第5話 少女二人
/由羅
私はいったい誰なのか。
目覚めたものの、ちっとも思い出すことはできなかった。
満天の星空――新月の夜に、星々はよく映える。
周囲には明かりは無く、どこまでも広がる草原と、朽ちかけた古城があるのみだ。
何の障害も無いその場所で、それらを眺めるのが好きな者ならば、恐らくいつまでも見上げていることができただろう。
でも私は、崩れ落ちた古城の瓦礫に隠れるように、身を震わせていた。
……時折自問する。
なぜ自分はこんなところにいるのか。
どうしてこんな所に隠れて、怯えているのか。
そもそも自分は何者なのか、と。
目覚めて、そしてようやく自分というものを認識し始めた時には、もう追われていた。誰に追われているのかも、どうして追われているのかも分からない。
怖くて逃げている――ただそれだけしか、分かっていることはない。
今はこの場所に誰もいないが、いつまでも留まるわけにはいかないだろう。いずれ、見つかってしまう――そんな気がする。
少しでも遠くへ、行きたい。
そんな風に思った、矢先だった。
「……こんばんは?」
不意に声をかけられて、私はぎくりとして頭を巡らす。
誰もいないはずだったのに――その確信があっさりと打ち砕かれていくのを感じながら、私は恐る恐る声のした方を見上げた。
隠れていた瓦礫の上に危なげなく立って、見下ろしている影。
月が無いせいで、よくは見えない。それでも私ははっきりと、その姿を捉えていた。
見下ろしていたのは、自分よりもずっと小柄な少女。
濃い金髪に、紅い瞳が印象的な少女は、じっとこっちを見下ろしている。
「……こんなところで何をしているの?」
少女は、その無表情にほんの僅か興味のようなものを滲ませて、重ねて口を開いた。
冷たくて、澄んだ清涼を思わせる声。
追手じゃない……?
何の根拠も無かったが、そう思った。
「貴女も散歩?」
答えられないでいると、その少女は小首を傾げて尋ねてくる。
「散歩……?」
思わぬ言葉だった。
見渡す限り民家の明かりすらないこんな場所を、こんな深夜に散歩だなんて。
「うん。わたし、滅多に寝たりしないから。今夜みたいに静かで綺麗な夜は、いつも出歩いているの。貴女も?」
違う。自分は追われて逃げて、隠れているのだから。
首を横に振ると、少女はそう、と頷く。
「じゃあ何をしているの?」
当然の質問。でも私には答えられない。
「……わからない。わからないの……どうしてこんなところで逃げ隠れしているのか」
「逃げる?」
その言葉は、少女にとって意外だったようだった。
「貴女、とても強いのに。とても力に溢れていて、綺麗だったから、遠くからでもわかったの。それに、何となくレダに似ていたから……」
だから、声をかけてみたのだと。
「…………?」
わけが分からず、少女を見返した。
「強いって……私が?」
「うん。とても」
「そんな――何を言って……」
「わたし、嘘は言わないよ」
矜持を傷つけられたとでも感じたのか、少々不満げに少女は言う。
「あ、その……?」
ぎくりとした。
そんな僅かな表情ですら、その少女には迫力があった。それこそ気圧されてしまうような。
「いい夜だから、少し一緒にいていい?」
そう言うと、少女は答えも待たずに瓦礫から飛び降りて、真横に並んで腰を落ち着けてしまう。
困惑気味な私などお構い無しに、である。
初めは警戒していたが、やがてぽつぽつと会話をするうちに、この少女がとても無垢で純粋なことが分かって、次第に気分が和らいでいった。そして口数も多くなっていく。
目覚めてから誰とも話すことなく、ずっと一人でいたせいか、こうやって誰かと話せることは嬉しかった。
少女は決して饒舌では無かったが、不自由はしなかった。何かを聞けば必ず答えてくれるし、よく質問してきたりもする。
そんな中で分かったのは、自分は己のことを何も知らないということ。
あるのは逃げてきたという記憶だけ。
きっと、これまでの記憶を失ってしまっているのだろう。
「……もしかして、困ってる?」
しばらくじっくり話を聞いて、少女はそんな風に尋ねてきた。
「……そうかもしれない」
「じゃあ、わたしの所に来る? ……あ、でも今は駄目」
少女は言いかけたことを、すぐに思い直して頭を振る。
「今はね、二人で旅行中だから。その間くらいは二人きりでいたいの。だから邪魔は嬉しくない」
あっさりと、私は邪魔だと言ってくれる。
ただ全く悪意は無く、現実をそのまま告げただけの言葉。
まだ少し話した程度であるけど、何となくこの少女らしい。
「二人?」
「うん。大好きなひとと、一緒に旅行してるの。わたしの故郷を見てみたいって言うから。今は夏休みっていうので、しばらく時間があるから……その間に」
何やら嬉しそうに、少女は言う。
へえ、と思った。
今までで最も感情に富んだ表情を見せた瞬間だったからだ。
「だから、旅行が終わった後だったらいいよ。もしよかったら」
来ていい、と。
警戒はあった。
でも同時に嬉しいとも感じている自分。
そしてまた違うことを考える。
……どうしてこんなにも、この少女は気を遣ってくれるのだろうか、と。
「……私は自分のこともわからない。どうして追われているのかもわからない……そんな私を?」
「遠くに行きたいんでしょ?」
それなら都合がいいんじゃないかな、と澄まして言う。
都合って……。
「だ、だから……私の都合じゃなくて、あなたの都合」
「? わたしは気にしない。だから言っているのに」
どうしてそんなことを聞くのだろうと、不思議そうに首を傾げる少女。
無警戒というか、呑気というか……思わず呆れてしまう。というよりも、状況を正確に把握しているのだろうかと、疑いたくなる。
追われている者を匿う――助けるということは、そうする者も同じ危険に晒されるということ。この少女はそのことを分かって言っているのだろうか。
「危ないことしてるって……思わないの?」
その問いに。
少女は微かに笑ってみせた。
その微笑はとても綺麗だったけれど、自信に満ちて、そしてどこかに危なさを含んでいて。
「わたしと一緒にいる方が危険だって、いつもそう言う知り合いがいるよ」
あっけらかんと、何やら聞き捨てならないことを言う。
「だからね。よく考えてから決めた方がいいかもしれないね」
「…………」
何だかいつの間にか、逆になっているような気がするんだけど……。
面白げにささやく少女は、本当に不思議な存在だった。
「それで、もしよかったら日本という国に来てみて。今は京都っていう場所に住んでいるから」
「……ニホン? キョウト?」
どちらも知らない名前で、戸惑ってしまう。
「ここから海を越えたところにある国。ちょっと遠いけど、ちょうどいいと思う。あそこはアトラ・ハシースの影響力も……絶対ではないけど、あまり届かないから」
「え……?」
「貴女が人間じゃないことくらい、一目見てわかるよ。貴女が異端種であるということと、逃げてきた場所から判断すれば、追いかけてきているのは多分あの人たち。わたしもあの人たちは嫌いだから」
アトラ・ハシース……その名前はどこかで聞いたことがあるような気がする。よくは思い出せないが。
「それと貴女を追っていた人たち……適当にあしらっておいたから。貴女と話すのに邪魔になりそうだったし。だから……しばらくは安心していいと思う」
あしらうって。
何やらとんでもない台詞を、何でもないようにさらっと少女は言う。
しかしそれよりも、この少女はどうしてそんなことが分かるのだろうか。
「ね、ねえ……あなた、私が誰だか知っているの……?」
「知らないよ?」
思わず聞いたのだが、返ってきたのはあっさりとした否定の言葉。
「じゃあ……あなたは何者なの?」
そう聞かずにはおれず。
「わたし? わたしはね……」
――この少女に出会ったこと。
それが果たして良いことであったのか悪いことであったのか――それは分からない。
ただこの少女が導き手であったこと、それは確かな気がした。
だから今私は――ここにいる。
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