6−20 やってごらん

「――冗談でもそれはダメでしょ。リンちゃん」

「!」


 熱を孕んだ火山の空気を揺らめかせたのは、よく通る涼しげな男の声。フィールーンを覆うように展開された魔法、その薄くも強靭な護りの壁は見事な七色に輝いている。


「せん……せ……」

「あーあ、ひどい顔しちゃって。遅くなってごめんね、フィル」


 労わるように頭上に置かれた褐色の手を辿っていくと、優美なローブに身を包んだ長身の優男――アーガントリウスがこちらを静かに見下ろしていた。そう言われてはじめて王女は、自分が泣いていることに気づく。


「そんなに泣くと干からびちゃうよ、可愛い弟子ちゃん。それに乙女の涙の受け皿にするには、この火山の赤土じゃあまりに趣がないってものよ」


 師である竜アーガントリウスは腰を折り、慣れた手つきで王女の頬を落ちるしずくを拭う。少し火の魔力を流したのだろう、彼の細い指の上で涙は静かに空気に溶けていった。


「薬は難しい工程を越えたから、タルちゃんに任せてきた」

「先生……リクスンが……リンが、竜人に」

「わかってる。あんま、わかりたくないけどね」


 紫色の長髪を背に流し、同じ色の瞳で師は戦場となった広場を見渡した。彼の強力な防護壁に突っ込んだ竜人リクスンは、納屋のほうに弾き飛ばされたらしい。さきほどまで木こりとの談笑に興じていた小屋は無残に倒壊していた。


「リン!」


 フィールーンが青ざめるより早く、瓦礫の中央がもぞりと膨れ上がる。石や木片をまといながら、橙色の影がゆっくりと身を起こそうとしていた。


「さすがに丈夫だこと。でもちょっと、大人しくしててもらおっか」


 アーガントリウスが片手を持ち上げると、納屋の周辺の岩肌がぞぞぞと脈動しはじめる。黒い砂埃をあげた刹那、岩肌はまるで熱された鉄のように一斉に宙へと立ち上がった。


「!」


 遮蔽物により、竜人は魔法の発動に気づくのが遅れたらしい。急いで翼を広げようとするも、知恵竜の魔法が完成するほうが早かった。水面でもがく羽虫をばくんと飲み込んだ魚のごとく、黒い土壁は元仲間を完全に捕らえてしまう。


「よっしゃ! でかしたぜ、じいさん!」


 その元気な声にハッとして空を見上げたフィールーンは、これまた心臓が縮みそうな光景を目にした。竜人オルヴァの大きな異形の手に拘束されたセイルの姿である。 


「よっしゃじゃないよ、この“ナンルードの逆さ葛”。大事な女のコ泣かしてんじゃないの」

「う、うるせーな! てめえも、いつまでも引っ掴んでんじゃねえ!」

「おっと」


 煮え立つように紅く輝いた大戦斧を見るなり、オルヴァはぱっと手を離して紺碧の竜人を解放した。翼で空を打って距離を取り、仲間は地上こちらへと急降下してくる。リクスンを覆う土壁とフィールーンたちの間に着地したが、戦斧は構えたままだった。


「まさか蒸し焼きにしようってわけじゃねえよな、じいさん」

「そんなモノ、火蜥蜴だって食べやしないよ。土壁の強度はなかなかに上げてあるけど、中で暴れているみたいだから長くは保たないかも」


 魔法の主が肩をすくめてみせた通り、黒々とした半球状の壁の中から打撃音が響いてきた。囚われた竜人が魔法を破壊しようと躍起になっているらしい。フィールーンは慌てて師の着物にすがり訴えた。


「先生! 竜人は――リンは、炎の剣を持っているんです。もし、あんな空間で使用していたら」

「してるみたいよ、全力で。だから“お喋り”は手早く済ませなきゃね」


 朗らかにそう笑ったあと、数百年を生きる竜の瞳がすっと細くなった。その冷たい光が射抜くのは、唯一空中に留まっている騒ぎの仕掛け人である。


「お前、あの時の使用人じゃない。うちの若者たちに、なんてことしてくれちゃってんのよ」

「光栄でございます」

「だから褒めてないって」

『お兄ちゃん、フィルっ!』

「!」


 アーガントリウスの袖付近から急に少女の声が響き、フィールーンは飛び上がった。見ると、着物の中からもぞもぞと這い出てきたのは師の魔法獣。ずいぶんと小型化して可愛らしい姿となったその獣は、小さな牙を持つ口を開くと聴き慣れた仲間の声を発した。


『あたしよ、聞こえる!?』

「エルシーさん! よかった」

「無事か!? 今どこにいる」


 フィールーンの安堵に、エルシーの兄である竜人の声も重なる。聡い少女はちゃんとどちらも聞き取ったらしく、弾んだ声を返してきた。


『ええ、大丈夫。儀式の守護者である不死鳥が守ってくれたの。今背中に乗せてもらって、そっちへ向かってるわ』

『よく言ったものじゃなあ、娘。無理矢理飛び乗っておいて』


 はじめて耳にする声が割り込み、フィールーンは目を丸くする。聞き間違いでなければ少女は今、不死鳥の背中に乗っていると言っていたが――。


『我の背中は高くつくぞ、まったく……。知恵竜よ、聞こえておるか? 若者どもの無礼の代償、貴様にすべて請求させてもらうからの!』

「久しぶりだってのにずいぶん素敵な挨拶じゃないの、ファレーア。元気?」


 のんびりとした老竜の挨拶に、“不死鳥”はキーキーと独特な文句を垂れた。一部フィールーンにも理解できない言語が混じっていたが、師匠は苦笑して「調べなくていいよ。耳が汚れるから」と小声で言う。それから真面目な表情に戻り、改めて暗い空を見上げた。


「調薬場から外に出るまでの間に、エルシーちゃんから事情は聞いといた。リンちゃんが竜人化したのは、火竜たちの儀式が終わってすぐ……つまり、ついさっきってこと」

「だからなんだってんだよ、じいさん」


 内包者が暴れる地響きに合わせ、土壁からぽろぽろと破片が転がり落ちる。それを睨んでいた声の主――竜人セイルが、彼にしてはめずらしい陰気な声で続けた。


「……手遅れ、なんだろ。こうなっちまえば」

「っ!」


 エルシーの無事に少しだけ明るさを取り戻していた王女の心が、その一言にふたたび凍りつく。臣下の異形姿を認めた時にきっと、彼もフィールーンと同じ記憶に突き刺されたに違いない。


“身体と精神のすべてを竜人の力に呑まれてしまえば、その者はもはやヒトや竜のことわりには戻れない”


 この場の戦いが始まってすぐに、あの半端竜人が告げたことだ。のちに若者たちに残酷な邂逅が訪れることを知っていて放った一言だったのかもしれない。その思惑通りに胸を痛めるのは悔しかったが、フィールーンの喉には自然と熱い塊が込み上げてきた。


「リン……。本当に……?」


 あの快活で誠実で、誰よりも自分を気にかけてくれていた青年が。


“ホワード、貴様ッ! また勝手に食料に手をつけおって!”

“食い足りなかった。あとで同じのを採ってくる”

“そういう問題ではない! いいか、団体行動というものは――姫様? なぜそのようにお笑いになるのです”

“ごっ、ごめんなさい。ふふっ”


 堪えきれずに結局笑ってしまった自分を見下ろし、困ったように金髪を掻いた臣下。こんな日常はもう、今では当たり前になっていた。


 そしてもう二度と、このようなやり取りを目にする日は来ない。


「へえ。どこ情報よ、それ? セイちゃん」

「どこって……この変態使用人が」

「敵の情報を鵜呑みにしちゃうわけ? フィルも? あーあー、竜人サマってのはホント、純真でかわいいねえ」

「!」


 その呆れ声に、フィールーンは急いで顔を上げた。腕組みをした師はいつもの澄まし顔のままだ。黒い長髪を伴って振り返ったセイルと自分を交互に見、その端正な顔をわずかに傾けてみせる。


「聡明なオトナである俺っちなら、こう考えるけどね。敵はこちらの戦意喪失を狙って、嘘をついているんじゃないか――って」

「!」


 この言葉に若者たちは固まったが、空中でもひとつの羽ばたきが停止した。すぐにその灰色の翼はまたゆったりと風を捉えるが、一瞬走った感情の揺らめきはフィールーンの観察眼にしかと記録される。


「ど、どういうことですか、アガト先生! リンは……私の側付は、助かるんですかっ!?」

「まずどんな場合も“助かるかどうか”じゃなくて、“助けるにはどうすれば良いか”を考えるべきだと思うけどね。けどその楽しい学びは、また今度の機会ってコトで」


 知恵竜の細長い指が、王女の視線を空へと誘う。


「“嘘の闇に潜むは、真実の光”――嘘は決して真実のすべてを覆い隠すことはできず、光はそのとばりの向こうで絶えず輝いている。お前たちが大好きな堅苦しい魔術書の言葉だけど、なかなか言い得て妙じゃない」

「……」


 火山雲を背負うオルヴァの瞳から、金と灰色の光がゆらりと立ち昇る。師は不敵な笑みを彼に送ったあと、フィールーンを見下ろして続けた。


「最悪の一点だけに目を向けさせて絶望を植え付けるのは、嘘つきの得意とする手だ。とくに純真な、君たちみたいな若者にはね。そして純真じゃないオトナは、それを覆す方法を知っている」

「先生、それは」

「そりゃもう単純明快よ。文字通り、敵の嘘をひっくり返せばいいってコト」


 なにかが閃きそうなのは感じるものの、最後の一手が詰められない。もどかしさに唇を噛みながら、フィールーンは考えを巡らせた。


「“竜人の魔力に呑み込まれた者は、元の理には戻れない”――つまり呑み込まれていなければ、まだ引き返せるということ……?」


 この呟きに師は満足げにうなずいて見せたが、フィールーンよりも短気な竜人が先に抗議の声を上げた。


「だからそれが問題なんだろ、じいさん! 騎士の竜人化はもう、そこの使用人をとっくに越える具合レベルで進んでる。今更“引き返せる”とは思えねェ」


 セイルが噛み付くように言ったこともまた事実だった。完璧な対称を描く2本のツノと身体の広範囲を覆う鱗、それに均整のとれた翼と尻尾。リクスンの竜人姿はもしかすると、すでに自分を上回る“出来”なのではないか――フィールーンもそう思い至り、ごくりと唾を呑む。


「見た目だけに囚われないの。とくにフィル。陰湿な魔術師どもと戦う時に気をつけなきゃならないコト、ちゃんと教えたよね?」

「えっ……先生、まさか!」

「やってごらん。貴重な実践の機会だよ」


 フィールーンはどきどきと早鐘を打つ胸を鎮め、大きく息を吐いた。一度目を閉じ、身体中を血流のように巡る魔力に意識を溶け込ませる。


 その力の行き先は、己の瞳。


「!」


 師の創り出した魔法は今、土壁ではなく地の魔力の塊として、フィールーンの視界の中心で小麦色に輝いていた。その奥に、かがり火のように紅く燃える力が視える。暴れるような、強い火の魔力――。


「あ、あれは!?」


 驚きのあまり、思わず王女の喉から声が出る。火の魔力はたしかにヒトの姿を象って燃えていたが、その至るところに不自然に絡みついた黒い影が視えたのだった。翼の一部や尻尾の先端、さらには片方のツノも黒く染まっている。


「魔力が……上書きされている?」

「よく出来た。さ、楽にして。続けるとあまり目に良くないのよ」


 トンと肩を叩かれ、フィールーンの集中は解けた。瞳が不思議な熱を持っていることに気づいた途端、軽い頭痛を覚える。となりの大魔法使いは褒めるように静かに笑み、たしかな確証を込めた声で告げた。



「リンちゃんは完全な竜人化なんてしていない。ただそう“視せて”んのよ――どこかの、性悪使用人がね」



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