闘で何倍にも伸びていた時間が引き戻される。全く、隠密を捨てるつもりでは居たが、こんなにも早く捨てる事になるとは。まだ姿は見つかっていないにしろ、確実に戦闘音と悲鳴は誰かの耳に入ってしまっているだろう。
もう大した隠密は望めない、相手はもう自分の存在に気付き出している。既に、微かに会場の群衆と警護兵達がざわめきだしているのが伝わってくる。
深く息を吸い、鋭く吐いた。分かってはいた事だ。今回の作戦は、御世辞にも“上品”には行かないものだと。
アイゼンビークを格納して腰に納め、リッパーを抜く。スパンデュールの弾倉にボルトを装填する。
さて、行くか。
リッパーを回転させて握り直し一番近場の物影へと走るも、隠密より速度を優先し、留まる事はせずに物影から物影を経由する様に駆けていき、ディオニシオへの距離を縮めていく。
勿論、あれだけの事をして自然に収まる訳が無い。微かだったざわめきは時と共に益々大きくなり、次第に警護兵達の動きも大きくなり始めた。
警護兵達の重いブーツの音が幾重にも重なる。
走りながら、喧騒の中から自分に近付くブーツの音、離れる音を聞き分け、近付く音に意識を集中させた。
接近するブーツの音に、リッパーを握り直す。
駆け足で目前に現れた兵士が猛然と横凪ぎにサーベルを振るうも、左手のラスティでサーベルを防ぐと殆ど同時に、リッパーの切っ先を兵士の胸に突き刺した。
リッパーの形状故に切っ先が背中を突き破らぬまでも、刃を横に寝かせた刀身が肋骨の合間から内臓を貫くのを手応えから感じ取る。恐らくは心臓か肺だろう。
すかさず相手を正面に蹴り飛ばしてリッパーを引き抜き、仰向けに倒れた兵士の顔面を骨の折れる音と共に踏みつけ、再び駆ける。
複数のブーツの音が、急速に近付いてきた。
リッパーを回転させ握り直したが、現れた三人の兵士が全員クランクライフルを構えていると気付いた途端、脚が舵を真横に切り、まるで仕込んでいたバネ仕掛けが弾けたかの様に跳んだ。
バネ仕掛けの脚が蹴った地面が重なる銃声と共に抉れ、そのままの勢いで会場の群衆の中に飛び込む。
ディロジウム銃砲で、招待客の中を駆け回るレイヴンを狙うのは困難な筈だ。
群衆のざわめきが、遂に甲高い悲鳴に変わった。招待客の合間を駆け抜け、ディオニシオの特等席へと真正面から駆ける。
豪勢な料理が山の様に並ぶテーブルの合間を駆け抜け、皿を踏み割ってテーブルを飛び越え、招待客を腕で押し退け、速度を上げながら特等席のディオニシオに急速に接近していく。
駆け抜けていく最中、ディオニシオがまともに此方を見た。驚愕。表情はただその一言に尽きた。その表情が、直ぐ様憤怒の色に塗り替えられる。指を突き付け、喉が裂けんばかりに特等席からディオニシオが吼えた。
「奴を殺せ!!!」
招待客の悲鳴の中、怒号で招待客を押し退けながら警護兵が何人も駆けてくるのを尻目に、特等席へと距離を詰める。
特等席が間近に迫った頃、特等席の警護に当たっていたであろう装甲兵が槍の切っ先を此方に定めた。
ローズスパイクと呼ばれる、帝国の最先端の武器の1つだ。槍でありながら、ディロジウム駆動による赤熱する刃を穂先と重ねる様に備えており、触れようものならまず火傷は免れない。そして赤熱する刃という外見からも、暴徒等に対して非常に威嚇効果の高い武器でもある。
暴徒には尻込みさせる効果があっただろうが、此方はレイヴンだ。只の槍とは言わずとも後ずさる事は有り得ない。しかし、槍のリーチは勿論の事、槍術自体侮って良い物ではない。それに先程の倒した装甲兵と違い、唐突にレイヴンが現れたという奇襲効果も望めない。
だが、此方も立ち止まっている場合ではない。既に背後には兵士達が続々と集まっている、こうしている今も招待客も次々に避難し、その内クランクライフルの狙いも定まる様になるだろう。
元から迅速第一の作戦なのだ、止まる事こそ一番の愚策。今さら赤熱する刃ごときで誰が止まるものか。
全速力のまま、装甲兵の間合いに飛び込む。
迎え撃つ様に赤熱の刃が鋭く突き込まれ、リッパーでそれを弾く、が引き戻された刃が直ぐ様打ち込まれる。
その刃もリッパーで辛うじて弾くも、この装甲兵は卓越した槍兵らしく一瞬の隙すらも与えず、次々に重い突きを放ってきた。
次第に、まるで削り取られる様に此方の脚が下がる。一手押し負けているのは事実だ、勝機を探そうにも此ほどの槍兵がそうそう隙を晒すとも思えない。その上、此方は時間が無い。こうして一秒一秒過ぎる毎に、警備兵が俺の元に駆け付けて来ているのだから。
打ち合いの間合いから一歩引き、間合いを計り直す。ローズスパイクが鋭く俺の胸に構え直された。敵の方が有利なのは間違いない、奴は無理に俺を倒さずとも増援が辿り着くまで持ちこたえるだけで良いのだから。
リッパーを回転させ、握り直す。ガントレットの操作で、弾ける様にラスティが飛び出し、逆手に左手に収まる。息を吸い、吐いた。
一手足りないのなら、一手増やすまでだ。
猛然と、間合いを詰める。直ぐ様、弾丸の様に赤熱の刃が胸を鋭く突くもリッパーがそれを押し退ける。
一歩。
押し退けられた刃が直ぐ様バネ仕掛けの様に引き戻され喉へと放たれるが、リッパーを無理に引き戻さず、ラスティで弾く様に後方に流す。
二歩。
刈るように振るわれる刃をリッパーで弾き、そのまま引き戻しを妨げる様に弾き上げる。
三歩。
身体を中心に突風の様に槍を回転させ、ローズスパイクの刃の対極、石突きが鈍器の様に此方の肋骨を狙うも、ラスティでそれをいなす。
四歩。
更に回転させ再び刃が手元に戻る。突きが放たれる前に距離の詰まったリッパーの突きが切っ先を叩き落とした。
五歩。
これだけ間合いを詰められた槍とは思えない速度と重さで、突きが放たれる。そしてそれをリッパーで削る様に上に押し上げ、その影響で開いた脇の下、装甲の隙間にラスティを全力で突き立てる。
脇の下、鎧の隙間を覆っていた鎖帷子を突き破り、ラスティの刃先が肉に到達する感触と同時にフルフェイスのバイザーから息の詰まる音がした。
その隙にリッパーを握ったままの腕でローズスパイクの柄を絡めとる。肉に刺さったままのラスティを、更に押し込んだ。
装甲兵の身体から力が、抜ける。リッパーを放り、ローズスパイクを押し退けて両手で更に深く押し込む。グリップを握る手に滴る熱い血がまとわりついていく。
手に鎖帷子が当たるまで押し込んだ後にラスティを捻り、肉を裂きながら引き抜いた。
装甲兵がローズスパイクを取り落とし、気だるそうな声と共に両膝をつく。
ラスティをガントレットに戻し、人形の様になった装甲兵の兜の前面部を押し上げ、血の気の引いた白いキセリア人の顔が露になるとその鼻先にスパンデュールを向ける。
そのままグローブのワイヤー操作で、殆ど零距離からボルトを発射した。
重い金属音と骨が砕ける音が混じり合い、返り血がレイヴンマスクにまで散ったのが伝わってくる。
装甲兵の胸部装甲を蹴飛ばすと、後頭部を打ち付ける形で土埃を上げて装甲兵が倒れる。
そんな光景を見て、特等席のディオニシオの側近に居た兵士が促されるまま、怯えた表情のままクランクライフルを此方に構え直す。ある程度の精度が期待出来る有効射程内と言えど、万が一装甲兵が被弾する事を恐れて、今まで発砲出来なかったのだろう。もしかするとあのディロジウム金属薬包には散弾が装填されているのかも知れない。
すかさずその側近の兵士に向け、ワイヤー操作でスパンデュールを発射する。
位置関係上、上方の敵に向けて発射したお陰か、兵士の喉辺りから後頭部へと、ボルトが突き抜けた。
煽りを受けてか、兵士の握っていたクランクライフルが空に向かって蒼白い火を吹き、豆の様な弾丸を俺の遥か後方へとばら蒔いた。やはり散弾だったか。
ディオニシオの隣に倒れた兵士を尻目にリッパーを拾い上げ、ディオニシオを見据えながら特等席の階段を駆け上がる。
見据えたディオニシオの顔から憤怒の色はとうに消え、驚愕の色も無く、その顔には殆ど恐怖があった。
過剰な程に装飾された、分かりやすいまでに貴族専用の特等席に遂に辿り着く。傍に転がっている側近を除けば一対一。リッパーを、回転させて握り直す。
「ディオニシオ・ガルバン」
只一言、数える様に呟いた。
顔面蒼白となったディオニシオが、腰に下げていた装飾きらびやかな剣を抜いた。研いだ事も無いであろう、飾り以上の価値が見当たらない剣だ。錆び付いていないのがせめてもの救いか。
ディオニシオが隙だらけながらも精一杯構える。気力と勇猛さを取り戻さんと大きく吼え、牽制するべく無闇に剣を振りかざす。
その剣を振りかざす手を、切っ先をぶつける形でリッパーの一撃が引き裂いた。
血と指が飛び、悲鳴に混じり飛び出した剣が、回転しながら特等席の外へと飛んでいく。
武器と手を失ったディオニシオにすかさず距離を詰めながら、横合いに大きく振りかぶる。
渾身の振り抜きが、確かな手応えと共にディオニシオの首を派手に刎ねた。剣を追い掛ける様にディオニシオの恐怖に染まった顔が特等席からすっ飛んでいき、鮮血を噴き上げながら首の無い身体が綺麗な床に倒れ込み、血溜まりを音もなく広げていく。
ディオニシオ・ガルバンは絶命した。逃れようの無い程確実に。
そのまま、足元の血溜まりに触れない様にしながら特等席から辺りを見回し、不意にある事実に気付いた。
会場に特設されたこの特等席は、会場から数段高く造られている為、ここからは会場の全てを見渡す事が出来る。会場の連中は言うに及ばず、会場の出入口となる豪勢な正門から裏門まで。
その裏門が、閉まっている。脱出の要となる筈の、頼みの綱が。
全身から嫌な汗が吹き出し、周りの音が幾ばくか遠くなった。心臓が痛い程に早鐘を打っている。特等席の柵に手を掛け、眼が閉じられた裏門に釘付けになった。
修道院の連中はどうした?何をしている?弱味が通用しなくなったのか?それとも敵側に作戦が露見したのか?
「撃て!!!」
そんな号令に、坩堝に引き込まれていた思考が引き上げられ、思わず振り返る。会場から招待客は消え失せ、代わりにクランクライフルを構えた小隊が―――――――
発砲音の寸前、咄嗟に盾の様に掲げたリッパーが銃声と同時に弾き飛ばされ、熱が右肩の防護服を切り裂いて肉を抉った。
右肩を重いブーツで蹴飛ばされたかの様な衝撃に、特等席の欄干に叩き付けられた身体は容易く欄干を乗り越え、特等席から地面に落下した。
考えるより先に、身体が反射的に地面に転がって衝撃を吸収する。直ぐ様膝立ちになり、特等席の高さから地面に叩き付けられた手足を確かめた。
取り敢えずは両手両足、何処も……いや、まずい。右手をどうやら痛めたらしい、右手を動かす度に痛みと痺れが脈打つ辺り、骨に異常は無いが捻ったか挫いたかしたのかも知れない。もしくは、直前にリッパーで弾丸を受けたのが良くなかったか。
吹き飛ばされた筈のリッパーが近くに見当たらなかったので、腰の後ろから取り出したアイゼンビークを展開した。右手は疼き、身体が軋む。右肩の負傷も今こそ麻痺しているものの、その内痛みと熱が染み込んでくるだろう。
考えなければならない。
ディオニシオは文字通り抹殺した。だが、離脱ルートに想定していた裏門は使えない。今から操作出来たとしても裏門が開くには、相当な時間がかかる。
右肩を負傷し、リッパーは所在不明だ。脚は無事だが、右手に軽微ながら打撲か捻挫の兆候が見られる。
実質的に残る脱出ルートは正門だけだ。垣根を突き破るのは時間がかかりすぎる。突き抜けられたとしても、そこに時間がかかれば移動術を使う前に逃れられなくなる可能性が飛躍的に高まる事になる。その上、正門に向かうならコンテナから特等席までの距離以上を移動しなければならなくなる。
そして現在、ほぼ居場所は特定され、招待客の避難は殆ど終わり、クランクライフルの銃砲隊と装甲兵が俺を包囲しつつある。それに対し俺は、たった一人。
息を吐いた。今の所、諦めるには充分な条件が揃っている。この状況を昔の俺に言えば、まず苦い顔をするだろう。
だが、俺は死ぬ訳には行かない。俺一人が死ぬだけじゃない。あの惨たらしい戦争の末に見つけた物を、俺は何も果たしていない。俺一人が死ぬ事は構わないが、この先も俺は戦わなくてはならない。どれだけ過酷だろうと、残酷だろうと、レガリスを変えるまでは、俺は首を刎ねられるその時まで諦める事は許されない。
「……羽が折れたなら足で走れ、足も折れたなら地を這え。這えなくとも敵だけは咬み殺せ」
隠密部隊での信条を口で反芻しながら、立ち上がった。
その瞬間、裂ける様な鋭い頭痛が走り、思わず声を出して呻く。頭にも負傷があったのか?益々酷い状況だ。
そして、呆然とした。
青い。
視界が“あの”蒼の濃淡で全て塗り潰されている。直ぐ様、視界は彩り鮮やかな通常の視界に戻ったが、戻ったばかりの視界は左手の甲に吸い寄せられた。
革手袋に覆われてあの痣も肌も見えないが、それでも確かに痣から微かな熱と光を感じる。
確かめる様に、左手を握り締めた。
遠巻きに聞こえていたブーツの音が、徐々に自分を取り囲んでいくのが分かる。
疼く右手で、アイゼンビークを握り締めた。
特等席の陰から、様子を窺う。銃砲隊は俺を撃った時よりかなり距離を詰めてきていた。
想像以上に慎重だ、足が遅いのは有り難いが油断せず距離を詰められるのはまずい。
自分でも無茶な手だとは思う。かなりの賭けになる事も。だが、それ以外にめぼしいカードが無ければ、博打だろうと何だろうと札を切るしかない。
どこまでやれるかは分からない。だが、どこまでもやるしかない。
銃砲部隊から距離が更に詰められた。恐らく十分にクランクライフルの射程距離には入っている、頃合いだろう。
鋭く息を吐いて疼く右手でアイゼンビークを握り直し、左手を広げ、特等席の陰から飛び出し真正面から銃砲部隊に突っ込んでいく。
小隊長は不意を突かれた様だったが、直ぐ様号令を発するべく片手で俺を指し示す。あの練度と人数なら、あいつ一人をスパンデュールで撃っても発砲は止まらないな。
「構え!!!」
十人近いクランクライフルの照準が、俺に定められるのを感じた。殺気がジリジリと、俺の肌を炙っている。全速力で駆けながら、左手に“何か”を捉えた。
「撃て!!!」
左手に握った“何か”を、渾身の力で手繰り寄せる。前に、ではなく、真横へ。
その瞬間蒼白い光が弾けると共に、銃声が遠く聞こえ、容易く地面は消え、足は空を切った。地面に足がかかり、直ぐ様転がって体勢を立て直し、アイゼンビークを握り締める。
銃砲部隊は、呆然としていた。小隊長も含めて。無理もない、先程まで真正面から突っ込んできていた標的が唐突に、文字通り真横に吹き飛び一斉射撃をかわしたのだから。
不可思議な事態に、銃砲隊は頭の中身が抜けた様になっていた。中には何人か思い出した様にクランクライフルのクランクを回し始める者も居たが、狼狽した顔から見ても、大して事態を把握出来ているとは思えない。
そのまま、再び全力で真正面の銃砲隊へ駆ける。走りながらも、焼き焦がされる様な左手の熱には内心顔をしかめていた。
熱を堪え、ガントレットから飛び出したラスティを逆手に握る。ついに銃砲隊の目前まで迫ると、兵士の一人が動揺の抜けきらないまま、クランクライフルの銃剣で突きを放ってきた。
すかさず左手に飛び出したラスティでその突きを払いながらアイゼンビークを振るい、ピックでは無くその対に備えられた鎚頭を兵士の側頭部に叩き付ける。
装甲も無い一般兵の側頭部に鎚頭は頭蓋の割れる音と共にめり込み、また、そのままの勢いで殴り飛ばすと兵士は目玉をはみ出した顔で倒れ込み、動かなくなった。
眼前の敵に気力を取り戻し、号令を発しようとした小隊長に素早くスパンデュールを発射する。ボルトが喉に突き刺さり、号令になる筈だった息が口から赤い泡となって溢れた。
その隙に兵士の脇を抜け、銃砲隊の包囲を抜けて全力で駆け抜ける。奴等に止めを刺してないが、今は離脱が最優先だ。直ぐに奴等も動揺が抜けて体勢を立て直す、この事態にそれは非常にまずい。
ラスティをガントレットに戻し、焼ける様な左手の痛みを無視し、もう一度“何か”を掴み、全力で手繰り寄せる。
真正面に弾ける様な速度で打ち出され、地面に足がかかると同時に勢いに逆らわず前転し、立ち上がって駆け出す。これで、背後の銃砲隊から結構な距離を取れた筈だ。
俺の見た限り、あの瞬間に装填が終わった物は一人か二人だった。そしてクランクライフルの精度から言っても、これだけの距離を命中させるのは容易い事では無い。だからこそ、銃砲隊は一定以上の距離を射撃する際は一斉射撃を基本としているのだ。
そしてこの超常的な力は、意思の強弱により飛距離が増減するらしい。黒羽の団で試した時は25フィートを越える程度、といった所だったが先程、決死の想いで先程力を使った時はどう見ても40フィート近い距離を移動していた。
しかし、反動も比例するらしく、左手の焼きごてを押し付けられる様な痛みは耐え難い程になっていた。今の左手ではラスティを握った所で、剣戟を受け止められないかも知れない。
招待客が避難し終わった後の、食器や料理の残骸が散乱する無残な会場を、ひたすら走る。テーブルを踏み越え、合間を抜け、とにかく駆ける。
正門が、遠い。息が上がり、遂に右肩の傷も焼ける様な痛みが染み渡ってきた。右手の痛みも徐々に強まり、アイゼンビークを握っているのも辛くなり始めている。
一方、走り続けている内に左手の痣の熱は引き始め、今では幾らか熱を帯びるのみとなっていた。だが、熱が引くと今度は痣に奇妙な疼きが脈打つ様になってきている。力の行使を望む様な、更なる熱を求める様な疼きに、まるで痣が意思を持っているかの様な錯覚に囚われる程だ。
会場を直線ルートで移動しながらも、左手の指先に見えない“何か”が絡まっているのを確かに感じていた。そして、それが先程この左手が手繰り寄せたものはまた別の何かだという事も。
幾らか装備を捨てた方が身軽になるんじゃないか、そんな事を考え始めた矢先に漸く正門が見えてきた。息は既に上がりきっていたが、会場の外にさえ抜け出せれば移動術によって、離脱が容易になる。市街にさえ出れば、此方の領域だ。
しかし、全速力で駆けてきた足が急に踏み留まった。思わず、胸中で悪態を吐く。
装甲兵だ。しかも、俺が正門から離脱する事を察して、逃がさない様に二人も正門の前で身構えている。恐らくは会場の外の警備に当てられていた連中だろう。一人は肉厚の重厚な剣、一人はローズスパイク。
例の“手繰り寄せ”で突き抜けてしまおうか、とも考えたが、奴等が万が一剣か槍を俺の通り道にかざしていたら、俺がそのまま両断されてしまうかも知れない。只でさえ分からない事の多い博打の様な力だ、無いとは言い切れない。
直接戦おうにも装甲兵は手強い相手だ、不意を突くか純粋に武術をぶつけ合うかしなければまず通れない。
不意を突くのは難しい、かと言って二人相手に出来る程の余裕がある相手でも無い、息は上がり、右肩と右手の痛みは今も尚、益々酷くなっている。
そんな中、痣が一際脈打つ様に疼く。
不意に左手を目の前にかざした。レイヴン装備の丈夫な革手袋の表面に、蒼白い光が痣の形に浮き上がっている。明確に、間違えようも無く。
喚んでいる。俺を。無根拠のまま、静かに確信する。そして、導かれる様に、誘い込まれる様に、何の躊躇も作戦も無く、左手に絡まっていた“何か”を抉じ開けた。
左手を焼けた鉄串に貫かれる様な激痛に呻き声を上げると同時に、鳥の咆哮と人の悲鳴を混ぜ合わせた様な奇怪な音で哭きながら、痣が黒い霧の様な物を突如周囲に噴出し始める。
装甲兵二人が構え直す中、黒い霧は次第に幾つかの塊に収束し、宙に浮かんだまま練り合わせる様に形を成していく。
目の前に漂う霧の塊が、甲高い鳥の様な声で鳴いた。形を成すにつれ、霧の塊が羽毛に覆われている事に気付く。
俺は、“それ”を知っていた。暗い、雨の悪夢の中で。
「カラス…………」
漆黒の羽根を持つ、抉り取られた様に目玉の無いカラスが其処には居た。十羽近い数の奇怪なカラスが、甲高い声で鳴きながら俺の周囲を飛び回っている。
装甲兵達に、目に見えて動揺が広がる。状況を考えれば無理も無い、今奴等の目には、俺は正しく悪魔の使いかの様に映っている事だろう。
奴等を動揺させている事は間違いない、だが、逆に言えばそれだけだ。言ってしまえば、奴等を手品で脅かしただけに過ぎない。今、突き抜けられるだろうか?左手の熱はまだ引いていない、その上右腕の痛みは酷くなっている。何か、もう一押しあれば……
不意に、カラス達が反応した。示し会わせた様に、一斉にカラス達が装甲兵二人に突っ込んで行く。
装甲兵が咄嗟に剣を振るうが、カラスは身を翻し威嚇しながらも尚、装甲兵に攻撃していた。十羽近いカラスが一斉に剣を持った装甲兵に攻撃している、確かに装甲兵が一人は完全に余裕を無くしているが、まだローズスパイクを持った装甲兵が辛うじて此方を見据えたままだ。あの兵士はまだ気も逸れていない、言うまでも無くまともに打ち合うには厳しい相手だ。
その刹那、急にカラスの半数程がローズスパイクの装甲兵に襲い掛かった。
眼を、見張った。
カラスを振り払おうと奮闘する槍の装甲兵、先程よりカラスが減ったとはいえ、未だカラスに攻撃され続け剣を振り回している装甲兵。余りにも理想的な状況だ。
痛む右手で、アイゼンビークを握り直す。今なら、行ける。突き抜けられる。
背中に、不意に怒号が浴びせられた。集まりつつあるブーツの音を、耳が拾う。いよいよ、時間も無い。
息を深く吸い、カラスに襲われている二人が立つ正門へと、自分の出せる最大速度で一心不乱に駆けていく。
地を蹴り、土を巻き上げ、前のめりになる程に速度を上げ、装甲兵の意識の隙を抜ける。視線の向き、脚の動き、武器の鋒、腕と重心、全てを見定めながら、隙間を探しながら。
遂に二人が目前に迫った瞬間、減速の一切を考慮しない速度で二人の合間に入り込む。
刹那の時間が、意識の中で何倍にも引き延ばされる。
装甲兵の一人、剣を振り回していた兵士の意識はカラスに逸れ腕の動きこそ攻撃に備えてはいたが、脚の動きと重心が完全に逸れていた。俺の方へ狙いを定めた剣を振るのは不可能だ。
二人目の装甲兵、ローズスパイクを握っていた兵士は片手を離し、片手で槍を備えたままカラスを払おうとしていた。片手になり意識は散漫になっていたが、脚はカラスに動じず備えたままだった。装甲兵の練度なら、あの片手でも致命的な一撃は十分に有り得る。そして、俺が近付いた瞬間にカラスが払い除けられ、一瞬視界が開けた。兜の下の眼光が、俺を捉える。
まずい。
減速は出来ない。加速も無理だ。奴は、片手で俺を突くつもりで居る。払い除けられたばかりのカラスの合間から、視線の確保は充分。
その刹那、カラスが攻撃でも回避でも無く、不自然な機動で装甲兵の眼前に割って入り、羽根を大きく広げた。
装甲兵の視線が、途切れた。
唐突な視界の断絶により、不安定になったローズスパイクの槍頭を勢いそのままに辛うじてかわし、アイゼンビークを痛む右手の渾身の力で振り抜く。
削り取るかの様に、ローズスパイクを握った装甲兵の指をへし折りながら、ローズスパイクごとアイゼンビークで装甲兵の手を打ち払った。
漏れる悲鳴を後ろに残す形で、作ったばかりの隙を突いて全速力のまま装甲兵二人の合間を抜け、市街に紛れ込む。息は上がり左手は焼かれ、右腕を痛めてこそいたが、既に市街地はレイヴンの領域だ。
多少難儀しつつも壁を駆け上がり端に手をかけ、身体を引き上げ蒸気パイプの下を滑り抜ける。背中に届く罵声と怒号に銃声が混じる頃には、既に屋根の上をひた走っていた。
一つ、確信した事があった。先程、左手の痣から“呼び出した”カラス達は、俺の意思と精神に感応し行動している。だからこそあの刹那、あれほど適切なタイミングで装甲兵を妨害する事が出来たのだ。
今、目も届かない程に離れたカラス達だが、意識が繋がっている影響なのか、役目が済んだカラス達が再び黒く霧散し消えたという“見てもいないし知りもしない”光景が、強い確信と共にその光景が、鮮明に脳裏に浮かんでいた。
屋根を駆け、パイプを飛び越え、屋上へ跳びながら、ふと思う。
左手の痣、そしてあの超常的能力。今回の任務、この痣が無ければ決してこうは行かなかっただろう。
屋根を駆けながら、不意に革手袋に覆われた左手を見やる。
今夜、俺は何かの一線を超え、歪んでしまった。
それだけは、間違いなかった。
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