第258話 筋肉は全てを解決する!

 木曜日、ドゥネイル公爵家の屋敷の執務室ではジェシカが頭を抱えていた。


「ドゥネイルスペードでも、ついにEウイルスの感染者の中でも悪化する者が出始めましたか」


 使用人に集めさせた情報から作られた報告書には、直近の3日間で感染した者の数が記載されていた。


 今までは、流通量が安定するようになったユグドランαを初期症状が確認された者達に投与していた。


 そのおかげで、比較的瘴気に慣れている守護者ガーディアンの中には症状が和らぎ、セイントジョーカーから支給された聖水を飲むことで免疫力を高めて自然治癒する者もいた。


 しかし、自然に治癒しない者達の中には初期症状から悪化する者が出始めた。


 残念ながら、Eウイルスに対する特効薬は開発されていないため、聖水だけでは病状の進行を遅らせることしかできない。


「せめてライト君が作った聖水があれば、助けられる者もいるはずのですが」


 ライトが【聖付与ホーリーエンチャント】で作った聖水は、他のどの聖水よりも効き目が高い。


 支給された聖水では病状の進行を遅らせられるだけでも、ライトの聖水なら症状を緩和して自己免疫力の上昇により自然治癒する者もいるだろう。


 そう期待できるぐらいには、ライトの作った聖水はすごいのだ。


 欲を言えば、ライトをドゥネイルスペードを招いて治療院の医者を助けてほしいところだが、そんなことはできるはずがない。


 今のライトがヒルダの傍を離れられるはずがないからである。


 だったら、ヒルダもセットで呼べないかと考えるかもしれないが、妊婦のヒルダをEウイルスの蔓延る大陸東部に連れて行く愚行をライトがするとは思えない。


 それゆえ、ジェシカはせめてライトの作った聖水が手に入ればと願った。


 自分が直接ダーインクラブに行けるなら、それに越したことはない。


 だが、現在は緊急事態宣言が発令されて大陸東部からそれ以外への移動が禁止されている。


 移動が認められているのは、体が丈夫であると抜擢されたセイントジョーカーの教会に所属する一部の守護者ガーディアンだけだ。


 その守護者を通じ、ジェシカは教皇パーシーに向けた陳情の手紙を送っている。


 内容は勿論、ライトの作った聖水の支給を希望するというものである。


 ジェシカはその返事が早く来てほしいと願っていた。


 そんな時、執務室をノックする音がした。


「ジェシカ様、テレスです。教皇様からのお手紙をお持ちしました」


「本当ですか!? 早く入りなさい!」


 心待ちにしていた返事が返って来たのではないかと期待し、ジェシカはテレスを室内に早く入るように命じた。


 テレスとは、ドゥネイル公爵家に仕えるメイドの1人で、護国会議や教皇選挙期間にジェシカが変装していた者だ。


 屋敷のメイドの中で、ジェシカが最も信頼しているのはテレスである。


 亜麻色の髪を首元でカールさせた見た目で、年齢もギリギリ三十路には到達していない。


「ジェシカ様、こちらがそのお手紙です」


「ありがとう」


 テレスから手紙を受け取ると、ジェシカはすぐに開封してその中身を確かめた。


 そこには、ジェシカが回答を望んでいたライトの聖水について書かれていた。


 具体的には、Eウイルスの被害が未知数のため、今回はライトの聖水をダーインクラブの外でも使用する許可を出すこと、現在ライトに聖水の納品を依頼していることが書かれていた。


 全て読み終えると、ジェシカは返事を書き始めた。


 感謝の言葉や必要な納品数等を書くと、手紙としての体裁を整えてテレスに渡した。


「テレス、手紙を運んで来てくれた守護者ガーディアンはまだ屋敷にいますか?」


「おります。返事を貰うまで待つとのことでした。お手紙を届けて下さった方はアルバス様のお知り合いの親族だったようで、今は応接室でアルバス様とお話をされてます」


「愚弟の知り合い? どなたですか?」


「エドモンド=アルジェント様です。”筋肉武僧”のパーティーリーダーだそうです」


「アルジェント・・・。東の伯爵家のじゃないですか。そういえば、愚弟が1年生の頃に遠征見学で面倒を見てもらったパーティーに妹のターニャさんがいたはずです。とりあえず、手紙を渡しに行くついでに会ってみましょう」


 エドモンドがアルジェント伯爵家だとわかると、当主が会わないのはどうかと思ってジェシカはエドモンドに会うことにした。


 テレスと共に応接室に向かうと、その中から楽しそうな声が聞こえた。


「どうだいアルバス君! すごいだろ!?」


「すげえっ! 背中がキレてる男の顔みたいです!」


 エドモンドが何かを自慢し、それを見たアルバスが感心した声を出したらしいのが聞こえてジェシカはドアの前で立ち止まった。


「・・・何をやってるんでしょうか? テレス、わかりますか?」


「恐らく、ジェシカ様のお気に召さない光景だと思います」


「どういうことですか?」


「私が話に聞いた限りでは、”筋肉武僧”は皆暇さえあれば筋肉を自慢するそうです。ジェシカ様を待つ間、アルバス様に筋肉を自慢してるものと考えられます」


 テレスの推測を聞くと、ジェシカの顔が引き攣った。


 それでも、手紙の返事を無意味に遅らせる訳にもいかず、ジェシカは応接室の中に入る覚悟を決めた。


 テレスがノックしてドアを開けると、ジェシカはその中へと足を踏み入れた。


 そこには、上裸の黒光りした青年がアルバスに向かってポージングを披露している光景が繰り広げられていた。


「筋肉は全てを解決する!」


「私の屋敷で何をやってるんですか?」


「姉上!? エドモンドさん、すみません! 服を着て下さい!」


 能面のような顔をしたジェシカを目の当たりにして、アルバスはブルっと体を震わせてエドモンドに服を着るように頼んだ。


 待たせてもらっているからとはいえ、自分よりも身分の高い貴族の家で服を脱ぐとは何事だろうか。


 しかも、未婚のジェシカとテレスの前で堂々と己の肉体を見せつけるとは正気を疑うレベルである。


「これは失礼しました」


 エドモントはアルバスに筋肉を披露していた時とは口調を変えたが、やってしまったというような後悔した表情を見せずに堂々とシャツを着た。


 ピチピチのシャツに半袖のベストとは、11月中旬の服装ではない。


「愚弟、何をしてたのか簡潔に説明しなさい」


「ターニャさんの話をしてたけど、話題が尽きたらエドモンドさんが筋肉を披露し始めたんだ」


「・・・セイントジョーカーや東部以外の様子を聞くとか、他にも話題はあったでしょうが」


「それがさ、エドモンドさんがそんなことより筋肉だって言うからつい・・・。でも、確かにすごかったぜ」


 エドモンドも笑顔で頷いていることから、アルバスの言っていることに嘘はないようだ。


 そうだとしても、Eウイルスでドゥネイルスペードが大変な時に筋肉鑑賞をしている場合ではないだろうと思い、ジェシカは深く溜息をついた。


「もういいです。アルジェントさん、愚弟がこれ以上馬鹿になると困るので筋肉の披露は結構です。テレス、この手紙を渡して」


「かしこまりました」


 ジェシカから手紙を受け取ると、テレスはエドモンドに手渡した。


「確かに受け取りました。教皇様にお渡しします」


「よろしくお願いします」


「では、これにて失礼します。そろそろ仲間が治療院に聖水を届け終えた頃だと思いますので」


「ありがとうございます。パーティーメンバーの方にもお伝え下さい」


「承知しました、


 それだけ言い残すと、エドモンドは屋敷から去って行った。


 そのすぐ後、アルバスはジェシカのことを笑いを堪えながら見た。


「愚弟、何が言いたいのかしら?」


「いや、別に」


「目が笑ってます。愚弟は筋肉が好きなようですから、筋肉痛になるまで痛めつけてあげましょう」


「や、止めてくれ、麗しのドゥネイル公爵!」


「愚弟、私にボコボコにされたいのなら最初からそう言いなさい」


「がはっ」


 アルバスの鳩尾にジェシカの鉄拳が命中した。


 アルバスは立っていられなくなり、その場で四つん這いになった。


「その程度の腹筋では攻撃を防げませんよ? 筋肉が足りてないのではありませんか?」


「悪かった! 悪かったからもう許してくれ!」


「聞こえませんでした。なんですか?」


「俺が悪かったです! もう言わないので許して下さい!」


「・・・次にその言葉を口にするか、その言葉が誰かの口から私の耳に入ったらタダじゃおきません。わかりましたね?」


「はい!」


 アルバスはエドモンドが投下した爆弾のせいで酷い目に遭ったため、もう二度とその言葉がジェシカの耳に入らぬように気を付けようと心に誓った。

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