6−34 俺にだって
「熱いから気をつけて食べてね」
「……」
「どうしたの? 身体、もう口を開けられないほど辛くはないでしょ」
静まり返っている室内に漂うのは、火竜たち自慢の米を用いて作られた温かな粥の香り。滋養に良いとされる薬味をたっぷり乗せた粥を盛った匙を差し出しているのは、大きな茶色の目が可憐な印象の少女だ。
「……」
「ほら、食べなきゃ元気でないわよ。あーん」
「――っ、ホワード妹ッ!!」
匙の先にいる青年がついに、耐えきれないといった様子で大声を上げる。震えた米がとろりと数粒流れ落ちるが、少女――エルシーは、小さなため息と共に素早くもう一方の手にある椀を添えて受け止めた。
「何するの、危ない。また火傷を増やす気なの? リンさん」
「それはこちらのセリフだ!」
しぶしぶ一度匙を戻し、椀の隅に立てかける。話を聞けといわんばかりの眼光を光らせている青年に目を戻すと、予想に違わず彼ははきはきとした調子で語り始めた。
「休養に入ってもう5日だぞ。食事くらい、ひとりで摂れる」
猛火の儀式、それに半端竜人オルヴァとの激闘を終えて数日。エルシーたち一行はリクスンの静養のため、いまだ火竜たちの集落に身を寄せていた。自分達のために快く住居を提供してくれた族長ギムリウスをはじめ、集落の住民たちはみな久々の滞在客を大歓迎してくれている。
「でも、怪我人は怪我人だわ。無理しちゃだめよ」
きっぱり言い切ると、指摘を受けた“怪我人”――リクスンは、居心地の悪そうな顔になって黙った。金髪頭の下には厚く包帯が巻かれ、頬には火傷に効く薬に漬け込んだ湿布が貼ってある。首から下も縦横無尽に包帯が走り、まるで繭に呑まれているかのような有様であった。
「それは……そうかもしれんが。しかし君の兄など、もう集落の大工仕事を手伝っているという話ではないか」
「お兄ちゃんは竜人で、あなたはもう只人よ。一緒にしないの。それとも、ツノや翼が恋しい?」
「そんなはずがあるか!」
即座に否定した怪我人は、ふんと荒々しく鼻息を落とす。火竜たちは床に直接寝具を敷いて暮らすらしく、彼もまた不思議な模様が編み込まれた質素な敷き布団の中で療養を進めている。包帯だらけの上半身が羽織っている薄手の着物も、これまた火竜たちから差し入れられたものだ。
「それに君だって、毎日ここへ通うのは手間だろう。やりたいことがあれば、そちらを優先してくれて構わないのだぞ」
「あ――あたしの仕事は、怪我人の経過を把握することよっ!」
中腰になっていた身体を、どすんと音を立てて床につける。直接床に座る作法に王女などは最初戸惑っていたが、養父である竜から正座をみっちり仕込まれたエルシーにとっては慣れたものだった。
「毎朝アガト殿も診て下さっているが」
「それはそれよ! だって、あんなにひどい状態だったんだもの。またぶり返したらって思うと……」
エルシーの胸が鈍く痛み、眩しい包帯の白から目を逸らす。戦い後の三日三晩、リクスンは竜人化したことによる消耗と反動で非常に苦しい時間を過ごした。しかも魔力点の多くが深く傷ついていたため、精霊による癒しの力を受け取ることさえ負担になると知恵竜に止められてしまったのである。
高熱により満足な睡眠も取れない仲間を前に、エルシーは何度も年長者に訴えかけたものだ。
“見てられないわ! あんなに苦しそうなのに”
“エルシーちゃん、ここは古来からの治療法に頼ることにしよう。辛いと思うけど、根気よくね”
その後は火竜たちの協力を得て、痛み止めや解熱剤の調薬に奔走した。いざとなれば精霊の力があると過信していた己に気づき、エルシーはこの数日を鬱蒼とした気分で過ごしてきたのだった。
「あの日、あたしがあなたを完璧に癒しきれていたら……」
「何を悔やむことがある」
すぐさま飛んできた言葉に、いつのまにか伏せていた顔を跳ね上げる。上半身をしっかりと起こした騎士が、明るい琥珀の瞳をまっすぐこちらに向けてきていた。心臓がどきりと素直に揺れる。
「セイルに聞いたのだが、俺の腕は完全に消失していたのだろう」
「! もう、お兄ちゃんったら……。言わないでって言ったのに」
「俺が無理に訊き出したのだ、責めないでやってくれ。事実、最後の記憶では腕のことはほぼ諦めていた――だから、真相を知りたくてな」
唯一包帯が巻かれていない、健やかな腕が毛布の下から現れる。青年が確かめるようにぐっと拳を握ると、筋肉の間を縫うようにして逞しい筋が浮かび上がった。
「本当に感謝している。敵の前では啖呵を切ったが正直、
「それはよかったわ」
「しかし驚いたぞ、まさかヒトの腕一本の再生も可能とは。君の癒しの力は、まだまだ発展途上にあるということなのか?」
「さ……さあね。精霊たちの気分がよかったんじゃないかしら」
穴だらけの説明をしてみるも、精霊に疎い青年はなるほど、と呟いて部屋の中を見回している。火精霊でも見つけてお礼でも言うつもりなのかと予測し、エルシーは微笑を浮かべた。
「そうだ。感謝していると言いつつ、まだ何も礼をしていなかったな」
「?」
「何か欲しいものはあるか? ホワード妹」
姿勢を正したリクスンが生真面目な声でそう提案するのを聞き、エルシーは無意識に両の手で拳を作った。心臓の音が妙にうるさい。
「欲しいものって」
「火竜たちの工芸品は美しいことで評判らしい。残りの給金は多くはないが、外出が許されたら市場へ出向いて――」
「そ、それって……モノじゃないと、だめかしら」
自分に似つかわしくない、蚊の鳴くような声。しかし二人きりの室内では聞き逃されることもなく、騎士は湿布の張り付いた頬を少し傾がせて答えた。
「そうだな、あまり多くの宝飾品は旅の邪魔にもなるとも限らん……。では、なにか俺にできることはないか?」
「じゃあ、キスして」
「ああなんだ。そんなことか――」
静寂が降りる。広い族長宅の奥間であるこの部屋に遠く聞こえてくるのは、ごうごうという火山が脈動する音。時折屋外のどこかから、薪割りをしているらしいパカーンという気持ちの良い音も響いてくる。平素のこの集落は実に、のどかで居心地のよい場所であった――。
そうしてたっぷり数十秒が経過したあと、石化を自力で脱した直後のごとく、青年が息を切らして叫ぶ。
「なっなななな何を、何を言っているのだ君はッ!?」
「そこまで動揺することないじゃない!? 失礼ね」
「そっ、そういう意味ではないッ!」
「じゃあなんなのよ、もう! こっちまで恥ずかしくなってきたじゃない!! 良いでしょ、減るもんじゃないんだから! キスのひとつくらい」
半ば自棄になり、エルシーは毛布の端に手をついてぐいっと上半身を乗り出した。慌てて同じ距離を下がろうとしたリクスンが、肩を壁にぶつけてハッとした顔になる。寝床が設られている場所は、逃げ場のない部屋の隅なのだ。
「お、落ち着けッ! ホワード妹」
「落ち着いてるわ。あたし本気よ」
「分かっている! 君の気持ちは、その……理解しているつもりだ。しかし」
「そうよね。じゃあ――」
次はエルシーが、呼吸も含めたすべての活動を停止させる番だった。瞬きも忘れ、少女はぎぎぎと顔を動かして発言者を見る。
「今、なんて……」
「伝えてくれただろう。俺が負傷し、落下している最中に」
「な、なんっ……なんで!? あの時のことは、記憶になかったって」
エルシーがこの青年への想いをすべて告白した、あの風の中。彼は確実に意識を失っていたし、その後の地上でもそう言ったことを確認した。少し残念でもあり、聞かれなくてよかったとも思っていた秘密だったというのに――。
磨き込まれた木の床に、思わずストンと尻をつける。放心している自分を見たリクスンが、困ったように視線を彷徨わせて言った。
「確かにそうなのだが……ああ、ちょうど近くにいてくれたか」
エルシーがのろのろと青年の視線を追うと、換気のためにくり抜かれた窓からふわりと赤い物体が入り込んできたのが見えた。この集落ではどこでも見かける火精霊かと思ったが、怪我人の乱れた毛布の上に軽やかに着地してきたその存在には、立派な耳と尻尾が生えている。
「あ……この子、アガトさんの魔法獣ね。あたしにくっついてくれてた子だわ」
「そうだ。知恵竜殿の使いとして、こうしてたまに様子を見に来てくれるのだ」
「へえ――じゃなくて! この子が今、何か関係があるの!?」
毛布の上を遠慮なくのしのしと歩き回る魔法獣を指差し、エルシーは乱暴に問う。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。いや、その気になれば呼応した火精霊たちが、この部屋に押しかけて舞い踊るかもしれない。
「ああ。この魔法獣が、あの落下中の出来事をすべて教えてくれた」
「この子が!? 勝手に喋れるの」
「いや、強い魔力を感知し、自動記録した……とアガト殿は言っていた。君の声で――」
『“なによ、自分だけ満足したカオしちゃって!”』
「っ!?」
猫に似た口をカッと開き、魔法獣は甲高い少女の声を部屋中に響かせる。紛れもない自分の声に、エルシーは唖然とするしかなかった。
「こ、これ……ホントに、あの時の」
『“あなたにとってはただの、そんな子供なの?”』
「きゃあああ! ち、ちょっとやめて!! 正確に再現してんじゃないわよ!!」
大赤面したエルシーが手を伸ばすよりも早く、魔法獣はしなやかな身体を浮かせて壁を蹴った。怪我人の金髪頭を踏み台にし、ひらりと宙へ舞い上がる。
『“好きなのよ、リクスン・ライトグレン”』
「〜〜〜〜ッッ!!!!」
器用に目を細めて機嫌良く微笑み、魔法獣はそう言い残して屋外へと消える。脱力して座り込んだエルシーを見、騎士が恐々と言い加えた。
「今朝、アガト殿が連れてきてくれたのだ。戦闘後ずっと太っているのが気になっていたと仰っていたが、どうやらあの記録を腹に溜めていたのが原因だったらしい」
「どうでも良いわよそんなこと!」
「いいや、良くはない」
「!」
羞恥に込み上げてきた涙を押し込めていたエルシーは、その真剣な声にようやく顔を上げた。包帯の下にあるのはいつもの頑固者の顔だったが、少し今までと違う柔らかさも湛えているように見えるのは――気のせいだろうか?
「俺にとっては大事なことだ」
「リンさん……」
「アガト殿は先に記録を聴いてしまったことを詫びると共に、俺に確認して下さったのだ」
「確認?」
「ああ。これを聴けば、君と――今までの関係ではいられなくなるだろう、と」
「!」
どくん、と胸が高鳴る。近づいてくる足音のように、だんだんとその鼓動は速さを増していく。
「それでも俺は、聴きたいと申し出た。聴き逃してはならないと直感したのだ」
「……だったら」
喉が乾く。この集落の暑さを加味したとしても異常なほどの、張り付くような渇き。声をうまく出せているのか分からないほどだったが、エルシーの唇は自分の胸の内を素直に紡いだ。
「だったら、あたしの気持ちは分かったってこと、よね」
「ああ。いくら色恋沙汰に疎い俺でも、君の意向は理解したつもりだ」
「なら」
ふたたび床板に静かに手をつき、エルシーは想い人へと身を寄せた。キッと小さく木板が軋む。それ以外の音は吹き飛び、静寂がジンジンと耳を震わせた。
「なら、さっきの“ほしいもの”……貰って、いい?」
「……すまない」
「!」
本当に背中に雷が落ちたのかと思うほどの衝撃だった。手足が、そして全身が痺れ、感覚が遠のく。自分が相当なショックを受けていることに気づき、同時に拒絶された悲しみが渦となってエルシーを呑み込んだ。
「……そう。だめなのね」
「ああ。……本当に、すまない」
重ねられた否定に、少女の心が重く沈んでいく。聞き間違いでも何でもない。自分は彼にとって、“色恋沙汰”の対象ではなかったのだ。
「ゴブリュードの騎士規範では、そのような行為が可能となるのは女子が16、男子が18に達した時点からと定められている」
「………………えっ?」
長い長い黙考の果てに、少女はようやくその素っ頓狂な声で応答した。対する騎士は、胡乱げに太い眉を寄せて言う。
「君は、まだ15だろう?」
「そ……そうよ」
「そういうことだ。気持ちは嬉しいが、小範囲だとしても接触を伴うようなやり取りはだな――」
「ちょっと……ちょっと待ちなさいよ!」
ばんと木の床を両手で打つと、盆の上で冷め切ってしまった昼食が一瞬宙に浮上する。大声のせいで誰か駆けつけてくるのではと頭の隅で理性が警告したが、エルシーは気にもせずに怒鳴った。
「何よ、規範って!? わざわざそんな理由つけなくたって」
「それ以外に理由など無いが?」
「!?」
「これは騎士である以上、厳守せねばならん掟だ。旅途中とはいえ、王女の側付である俺が破れるはずもない」
「じゃあ、なによ……。つまり、それって……それっ、て」
喉に何かが詰まったように、急に勢いが失速する。声が震えはじめた。
「あたしと、“そういうこと”、するの……イヤじゃない、ってこと……?」
「ッ!」
明らかに身を強張らせた騎士は、たっぷり数秒を置いたあと大きく息を落として呟いた。また熱を出しているのかと思うほど、耳が赤い。
「……ああ。そういう、ことだ」
感情がぐちゃぐちゃに絡まり、上手く処理ができない。木材を売りにいく町では大抵の住人たちに「大人びてるねえ」などと褒められてきた自分が、まさに子供のように泣いている。
これでは確かに、艶のある口づけなど果たせるはずもないと思えば、どこからか可笑しな気持ちが駆け上がってきた。
「ふ……ふふっ。もう……なんなのよ……ふっ、あははは!」
「わ、笑うなッ!」
「だって、だって! 絶対、フられたと思うじゃない、あの言い方じゃ……ふっ……うう……っ」
「泣くな! ええい、どうしてこう君の感情は忙しいのだ!? さっぱり分からん」
こぼれ落ちる涙を見て狼狽する想い人の姿に、また可笑しさが込み上げる。それでも今は安堵の気持ちが優っていた。エルシーは気持ちが晴れるまで泣き、赤くなった目を擦る。
「はー、さっぱりしたわ」
「俺は生きた心地がしなかったのだが……」
げっそりとした顔でそう呟く顔に笑みを返し、少女は少し考えた末提案した。
「ねえ。たしかにあたしは15歳だけど、あとひと月もしないうちに誕生日よ」
「それがどうした」
「おまけしてくれない?」
「なッ!?」
毛布の乱れを伸ばしていたリクスンが仰天するが、その隙を見逃す狩人ではない。エルシーは今度こそ素早く想い人の顔の正面を捉えた。鼻がぶつかりそうなほどの距離で、青年の琥珀が驚きに光る。視線が交錯した。
「ホワード妹――」
「名前で呼んでよ。お兄ちゃんだけずるいわ」
「ま、待てッ!」
強い力で肩を掴まれ、ぐいと後ろに押される。相当に手加減したのか痛くはなかったが、またもや機会を逃したエルシーはむうと頬を膨らませた。
しかし次の瞬間、騎士の口から思わぬ言葉が転がり出る。
「頼むから、発破をかけるのは
「……!」
その意味を考えたところで、ぼんっと顔が上気する。温めすぎて破裂したパイのようだ。血が煮え立つように熱く感じ、少女は肩に置かれた手を掴んで押し返しながら叫ぶ――木こりは諦めが悪いものなのだ。
「な、なら良いじゃない! 誰も見てないわよ。あのお節介な魔法獣だってね」
「駄目だッ‼︎ 目撃者がいないからといって、規範を破って良いわけが」
「見てなきゃ何もなかったのと同じだって、いつもお兄ちゃんが」
「そんなところばかり似るな! 先ほどから君は一体、何を焦って……っ、
半端に上半身を逸らしていたことで身体に負荷がかかったのだろう、リクスンは寝具に片肘をついて顔を歪めた。ハッとしたエルシーは慌てて怪我人から離れ、腹部を押さえている彼を支える。
「ごめんなさい。ほら、もうふざけないから、横になって」
「す、すまん……」
ぎこちない動きでなんとか身体を横たえ、騎士は大きな息を吐いた。エルシーは火照った頬を片手で煽ぎつつ、盆を少し引き寄せて言う。
「冷めちゃったけど、落ち着いたらご飯食べて。よく眠れる香草入りだから」
「ああ、了解した。……君との件は誕生日を迎えてから、正式に進めるとしよう」
「正式にって?」
「姫様や義兄上にもお伝えせねばならんし、それに……君の唯一の家族にだって断りを入れねばならんだろう」
「あなたとお兄ちゃんが、そんな話を? だめ、考えるだけで笑っちゃう」
「何故だ!?」
ふと思い至り、最後の望みを胸に抱いてエルシーは問う。
「そういえば、名前で呼んでほしいって言ったじゃない。あれはどうなの」
「すまんがそれも出来ない。規範では、“特定の異性と親交を深める目的で名を呼び合う場合、両家長の了承のもと――”」
「はいはいはい、分かったわよ。それに規範とやらを作った騎士が、とてつもなく頑固で融通が効かないひとだってこともね」
「それの何がいけないというのだ」
若葉色の髪を揺らし、少女はくすくすと笑った。この部屋に来てようやく、自然な笑顔を浮かべることができた気がする。
「でも、いいわ――楽しみにしてる」
*
空になった食器を盆の上に並べつつ、少女はひとり部屋の静けさに耳を澄ませた。天井から垂らされた色鮮やかな染め布が生温い風にさらされ、時折はためいている。先ほどと違うのは、静寂にすうすうと穏やかな寝息が混じっていることだ。
「……」
当たり障りのない話題を口にしつつ問題なく食事を終えたリクスンは、横になるなり深く寝入ってしまった。食事前のようなやりとりを交わせるほどの体力が戻っていない証拠だろう。怪我人に無理をさせてしまったと、エルシーの良心がちくりと痛む。
「わがまま言って悪かったわ。リンさん」
静かにそう語りかけつつ、エルシーは感覚を研ぎ澄ませた。近くにあの魔法獣はいない。この“ひとり言”は記録されずに済むだろう。
「この部屋に毎日来るのはね、単純に……あなたの顔が見たいからよ。相変わらず、鈍いんだから」
もちろん反論はない。何の心配事もなく、もはや過去の悪夢にうなされることもないだろう騎士の寝顔は穏やかだ。薄く開いた唇からは、いつもの小言ではなく静かな寝息だけがこぼれ落ちている。
「でも、ごめんなさい」
細心の注意を払い、少女は音もなく想い人に顔を寄せる。安眠を誘う香草をいつもよりひとつまみ多く入れた効果はてきめんだった。自分から落ちる影が彼の顔を覆っても、起き出す気配は微塵もない。
「あたし今から――あなたの大嫌いな、“ずる”をするわ」
己に言い聞かせるように呟き、少女は花弁を思わせる形の良い唇を想い人のそれに重ねる。食事を摂って体温が上がっているのか、彼の唇は熱が篭っているかのように温かかった。その弾力を確かめるように少し押し、エルシーは静かに顔を離す。
頬が熱い――火山の洞穴にいた時よりも、ずっとずっと。
「!」
元の位置に体を戻したエルシーは、火照る頬に手を遣って驚いた。濡れている。いつの間にか瞳から溢れた涙は頬の温度に比べ、やけに冷たく感じた。
「……ねえ、リンさん。“なかったこと”に、ならないかしら」
新たな涙と共に、震える声が落ちていく。何も知らず眠り続ける青年を見下ろし、エルシーは毛布の端をくしゃりと握りしめる。
「あなたと喧嘩したこと、冒険したこと……少しだけど、笑い合ったこと。お城の湖畔で出会ったあの夜から、今のキスまでの全部を――なかったことに」
身体の中がざわつく。気まぐれで近くを漂っていたらしい小さな火精霊が、ふっと揺れて姿を消した。まるで、おそろしいものから逃げるように。
「わかってる、できっこないわよね。でもこのままじゃ、あたしはきっと……」
ひとつの精霊の気配もない部屋の中、少女は振り絞るような声で言った。
「きっと“その時”に……泣いてしまいそうな気がするの」
<第6章:炎の還る場所 完>
***
あとがき的近況ノート:
https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330651280791989
こんな読み物もございます↓
『ドラ嘘Tips:姫と騎士はなぜくっつかなかったのか』(イラストつき)
https://kakuyomu.jp/users/fumitobun/news/16817330653414069855
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