5−33 絶対に離さないから

「はぁ、もう……! こんな少女相手に、力いっぱい縛ってくれちゃって」


 荒縄が食い込んだ両手首を見下ろし、少女――エルシー・ホワードはひとり毒づいた。しかし一方で、わずかにありがたいとも思う。魔力を大量行使した反動で、一瞬でも気を抜けば深い眠りに落ちてしまいそうだったからだ。


「……」


 きらびやかだったドレスはすでにあちこちが破れ、見るも無惨な姿となっている。けれど紅色のものを選んだのは幸運だったかもしれない。まだ乾き切っていない同色の液体を隠すには適任だろう。


「白粉くさい。ここは、あの女の私室かしら」


 しんと静まり返った薄暗い部屋を見回し、エルシーは普段通りの口調で言った。あえて口に出したのは、室内に配された見張りがいないかを確認するため――そしてすでに屋敷に侵入を果たしているかもしれない仲間が、運良く聞きつけることを願ってのことである。


 しかし反応を示したのは、意外な人物――唯一の“連れ”であった。


「うっ……」

「! リンさん!」

「……ホワード……妹……?」


 自分のとなりに転がされていた騎士リクスンが、ついに重いまぶたを開けた。思っていたよりもずっと早い回復を見、エルシーは嬉しいやら可笑しいやらといった気分で明るい顔になる。


「ここ、は……」

「バネディットの屋敷で、おそらくあの女の私室よ。あたしたちはあの“遊戯”のあと捕まって、ここに連れてこられたの。フィルは無事に逃げたから、心配しないでいいわ」


 この青年は開口一番に主君の安否を案じはじめるだろうと予測し、エルシーはやや早口で状況を説明してやった。けれど王女が“竜人”になって大暴れし、さらには自我をもった精霊とともにひとり脱獄したということは伏せておく。


「君は」

「え?」

「君は、大事ないのか……? 血の匂いがするぞ」

「っ!」


 気遣うように向けられた琥珀の目に、エルシーの心臓が不規則な脈を送り出す。普段と違って見えるのは彼が弱っているからだと言い聞かすも、少女は裏返りそうになる声を必死に御して答えた。


「こっ、これはほとんど、あなたの血だから。あたしは別に、どうってこと」

「そうか、よかった……。君が、俺の傷を癒してくれたのだろう。恩に着る」

「お、おっ――起きてたの!?」


 月明かりの元でもはっきりと分かるほど、顔が赤面していく。後ろ手に縛られている騎士は、壁と腹筋を使ってなんとか上体を起こそうとしているところだった。まだあちこちが痛むのか、いつもより覇気のない声で彼は答える。


「いや、意識はなかったのだが……。なんとなく、大きな力が身体を流れていくのを感じていた」


 どうにか座位になり、リクスンは金髪頭を壁に預けてひとつ息を吐く。その様子を、エルシーは身を硬くして見つめる。すると疲労をにじませた顔の中にひとつ、少年のように澄んだ笑みが浮かんだ。


「すぐに君だと分かったのだ――太陽のような、その温かさでな」

「……っ」


 今が真昼であったなら、少女は這ってでも確実に部屋を飛び出しただろう。消耗しているはずの身体は今や隅々まで火照り、首筋が勝手に汗ばんでいく。


「リン、さん……」

「む?」

「あ、あたしは――」


 乾いたはずの目元がふたたび湿っぽくなったその時、荒々しい音と共に重厚な扉が開け放たれる。暗闇に慣れ切った目に飛び込んできた明かりの眩さに、エルシーは言葉を呑んで目を細めた。


「お目覚めかしらぁ? おふたりさん」


 ドンと乱暴な音を立てて文机に明かりを置いた様子に反し、入室者――バネディット夫人の声は不気味なほどに静かだった。エルシーはわずかに身を後退させたが、背筋を伸ばして女の巨躯を見上げる。


「素敵なお部屋へのご招待、感謝いたしますわ。夫人」

「ふん、虚勢を張るんじゃありませんわよ小娘」

「そちらこそ」


 敵意をたっぷりと込め、エルシーは黒い女を睨めつけた。彼女の手には見慣れぬステッキがある。


「賑やかな夜にずいぶん“お疲れ”なんじゃないかしら? 早急にそこのベッドに入ることをおすすめするわ」

「あらまぁ、ご心配ありがとう。けれどね、これは……夫のものだったこの杖は、身体を支えるために持ってきたのではないの」


 明らかな挑発にも乗ってこないその様子を不審に思い、少女は口を閉ざす。バネディットはにんまりと口の端を吊り上げ、紳士用のステッキでトントンと床を突いた。


「この祝いの場には、亡き夫にも同席してもらうのが筋というものでしょう?」

「なによ、それ……」


 背筋が粟立つのを止められない。エルシーが緊張した顔を向けた先で、夫人は太い指で愛おしそうにステッキを撫でていた。


「だってあんなにも辛酸を嘗めさせられた、憎き相手が目の前にいるんですもの。ねぇ――騎士さんッ!」

「ぐっ!」


 甲高い声とともに振り下ろされた黒い凶器が、となりの騎士を容赦無く打つ。臓腑が凍りつくようなその鈍い音に、エルシーは先ほどまでの強気をかなぐり捨てて叫んだ。


「リンさんっ!!」

「……っ、平気だ。動く、な」


 打たれた腹をかばうように背を丸めたリクスンだったが、その強い眼光はエルシーへと向けられている。


「あらあらあらぁ、やっぱり丈夫ですこと! オルヴァからの報告どおり、負傷のほとんどを治したのですわね。ああ、本当に良かった」

「何、だと……?」

「ええ。そうでしょう? だって――」


 宝石に彩られた指の中でステッキを持ち直し、女は残忍な笑みを浮かべた。


「すぐにしまっては、興醒めというものですからね」

「あ……あんた……!」


 エルシーの無礼な呼び方にも、もはや夫人は反応を示さなかった。カエルのように横に広がった顔には、ぬらぬらとした昏い悦びだけが躍っている。上等な絨毯を踏みしめ、女はずいとこちらに身を乗り出した。


「ああ、あなた――見えますか? わたくしたちの憎き騎士が今、目の前におりますのよ! しかもあの騎士隊長の弟だなんて、この上ない幸運じゃありませんこと?」

「く……貴様……!」

「正当なる鉄槌を与えんがため、どうかこの細腕にお力をお与えくださいませ」

「しつこいわね、あなたも! 色々と笑いたくなっちゃうわ」


 天を仰いでいた短い腕が、ぴくりと動きを止める。エルシーは胸に渦巻く淀みを、惜しみなく吐き出した。


「何が“正当なる鉄槌”よ! あんたたちがやっているのは、ただの拉致と人身売買――外道の商売だわ」

「……なんですって?」

「やめ、ろ……ホワード妹……ッ!」


 呻くような制止の声も、沸騰せんばかりの熱を持ったエルシーの耳には届かない。屋敷の女主人の巨体に、自分たち兄妹の森へと舞い降りた赤い“災厄”の姿が重なって見えた。


「どうしてよ……!」


 あの時とは違うと理性では分かっていながらも、少女の脳裏には焼けた森の姿が浮かんだ。黒く焦げて散りゆく葉に、血だらけの竜と兄。それから――今は記憶の中だけでしか会えない、広い背中。


 胸を抉るような痛みを発散させんがため、エルシーは現実を睨んだ。


「他人の人生をめちゃくちゃにして、何が面白いの? それで得たお金で食べるご飯は美味しい? あんたは哀れで最低な女だわ、ドローザ・バネディット!」

「そう……そうかも、しれませんわね。わたくし、たしかに愚かでした」

「!?」


 あっさりとした肯定に、エルシーはハッとして目を見開く。目の前にいるのはかつての竜人女ではなく、もっと深い憎悪にまみれた――ひとりのヒト。


「メインを味わう前に、まずは前菜をなくてはね」

「あ……!」

「残念ですけれど、あなたはとても“商品”にはできそうにありませんわぁ。ここで処分してあげましょう。さようなら、生意気なお嬢さん!」


 処刑台から落ちる刃のように、あっという間に黒い輝きがエルシーへと迫る。疲弊しきった身体では防御反応を示すこともできずに、少女はただ顔を背けて固く瞳を閉じた。


「ッ!」


 ふたたびあの恐ろしい音が響く。その後に少女の耳に届いたのは、女の荒い息遣いと――


「彼女を傷つけることは……断じて許さんッ!」

「!」


 獅子の唸りを思わせる低い声に、エルシーは急いで目を開けた。振り向くと、膝立ちになった広い背中が目に入る。血に染まった紳士服をまとう青年に、エルシーは悲鳴に似た声を投げた。


「リンさん!?」

「冷静になれ、ホワード妹……。君らしくない、ぞ……」


 こちらを見下ろした騎士の額から、新しい血の筋が流れ出る。エルシーは頭に血を昇らせていた己を呪い、唇を噛んだ。そこへ震えるような嘲笑の声が響く。


「どんな場でも騎士は騎士、というわけですのね。ああ、お美しいこと!」

「っぐ!」


 重苦しいドレスの裾から飛び出した太い足が、リクスンの身体を床へとなぎ倒す。エルシーが身動きするよりも早く、夫人は容赦なく青年の肩へとステッキを突き立てた。


「ぐ、あぁッ――!!」

「いやぁっ、リンさん!」


 さすがに苦痛の声を上げる騎士を見、エルシーは緑髪を振り乱す。上等な杖先が抉っているのは、まだ完全には治癒していない肩の傷だ。ふたたびあふれ出る血と同じく、少女の目にも涙が迫り上がってくる。


「やめて……やめてよッ!」

「そこから動くんじゃありませんわよ。でないとこの騎士の肩は、二度と剣を持てぬほど傷つく羽目になるでしょう」

「どうして……どうして、そんな」

「ああ、良いですわぁその顔! あなた、その表情のほうがよっぽど魅力的でしてよぉ。お仲間のことが心配でしょう? ほらほら、もっと愉しくなりますわよぉ!」

「がっ――あああッ!!」


 水っぽい音を響かせ、さらに杖の先端が赤い身体へと沈められる。たまらず跳ねる青年の身体を目にし、少女の頭は真っ白になった。


「……お兄、ちゃん」


 塩辛い水が触れた唇から、無意識に言葉がこぼれる。それを耳にした凶人は、さらに悪辣な笑みを深めて叫んだ。


「まあ、ようやくしおらしくなったのね! そう言えば、あなたのお兄様もひどいお人ですわねぇ?」

「……?」


 涙に濡れた顔をぼんやりと上げると、幅広の顔が目を剥いて嗤っていた。その足元で凶器に縫い止められた騎士が、歯を食いしばって身を捩っている。


「妹を置いて立ち去った挙げ句、助けにもこないなんて。薄情じゃありませんか。あんなに大きい身体をしているのに、案外小心者なのかしらぁ?」

「……兄を、侮辱しないで!」


 色を失っていた瞳に、強い光が宿る。エルシーは本来の素早さを発揮して手を伸ばし、黒く冷たいステッキを握った。


「お前っ――離しなさい!」

「蹴るなり打つなり、なんとでもしなさい。絶対に離さないから」

「ホワード妹……ッ!」


 引き抜けずとも、こうしておけばこれ以上の侵入を食い止めることはできる。それよりも少女は、身内を侮辱した女へと怒りの炎を差し向けて唸った。


「あたしの兄はね……とても諦めが悪い人なの。ミクト杉みたいにまっすぐで、バラデン葦みたいに頑固。やるって決めたら絶対に諦めない……手に血豆が出来たって、目をつけた木が倒れるまで何度だって斧を振るうわ」

「そ、それが何だと言って」

「だから、必ず来てくれる。だって――」


 多くの力が加わり、杖がミシリと軋む。先に振るった際に砕けた箇所でもあったのか、エルシーの手を尖った木片が刺した。にじみ出る血ですべりそうになりながらも手は離さず、少女はますます語気を強めて叫んだ。


「ぶっきらぼうで、不器用だけど! 誰よりも強くてかっこいい――最高のお兄ちゃんなんだからぁーーッ!!」


 慟哭と共に落ちた涙のしずくが床を打った、その刹那。

 少女の背後にある窓から差し込んでいた月光が掻き消え、低い声が響いた。



「オレの妹から離れろ。このクサレくそババア」


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