第1章 11

「誰かぁーっ! 誰か助けてぇーっ!」

 女の悲痛な叫び声に、朦朧とした意識が覚醒し始める。

「勝太郎ぉ、勝太郎ぉー! いやあぁぁーっ!」

 すぐ傍で、女が僕の名を呼びながら助けを求めて泣き叫んでいる。

 身体が動かない。瞼も開かない。自分の身に何が起こったのかよく思い出せない。

「嫌だあぁっ! 誰か来てえぇっ! 勝太郎が、勝太郎が、……う、うわああぁん」

 胸の上に重みがのしかかる。誰かが縋り付いている気配がする。

「嫌だよぅ! お願い目を開けてぇっ! うわぁーん、うわぁーん」

 胸の上が熱い、苦しい。

「い、息してない? してる⁉ あ……や、嫌だヤダヤだやだ、嫌だあぁーっ!」

 痛くはない。けど、苦しい、吐き気がする。

 薄目を開ける。ぼんやりと、顔中ぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる娘の顔が見える。笑い顔以外を、初めて見る――

「あ、あああああああ……嘘」

 娘が肩から手を離す。再び身体が横たえられる。

「勝太郎が死んじゃう……? 嘘だよ、嫌だよ。そんなのや――」

 絶望的な少女の慄きが、不意に霧に霞むように、すぅーっ、と遠のいていく……。


 ほんの一瞬だけ、全ての感覚が途切れた。


 ……再び娘が上にのしかかってくる。

「……ゥんっ⁉」

 唇を塞がれた。

 娘の口から、肺いっぱいに空気が送られてくる。

「……っはぁ!」

 短い息継ぎの後、再び娘の唇が押し付けられる。二度、三度……と繰り返されるうち、びりびりとした感覚が朦朧とした身体中に走る。酸素濃度の上昇した血液の循環が呼吸器官を圧迫するほど強い鼓動をもたらし、

「……ぅえっ! げほっ、げほっ!」

 たまらず噎せた。

「あ、……勝太郎っ!」

 未だ自由のきかない身体を無理して起こすと、僕の上に馬乗りになった姉が、両手で口を抑え奇跡を目の当たりにしたような表情で目を見開いていた。小顔の割に大きな両目からはポロポロと涙が零れている。

「……お姉……さま?」

「……ああっ、勝太郎!」

 再び顔をクシャっと歪め、胸に飛び込んでくる、首根っこを抱きしめられ、感覚の戻らない僕の身体は簡単に地面に押し倒される。

「かつたろう、かつたろう! うわーん、うわーん」

 ……泣いている姉の姿を初めて見た。

 言葉がほとんど言葉にならずに泣きじゃくる姉を胸に抱いているうち、だんだんと思考がはっきりしてくる。崖から落ちた後、慌てて降りてきた姉が崖下で伸びている僕を介抱しようと、呼びかけたり、揺すったり、あとは――

「え」

 今頃になって蘇る。姉の唇の感触、吐息。口の中に残る甘い匂い。そして、今腕の中にある、姉の体温。

(姉さまと……え?)

「――っ痛ぅ!」

 姉の温もりを意識したとたん、鋭い頭痛と首の痛みが走った。徐々に痛覚が戻り始めているらしい。

 ふと視線を上げると、今まで僕のシャツに顔を押しつけてわんわん泣いていた姉が、涙に濡れた目で僕を見下ろしている。

「……良かったぁ」

 また、ポロポロと大粒の涙が大きな双眸から溢れる。

「本当に良かった……っ」

 いきなり首に手を回され抱きしめられる。僕より背の高いはずの姉が、何故かとても小さくて、軽くて、脆く感じる。

(……それに、熱いくらい温かい)

 散々泣きじゃくった余韻が、目元を真っ赤に上気させている。艶っぽく濡れた姉の目を見ているうちに、胸の中に抱いているものが、一際大切な、愛しいものに感じられる。幸いどこも骨折はしていないようだが、それより今は、抱きしめ返す腕に伝わる感触から、落下の痛みよりもずっと大きな幸福感を覚える。

 不意に、姉が睫毛の濡れそぼった瞳を、僕の顔に近づけた。

「姉さま……? っっ⁉」

 唇を奪われる。

「ね……姉さ」

 再び唇を啄まれる。

 顔を上げ、見下ろす姉の潤んだ顔は、今までとは明らかに別の理由で上気していた。

 ごくり、と喉が鳴る。

「姉さま、駄目……ん」

「イヤ」

 素っ気なく拒絶し、今度は二度、三度と続けて唇を押し付ける。

「駄目……やめてって」

「イヤよ」

 姉は再び、拒絶する。

「やめてなんか、あげないの」

 もう唇だけでなく、顔じゅうを舐められ、吸われ、啄まれる。

「ん、ちゅ、ちゅっ、ぺろ……ンん、ちゅ、……ぺろ、ちゅ……、がぶ」

「痛ででっ」

(だ、駄目。……これ以上は、もう)

 先程まで、姉の後ろで淫らな妄想に没頭し、前傾姿勢になっていた有様だというのに、ましてや今のこの状況。

「お願い、本当にやめてって……」

 姉の背中に回したままの手を肩に移し、姉を押しのけようとしたが、

「っうわ!」

 その手を掴まれ引き剥がされる。力の入らない両腕は簡単に地面に押し付けられる。

 僕はその手を振り払うこともできずに、見下ろす姉の顔に見入った。


「――え?」


 姉の表情が一変していた。


 まるで今まで泣きじゃくっていたのが嘘のように――倒れていた僕を見つけておろおろ泣きじゃくり、無事に目を覚ました僕に安堵して泣きじゃくり、散々泣きじゃくっていたはずの痕跡は微塵も見当たらず、んふふ、嘘泣きよ、びっくりした? と今にもケラケラ笑いながら口にしそうな。


 ……そんな無邪気な童女の笑顔が、捕まえた虫を手にして、さあ、どの足から毟っていこうかしら? という按配で、僕の両腕を地面に磔にし、舌舐めずりしながらのしかかっている。


「姉さま……?」

 ほんの数瞬前との変貌に戸惑う僕に、姉は無邪気に笑いながら、

「駄目よ? やめてなんか、あげないんだから」

 そう言って再び唇を奪われる。しかし、その接吻は今までのものとは趣が違った。

「っゥん⁉」

「ンんん、くちゅ……うゥン」

 唐突な舌の侵入に、僕は目を剥いた。

 唇を無理やり割るように押し入る姉のヌメヌメした舌が、歯列をなぞり、歯茎をなぞり、僕の舌を探り当てると、喜色をあらわにしたように猛烈な勢いでたぐり寄せる。侵入者から逃れようとする僕のそれが、口腔外へ排除しようとすればするほど、それは強く絡みあい、相手の逃れることを許さぬある種の生物の強制的な交尾のように僕を犯す。

「ウんんっ……くはぁ」

 ようやく唇が離れた時には、口腔内に姉の味が、気管の奥底まで姉の匂いが充満している。その酩酊に正気を取り戻す暇もなく、すぐにまた姉の唇が覆いかぶさり、再び姉の熱い舌が、僕の腔内粘膜を貫いた。

「はフゥんっ、チュ……ぅン……ちゅ」

 口の中の交わりが熱い。その熱に浮かされたように頭がくらくらする。

「ンんっ……ン、……ちゅっ……はあ」

 再度唇が離れると、今更思い出したように全身から粘着くような汗が滲み出した。

 頭が痛い。心拍数が急上昇し、心臓が脈打つたびに重い鈍痛が響く。

 姉は体を起こし、余韻を味わうかのように唇を舐める。

「姉……」

「ふふ、」

 俯いた姉が、微かに含み笑いを漏らす。

「姉さま?」

「ふふ……ふふふふふ、」

 それが段々と長く続き、やがて、ふわり、と姉が顔を上げる。

「勝太郎――」

「……っっ――!」

 突然、全身がすべての痛覚を取り戻した。

「――ゥが……⁉ 痛っつぅああ……っ‼」

 今まで忘れていた蝉時雨が、洪水のように周囲に戻った。

 身を捩ろうとすると、小枝や落ち葉が背中の下でパリパリと乾いた音を立てる。

 全身を万力で絶え間なく締め上げられ、責め苛まれるような激痛に身体中から軋みが聞こえる。

「あはははははははははっ!」

 火にかけた鍋の上で生きたまま焼かれる海老のように七転八倒しようとする弟の足掻きを心行くまで楽しむようにその上に跨り、苦しみのたうつ様を見下ろす姉は、崖から落下し倒れている僕の傍でそうしていたように取り乱し、悲鳴を上げながら泣きじゃくり、あてもなく助けを求め身も世もあらず泣き叫んでいた様子など今は微塵も見せず、まるで情事の続きを眺めるように、


 わらっていた。


「――これでもう、おまえは逃げられない」


 艶色に頬を染めていながらも、凄いような笑顔で苦痛に顔を歪める弟に跨り楽しげに見下ろす様は、先刻までともににこやかに山道を登っていた時の姉とは似ても似つかない。

 しかし僕自身のうちに突如芽生えたものは、倍増しに降りかかった激しい全身打撲痛に意識を明滅させながらも、まるで僕という虫けらに虫眼鏡を翳し、日光に焼かれギスギスとのたうち焼かれ悶え死ぬ様に目を輝かせながら見下ろしているかのような年上の少女の残酷で淫らな笑顔に、今まで感じたことのない――いや、この発奮はかつて一度だけ覚えがある。

 あの夕暮れの川辺で、一瞬姉が垣間見せた、あの顔。

 蛙を見つけた蛇同様の姉を前に、蛇に飲まれる蛙も同然なのにもかかわらず、僕は今もあの時と同様、激痛以上に身を貫く衝動に、射精を催す昂ぶりを禁じ得なかった。

(……ああっ)

 全身を襲う激しい痛みとは別のものがもたらす痙攣に意識を遠くさせながら、

最期の一瞬に過ったのは、

(……ああ、姉さまは倒れていた僕の傍で)


 姉さまは、泣いていたんじゃなくて、


 ――姉さまは、……最初からずっとわらっていた……?

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